ねえ、はやく降参してよ。 ――同じ苗字になっても、まだ足りない。甘くて焦れったい心理戦を続ける夫婦。
 ◇

 色褪せた季節を重ね、やがて就職が決まり、実家を出ることになった。

 段ボールがいくつか積まれた、見慣れたダイニング。
 引っ越し前夜の食卓に、父親の姿はいつも通りない。

 軽い音を立て、缶のタブを開ける。
 コップにも入れないまま、無表情で黄金色の液体を流し込む俺を見て、向かいにいる母親が口を開いた。

「あんたって、なんでビールばっかり飲むの」

「苦くて、不味いから」

「はあ? じゃあ、飲まないでくれる? 高いんだから!」

 大袈裟な溜息をつきながら、母親は『門出だから』と買ってきたデパ地下の惣菜を摘まむ。

「ちゃんと節約しなさいよ? ちょっと良い会社に入れたからって、あんな都会のど真ん中にある部屋なんか選んで……本当に大丈夫かしら」

 色鮮やかなマリネを口に運びながら、ぶつぶつとこぼしている。

 マナが今、どこに住んでいるのかは知らない。
 ただ、働く場所が変わっていないことだけは、サロンのホームページを見て知っていた。
 だから、あの街に部屋を借りた。
 他人が聞けば、ちょっとした恐怖をおぼえるほど、未練がましい理由だろう。

 ふと視線を感じて顔を上げると、母親が箸を止め、じっとこちらを見つめていた。

「遥って……マナちゃんと別れたあと、誰かと付き合ったりしてるの?」
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