ねえ、はやく降参してよ。 ――同じ苗字になっても、まだ足りない。甘くて焦れったい心理戦を続ける夫婦。
視線が絡み合う。
互いの瞳の奥には、どうしようもない痛みが隠されているのを感じ取った。
吸い寄せられるように、顔を近づける。
重なった唇は、先ほどの笑い混じりの空気とは裏腹に、ひどく切ない熱を帯びていた。
角度を変えて、何度も。
体温と匂いを、細胞の隅々にまで染み渡らせるように。
押し込めたはずの本音が、隙間から零れ落ちそうになるのを堪え、ゆっくりと自分の身体を引き剥がした。
「……じゃあ、行くな」
真鍮のドアノブに手を掛け、ぐっと押し開ける。
「うん、いってらっしゃい。お休みとれたら、遊びに行くから」
いつもの笑顔を見せるマナ。
「嘘くさ」
「本当だって」
『行けたら行く』と言って絶対に実行しない人間の台詞そのもので、逆に笑えた。
「毎日、ちゃんと戸締りして」
「うん」
「他の男に、隙見せんな」
「はあい」
へらへらとする彼女に、軽く睨みをきかせる。
そして、その笑顔が崩れないうちに、重い扉の外に出た。
パタン、と響いた無機質な音が、二人の世界を完全に分断した。