来たれ、筋肉っ!~蓼食う虫も好き好きです~
副社長のメランコリー・デー
名取鷹一、30歳。性別・男。名取建設・副社長。
そう、三十歳。先月に迎えた誕生日で俺はついに三十路に入ってしまった。
男は三十からが勝負で年を重ねれば重ねる程魅力が増し価値ある存在になってゆくのだと臆面もなく主張する輩もいるが、そんなものどうやって年月を重ねて来たかによるとしか言いようがない。
何も行動しないままただ漠然と時を過ごしているだけでは、変化など起こっている筈も、起こる筈もない。
「はあああああ……っ」
事務室を出て副社長室に戻りプライベートな空間が出来てすぐ――椅子にどかりと腰を下ろして、俺は盛大なため息をついた。
(結局今日も微笑みかけるだけで終わってしまった……)
自分の情けなさに自己嫌悪し、本気で涙が出そうになる。
相手は愛田愛里。入社して一年足らずの事務員。
彼女の性格は一言で言えば純粋。真っ直ぐで素直。
――そんな彼女に俺は今、猛烈に片思いをしている。
とにかく俺なりにあの手この手を使ってアプローチをしているつもりだが(俺にしてみれば本当に頑張っている方だと思う)、全く彼女には響かず届かず――つまり関係の進展が全くないまま、もうすでに約一年三カ月近くが経とうとしていた。
その間に他の女性にアプローチを受けた回数は星の数。なのに肝心の彼女との関係はこの有様でもう笑いにもならない。
まさか自分がこんな悩みを抱えるなんて。
昔から仕事が好きで一番やりがいを感じていたし、特定の異性にハマるなんて事態、想像もしてなかったのだ。彼女に会うまでは。
(参ったな……)
今まで付き合って来た女性のように見た目や肩書きなどに着目してくれる相手であれば攻略もしやすかっただろうが、彼女に限っては全くそうではないから実に厄介だ。
何せ彼女が興味ある、唯一絶対の基準は『筋肉』。
ただそれのみで、俺は今、多分人生最大の壁にぶち当たっている。
ピンチだ。間違いなくピンチだ。
俺は自分がほとんどの分野において高得点の人間であるという自負はある(自惚れている訳じゃない。客観的に見て事実としてそう思うだけだ)。
――だけど唯一、筋肉はあまりない。
彼女の恋愛対象条件を知ったすぐその日にスポーツジムに入会し現在も忙しい時間の合間をぬって足しげく通っているものの、残念ながら今の所、多少身体が引き締まった位の効果しか得られていない。
『筋肉って、どうしても体質上付きにくい人もいるんですよ』
と、専属トレーナーに言われて軽く絶望したのは約半年程前。
ショックが顔に出ていたのか、その後気を利かせて『いや大丈夫です、時間がかかるというだけで、努力次第で少しづつ確実に変わってはいきますから』などとフォローをしてくれたが、しっかりダメージを受けていた俺の心にそんな上っ面な言葉が刺さる訳もなく、あの時はひたすらヘコんだ。
筋肉をつけるには時間がかかる。それを今身に染みて実感している。
(いい加減俺に来いよ、筋肉)
一応、学生時代にはテニス部に所属していた。タイムスリップ出来るなら、いいから黙ってもっとまじめに部活をやれ、どんな方法でもいいから筋肉をつけておけ、と声を大にしてあの頃の自分にアドバイスしてやりたい。
お前が将来好きになる唯一の女性は筋肉にしか興味がないぞ! と。
飲み会の時に盛り上がって『好きな男性のタイプは?』という話になってしまった時、『私、筋肉のある人です! 筋肉のある人が好きなんです!!』と公の場で断言してしまうような人間なんだぞ! と。
彼女の熱弁ぶりは周りを一瞬引かせて一周回って爆笑を誘っていたな――と、あの時の事を思い出して、俺はふっと一人、笑みを零す。
初対面で感じた印象そのままの人間で、それが理由で彼女に好感を持った記憶も、付随して蘇って来た。
(出会いは結構ドラマチックで良かったと思うんだが……)
そう、彼女と初めて出会ったのは二年前の、うちの会社の面接日。
あの日の彼女は、顔面を蒼白にさせて、世界の終わりを見ているかのような表情で会社のドアの前を歩いていた。
もしかして体調でも悪いのかと声を掛けて詳しく話を聞いてみると、
『昨日の夜、緊張して眠れなくて。気を紛らわそうと動画サイトで筋肉を見ていたら、アラームをかけないままそのまま寝落ちしてしまって。面接時間に遅刻してしまって』
と、少し涙で潤んだ目で返答され、そのあまりにも直球で正直な嘘偽りなさすぎる理由と答えに――俺はその時不覚にも大笑いしてしまったのである。
あんなに笑ったのは本当に学生時代以来で、その礼の意味も込めて、俺はほんの少しだけ彼女に手を貸してやることにした。
もちろん合否にまでは口を挟まなかったから、彼女にどんな結果が出たのかまでは把握してなくて。
『どうだったんだろうか。うちは無理だったとしてもちゃんと別の所から内定が貰えたのだろうか』
なんて心配に似た疑問がずっと頭から離れてなかったから、入社式で彼女の姿を見かけた時は、思わず口元が緩んだ。
――よかった。無事、うちに入社出来たんだな。
そう思った時、想像していたよりもずっと自分の脳内が彼女で埋め尽くされていたんだと気付いた。
そして俺はその時点で、余りにも理解不能で勝率の低い戦いに、既に足を踏み込まされていたのだ。
ここまで来たら、もう逃げる訳にはいかない。逃げれない。
(戦うしかない)
かなり分は悪いが、少なくとも彼女の筋肉フェチをこの会社の中で誰よりも一番早く知っていたのは、おそらく自分なのだ。
そう思うだけで、優越感にも似た感情が少しづつ込み上げてきて、気持ちを持ち直せる。
いや、それだけの事で? と言われても仕方ないが、この位は許して欲しい。
何せ、彼女は徹頭徹尾の筋肉フェチ。俺にとっては難攻不落の城砦なのだから。
(さて、どうするか)
何せ今まで自分から攻めに行った経験が無いものだから、こういう時どうすればいいのかが分からない。
強引にいくのは昔から苦手だ。
下手をすればこのご時世、そんなものはハラスメントにもなりかねないし、そもそも彼女に嫌われてしまっては元も子もない。
かといってこのままのんびり構えていると間違いなく、可愛すぎる彼女はいずれ誰かに横から掻っ攫われてしまうだろう。
はあ、とまた一つ、深い息を吐く。
何度も言うが、俺は三十歳。世間的に見たら俺は普通に立派に『おじさん』の部類だ。彼女に恋愛対象として入っていられるタイムリミットは短い。
いや、年齢以前に筋肉が無い時点で対象外になってしまってるのは重々分かっているが。予測できるのだが。
とにかくもうスタートを切って、彼女との関係を進展させなければいけない。
(明日こそはもっと話をする、彼女との距離を何としても詰める)
顔を上に向けて焦点の定まらない目で室内の白い天井を見つめながら、俺は決意を新たにする。
――この時の俺は、本当に想像以上に手をこまねいていられない事態が発生している事を、まだ露ほども知らずにいたのだった。
そう、三十歳。先月に迎えた誕生日で俺はついに三十路に入ってしまった。
男は三十からが勝負で年を重ねれば重ねる程魅力が増し価値ある存在になってゆくのだと臆面もなく主張する輩もいるが、そんなものどうやって年月を重ねて来たかによるとしか言いようがない。
何も行動しないままただ漠然と時を過ごしているだけでは、変化など起こっている筈も、起こる筈もない。
「はあああああ……っ」
事務室を出て副社長室に戻りプライベートな空間が出来てすぐ――椅子にどかりと腰を下ろして、俺は盛大なため息をついた。
(結局今日も微笑みかけるだけで終わってしまった……)
自分の情けなさに自己嫌悪し、本気で涙が出そうになる。
相手は愛田愛里。入社して一年足らずの事務員。
彼女の性格は一言で言えば純粋。真っ直ぐで素直。
――そんな彼女に俺は今、猛烈に片思いをしている。
とにかく俺なりにあの手この手を使ってアプローチをしているつもりだが(俺にしてみれば本当に頑張っている方だと思う)、全く彼女には響かず届かず――つまり関係の進展が全くないまま、もうすでに約一年三カ月近くが経とうとしていた。
その間に他の女性にアプローチを受けた回数は星の数。なのに肝心の彼女との関係はこの有様でもう笑いにもならない。
まさか自分がこんな悩みを抱えるなんて。
昔から仕事が好きで一番やりがいを感じていたし、特定の異性にハマるなんて事態、想像もしてなかったのだ。彼女に会うまでは。
(参ったな……)
今まで付き合って来た女性のように見た目や肩書きなどに着目してくれる相手であれば攻略もしやすかっただろうが、彼女に限っては全くそうではないから実に厄介だ。
何せ彼女が興味ある、唯一絶対の基準は『筋肉』。
ただそれのみで、俺は今、多分人生最大の壁にぶち当たっている。
ピンチだ。間違いなくピンチだ。
俺は自分がほとんどの分野において高得点の人間であるという自負はある(自惚れている訳じゃない。客観的に見て事実としてそう思うだけだ)。
――だけど唯一、筋肉はあまりない。
彼女の恋愛対象条件を知ったすぐその日にスポーツジムに入会し現在も忙しい時間の合間をぬって足しげく通っているものの、残念ながら今の所、多少身体が引き締まった位の効果しか得られていない。
『筋肉って、どうしても体質上付きにくい人もいるんですよ』
と、専属トレーナーに言われて軽く絶望したのは約半年程前。
ショックが顔に出ていたのか、その後気を利かせて『いや大丈夫です、時間がかかるというだけで、努力次第で少しづつ確実に変わってはいきますから』などとフォローをしてくれたが、しっかりダメージを受けていた俺の心にそんな上っ面な言葉が刺さる訳もなく、あの時はひたすらヘコんだ。
筋肉をつけるには時間がかかる。それを今身に染みて実感している。
(いい加減俺に来いよ、筋肉)
一応、学生時代にはテニス部に所属していた。タイムスリップ出来るなら、いいから黙ってもっとまじめに部活をやれ、どんな方法でもいいから筋肉をつけておけ、と声を大にしてあの頃の自分にアドバイスしてやりたい。
お前が将来好きになる唯一の女性は筋肉にしか興味がないぞ! と。
飲み会の時に盛り上がって『好きな男性のタイプは?』という話になってしまった時、『私、筋肉のある人です! 筋肉のある人が好きなんです!!』と公の場で断言してしまうような人間なんだぞ! と。
彼女の熱弁ぶりは周りを一瞬引かせて一周回って爆笑を誘っていたな――と、あの時の事を思い出して、俺はふっと一人、笑みを零す。
初対面で感じた印象そのままの人間で、それが理由で彼女に好感を持った記憶も、付随して蘇って来た。
(出会いは結構ドラマチックで良かったと思うんだが……)
そう、彼女と初めて出会ったのは二年前の、うちの会社の面接日。
あの日の彼女は、顔面を蒼白にさせて、世界の終わりを見ているかのような表情で会社のドアの前を歩いていた。
もしかして体調でも悪いのかと声を掛けて詳しく話を聞いてみると、
『昨日の夜、緊張して眠れなくて。気を紛らわそうと動画サイトで筋肉を見ていたら、アラームをかけないままそのまま寝落ちしてしまって。面接時間に遅刻してしまって』
と、少し涙で潤んだ目で返答され、そのあまりにも直球で正直な嘘偽りなさすぎる理由と答えに――俺はその時不覚にも大笑いしてしまったのである。
あんなに笑ったのは本当に学生時代以来で、その礼の意味も込めて、俺はほんの少しだけ彼女に手を貸してやることにした。
もちろん合否にまでは口を挟まなかったから、彼女にどんな結果が出たのかまでは把握してなくて。
『どうだったんだろうか。うちは無理だったとしてもちゃんと別の所から内定が貰えたのだろうか』
なんて心配に似た疑問がずっと頭から離れてなかったから、入社式で彼女の姿を見かけた時は、思わず口元が緩んだ。
――よかった。無事、うちに入社出来たんだな。
そう思った時、想像していたよりもずっと自分の脳内が彼女で埋め尽くされていたんだと気付いた。
そして俺はその時点で、余りにも理解不能で勝率の低い戦いに、既に足を踏み込まされていたのだ。
ここまで来たら、もう逃げる訳にはいかない。逃げれない。
(戦うしかない)
かなり分は悪いが、少なくとも彼女の筋肉フェチをこの会社の中で誰よりも一番早く知っていたのは、おそらく自分なのだ。
そう思うだけで、優越感にも似た感情が少しづつ込み上げてきて、気持ちを持ち直せる。
いや、それだけの事で? と言われても仕方ないが、この位は許して欲しい。
何せ、彼女は徹頭徹尾の筋肉フェチ。俺にとっては難攻不落の城砦なのだから。
(さて、どうするか)
何せ今まで自分から攻めに行った経験が無いものだから、こういう時どうすればいいのかが分からない。
強引にいくのは昔から苦手だ。
下手をすればこのご時世、そんなものはハラスメントにもなりかねないし、そもそも彼女に嫌われてしまっては元も子もない。
かといってこのままのんびり構えていると間違いなく、可愛すぎる彼女はいずれ誰かに横から掻っ攫われてしまうだろう。
はあ、とまた一つ、深い息を吐く。
何度も言うが、俺は三十歳。世間的に見たら俺は普通に立派に『おじさん』の部類だ。彼女に恋愛対象として入っていられるタイムリミットは短い。
いや、年齢以前に筋肉が無い時点で対象外になってしまってるのは重々分かっているが。予測できるのだが。
とにかくもうスタートを切って、彼女との関係を進展させなければいけない。
(明日こそはもっと話をする、彼女との距離を何としても詰める)
顔を上に向けて焦点の定まらない目で室内の白い天井を見つめながら、俺は決意を新たにする。
――この時の俺は、本当に想像以上に手をこまねいていられない事態が発生している事を、まだ露ほども知らずにいたのだった。