伯父の命により、高潔すぎて『聖人』と噂の男の元へ行く事になりました。

8.朝

 梓娟を瞼をひくひくと動かした。
 目を閉じていても感じる程の眩しさにゆっくりと瞼を開けば、視界いっぱいに飛び込んできたのは菩薩の微笑だった。

「おはよう、延芳」

 それは寝起きとは思えない整った容姿だった。
 窓から差し込む眩い光に照らされて、よりきらきらと輝きを放つ眞佳は、梓娟の顔に垂れた髪を掬い上げて優しく耳に掛けた。

「ッ~~~~」

 梓娟はこの状況に朝っぱらから声にならない声を上げていた。

 ──あ、ぁ、あ、あ、あの、蒼眞佳と一夜を過ごしてしまったなんてっ!

 激しく動揺する梓娟に追い打ちをかけるように、昨夜の甘いひと時が頭の中に蘇ってくる。
 耳に甘く囁く熱のこもった声。
 一途に見つめてくる熱い双眸。
 意外にも骨張った大きな手は男らしく、締まった体は逞しく──。
 と、余計な箇所まで思い出してしまいそうになり、真っ赤に茹で上がった顔をふるふると横に振ってそれを消し去る。

 ──聖人だなんて嘘じゃない!使えないって、勃たないって、十分立派なものがあったわよ!それに……。

 ひとり悶々としていると、白く細い肩に青い羽織が掛けられる。掛けてくれたのは既に身なりを整え終えた眞佳だ。
 梓娟は恥ずかしげに眞佳を見上げた。
 乱れ一つなくきっちりと襟を締めた青衣姿には昨夜の余韻は一切感じられない。あまりにも平静とした様子に、この寝台の上で自分を抱いた人と同じ人ではないのではないのかと疑ってしまう。

「延芳、体は大丈夫かい?辛くはないか?」
「え!?ぁ…⋯ぇ、えぇ」
「そうか、だが無理はしない方が良い。昨夜は君を散々と付き合わせてしまったからね」

 ──……ええ、それはもう、本当に。

 梓娟の目はどこか遠くを見つめていた。
 聖人と呼ばれた蒼眞佳は、尋常ではない性欲と体力の持ち主だった。
 決して乱暴ではないが、絶えず梓娟を求め続け、終わることのない責め立てについに気を失ってしまった程だ。
 今も全身が悲鳴を上げて動けず、はぁ、と重い息を吐いた頃、扉がドンドンと激しい音を立てた。

「おい、眞佳!何があった!」

 その声は蒼晏のものだった。

「結界に気づかれてしまったか。延芳はここにいなさい。ここならば扉から見えない」

 幸いこの広い部屋は、寝室が壁で区切られており、扉の方からは寝台が見えない造りになっている。なので今の梓娟の姿は蒼晏に見られる事はない。
 眞佳は梓娟を安心させるように微笑むと、壁の向こうへと消えていった。
 梓娟が羽織る青衣を胸元を引き寄せるようにぎゅっと握り締めていると扉が開く音が聞こえた。

「晏兄上、朝からあまり騒ぎ立てるのは……」
「誰が煩いだ!」

 良くない、とでも言おうとしたのか。そんな眞佳の声を遮る蒼晏の声は珍しく荒々しいものだった。

「あのな、何もないなら結界を張るのは止めろ!宿で術の気を感じれば何があったのかと心配になるだろ!」

 ──結界?……そういえば部屋に入る時に感じた風。あれは結界の気だったの?気づかなかったわ。

 梓娟はまたしても自分の未熟さに情けなさを感じて肩を落とす。

「それはすまない、次からは気をつけよう」
「何を気をつけるって──おい、待て。何で酒を飲まないお前の部屋に酒瓶がある?おまけに杯が二つだと?」

 昨夜、眞佳は酒を飲まないと言っていた。そんな眞佳の部屋の机に置かれたそれに、蒼晏はこの状況をますます怪しんでいた。
 彼は噂の地獄耳の他にも、中々目ざとく、そして頭の回転も早いようだ。
 つかつかと足早に歩く靴音が聞こえてくる。蒼晏が部屋の中に入って来てしまったようだ。
 やばい、と焦るあまり思わず寝台に手をつけば、運の悪い事に、寝台が軋む音を立ててしまった。

「……誰かいるのか?」

 軋む音は決して大きな音でも無かったが、この些細な音に気付いてしまった。どうやら蒼晏の噂の地獄耳は本当のようだ。
 靴音は方向を変え、こちらに向かってくる。

 ──ど、どうしよう……。

 羽織りをぎゅっと握りしめる梓娟の顔は真っ青になっていた。

「──そちらには行かせない」

 しんとなった部屋に眞佳の声がやけに響いて、直後靴音がぴたりと止まった。

「……お前正気なのか?」

 蒼晏の声から緊迫とした空気が伝わってくる。部屋に流れる空気もどこか冷ややかで、背筋にぞくぞくと寒気が走った。

「晏兄上がそちらに向かうと言うのならば──」

 昨日街道で感じた強い気が、壁の向こうから流れてきて梓娟の長い髪をゆらゆらと揺らしていた。
 二人の状況は分からないが、しかし眞佳が霊力を使おうとしているのが分かった。

 ──何でそんな展開になるの!?

 このままでは不味いと察した梓娟は体中痛むのを堪えて声を張り上げた。

「し、眞佳様!」

 名を呼ぶと張り詰めていた気は緩んで、その代わりと風が梓娟の頬を撫でる。まるで梓娟を安心させるような、そんな優しい風だった。

「……この声は」
「晏兄上、出ていて貰えるか?彼女が困ってしまう」

 遮るように声を上げた眞佳の言葉に、蒼晏がどんな顔をしているかは分からない。しかし少し間があいて、その後扉が開く音が聞こえた。
 どうやら蒼晏は部屋を出ていったようだ。
 今度はゆっくりとした歩調の靴音がこちらに向かってくる。この特徴的な歩調は誰の物か瞭然で、この音に不思議と緊張の糸が解けていく。
 だが今の自分の姿を思い出して梓娟はハッとする。

「眞佳様、待ってください!」
「……延芳?」
「…⋯着替えをしたいのでこっちには来ないで」
「それは、気を遣えずすまない」

 くすりと笑う声が聞こえて、続いて椅子を引く音が聞こえた。
 状況がおかしな方向に転がっている気がして、梓娟は頭にずきずきとした痛みを感じた。
 
 ──こんな筈ではなかったのに……。

 そう思いながら、辺りに散らばる衣をかき集め始めた。

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