ねえ、はやく降参してよ。 ――同じ苗字になっても、まだ足りない。甘くて焦れったい心理戦を続ける夫婦。
 ◇

 そこからは、意識が曖昧だった。

 鞄の持ち手に、握り潰さんばかりの力を込めながらも、気づけば落としていないか焦るほど、無我夢中で街を走り抜けていた。
 間違いなく、これまでの人生で一番速く走った。

 冷たくて湿った空気が、容赦なく肺へ入り込み、圧迫してくるような感覚。
 喉の奥から血の味がする。
 革靴が石畳を蹴る音が、早鐘を打つ心音と重なり、耳の奥で激しく鳴り響いていた。


 マンションのエントランスに着くと、管理人が何かを話しかけてきたけれど、応えられないまま階段を駆け上がる。

 自分の部屋の階に着き、角を曲がった瞬間。
 革靴で、床にブレーキをかけた。


 扉の前に、いたのは――。

 世界でただ一人の、愛しい妻だった。


「えっと……ちょっとだけ、久しぶり」

 照れ隠しのように、はにかんでいる。
 その横には、新しく購入したのか、初めて見るダークグリーンの大きなキャリーケースがあった。
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