ねえ、はやく降参してよ。 ――同じ苗字になっても、まだ足りない。甘くて焦れったい心理戦を続ける夫婦。
 ◇

『その時』は、無情にもやってくる。

 玄関で、革靴を履く。
 スーツケースのハンドルを握った俺の前に、マナが立った。
 手を伸ばせば届く、たった一歩の距離が、これから途方もなく開いてしまう。
 足が竦みそうだった。

 マナがそっと歩み寄り、腰へ抱きついてきた。
 自分と同じシトラスの香りが、その髪から漂う。

「浮気……しないでね」

 顔を埋めたまま、くぐもった声で呟かれた。
 思わず「あ?」と呆れる。

「それはこっちの台詞」

「するわけないじゃん」

 胸元で、唇を尖らせている。

「したら、地の果てまで追いかけるから」

「こわーい」

 本気の色を混ぜた脅しに、マナは肩を揺らして笑った。
 その振動が、身体へ直に伝わってくる。

「マナは?」

「え?」

「俺が浮気したら、どうすんの」

 意地悪な問いを投げると、「んーそうだなあ」と少しだけ考える素振りを見せた。

「藁人形作って、呪ってやる」

 顔を上げて睨みつけられ、吹き出した。

「なんか、小学生の答えって感じ」

「なによう」

 マナもつられたように笑い出す。
 二人を包む空気が、ふわりと緩んだ。
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