ねえ、はやく降参してよ。|同じ苗字になっても、まだ足りない。甘くて焦れったい心理戦を続ける夫婦。【連載中】
第二夜:結局、負けているのはいつも俺の方
「はーい! 帰って、帰ってー」
時計の針が五時半を指した瞬間、上司の乾いた拍手がフロアに響き渡る。
窓の外は、まだ明るい。
火曜日は、どんなに仕事が山積みであろうと、問答無用でオフィスを追い出される。
いわゆるノー残業デーというやつだ。
一日だけ制限をかけたところで、他の日に深夜までPCと睨み合っていては意味がない気もする。
けれど、それが『火曜日』に設定されていることについて、俺は大変満足していた。
◇
ビルを出ると、夏の訪れを知らせる風が肌を撫でる。
足早に駅へ向かう道すがら、あることを思い出して路地裏の茶葉専門店へと入った。
真鍮のカウベルを鳴らして重い木の扉を開けると、そこでは柑橘やスパイス、焙煎された様々な香りが混ざり合っている。
仄暗い店内の壁一面に並んだ瓶を一瞥し、手に取るのはいつも決まって、デカフェのジャスミンティーだ。
家にある分は、先日使い切ってしまったのだ。
レジへ向かうと、柔らかな雰囲気の女性店員が微笑みかけてくる。
包装は不要と伝え、手早く会計を済ませて振り返ったとき、再びカウベルが鳴った。
「あれ? 幹本」
入ってきたのは、会社の先輩だった。
「お疲れ様です」
「ここ、人気なんだろ? 嫁に買ってこいって頼まれてさ。ええと、名前、何だっけな……」
独り言のように呟きながら、鞄のポケットからスマートフォンを取り出す。
「幹本は何にしたの?」
「ジャスミンティーです」
「へえ。洒落てんな」
狭い通路ですれ違いざまに「それじゃあ」と短く会釈し、画面を覗き込む先輩を残して外へ出る。
購入したばかりの茶葉を、鞄の奥へそっとしまった。
茉莉花茶。これは、妻の茉奈が好んで飲むものだ。