花囲い
井𡈽くんは「付き合っています」とは一度も言っていない。「沙羅さんが僕を好きです」とも言っていない。
彼はいつも曖昧だった。相手が都合よく解釈できる程度にだけ、情報を置いていく。
そして、人は勝手に物語を完成させる。
「まあ訂正もしなかったけど」
その一言で、私は初めて理解した。井𡈽くんは、人の思い込みを利用している。
誰かを騙すためではない。自分の望む結論へ、周囲が自分からたどり着くように。
それが一番疑われない方法だから。
私は一歩後退る。井𡈽くんは二歩距離を詰めた。橋の欄干に手をついて私を閉じ込める。彼は静かに言った。
「僕のそばにいた方がみんな安心するよ」
「……なにを、」
「沙羅さんも、そのうち悪夢を見なくなる」
その言葉に、背筋が冷えた。私が悪夢を見ていることを知っているのだ。知っていて、私を追い詰めて、逃げられなくしている。
井𡈽くんはただ穏やかに笑っていた。私はその笑顔を見ながらようやく悟る。
井𡈽くんは、私を閉じ込めようとしているのではない。私がどこへ行っても、誰に何を話しても、「井𡈽くんはいい人」という答えしか返ってこない世界を作っている。
その世界が完成したとき、私がなにを叫んでも、きっと誰も助けてくれない。