Ironic Honey
 翌朝、用意をして、マンションの下に降りると、とっくに千織さんは来ていた。私に気付くとこちらに近寄り、「おはようございます」というと、そっと鞄を持ってくれる。


「あ…、おはようございます」

「後部座席に置きます。こちらに」


 そう言って助手席のドアを開けてくれた。こんな扱いを受けたことがない。元々自分で何でもやるタイプだったし。だからこそ、なんだかくすぐったい。

 厚意を無碍にするわけにはいかないと、助手席に乗り込む。千織さんは静かにドアを閉めると、後部座席に荷物を置き、運転手席に移る。

 やっぱり圧はある。背丈も大きいし、ガタイもいい。それに合わせ無表情。バーで話していた時は、多少酔っていたからなのか、もう少し柔らかかったのに。

 シフトレバーをドライブに入れると、ゆっくりと車は走り出す。車内にはラジオが小音量でかかっている。その間、私達に会話はない。

 気まずいわけでもないけれど、今は気を紛らわしたいから会話が欲しい。

 何か会話をしようと「あの…、千織さんは…」と話し出した時に、「千織でいいです」と言葉を重ねた。


「え?」

「夫婦になるわけだし、なんなら敬語もやめよう」

「いきなりハードルが高くありませんか?」


 そう問いかけると、千織さんは少しだけ笑いを零した。あの日の夜以来、この人が笑うのを始めてみたかもしれない。
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