ねえ、はやく降参してよ。 ――同じ苗字になっても、まだ足りない。甘くて焦れったい心理戦を続ける夫婦。
 ◇

 一時間半後。仕上がりに満足してくださったお客様を、エントランスへとご案内する。

「日差しが強いので、気をつけてお帰りくださいね!」

 陽を反射するガラス戸を押し開けながら、そうお声がけした。
 カレンダーは九月も半ばに差し掛かっているというのに、漂う空気はまだ真夏のそれだ。

「はい! 今日はありがとうございましたっ」

 お店に入ってきた時よりも、足取りも表情もずっと軽やかになっている。

「こちらこそ、ありがとうございました!」

 明るい挨拶とともに、深くお辞儀をした。

 自分の手がけた髪型で、誰かの今日が少しだけ前向きになる。
 美容師冥利に尽きる瞬間だ。


 しかし、遠ざかる背中を見送り、ひとり店内に戻るとき。
 緊張の糸がふっと緩むと、冷たくて暗い影が私の心を覆う。
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