陽炎に揺れる夢
撮影は、ガチガチの空気のまま始まった。

朝比奈君が椅子に座り、私はその隣で、カメラに背を向ける形で立っている。

ドラマなんかでよく見る撮影風景では、カメラマンが「いいよ、いいよ」なんて声をかけながらシャッターを切っているけれど、ここではシャッター音以外、何も聞こえなかった。

もしかしたら、事前に三枝さんが「声をかけないでほしい」と、カメラマンに頼んでくれていたのかもしれない。

全くポーズを変えることなく、淡々と時間は流れていく。

それでも、何となくこの空気にも慣れてきた私は、朝比奈君に小さな声で話しかけた。

「朝比奈君、さっき三枝さんから『ケイ』って呼ばれてなかった?」

確か、『ケイ、行ってこい』って声をかけられていた気がする。

朝比奈君は、少しだけ驚いたように私を見上げた。

「……緊張してしまう朝比奈 彗(あさひな すい)じゃなくて、自分は別人なんだって思えるように、三枝さんと話して、モデルの時は“彗(ケイ)”にしようって決めたんだ」

一度、言葉を切って、彼は小さく息を吸う。

「ケイはモデル」

「彗(すい)じゃない。……そう思うようにしてる」

なるほど。名前を変えることで、素の自分ではない別の人格を作ることになるかもしれない。

今までの自分に縛られなくてすむ。

「そういう遠野さんは?」

「えっ?」

「ボータン。どういう意味なの?」

「ボー・タンってね。フランス語で『良い天気』っていう意味なの」

「私の名前の『日和』から、考えたんだよ」

「そうなんだ。遠野さんにピッタリの名前だね。日和。とても、暖かくて、優しい」

そんなことを言われたのは初めてで、胸がじんわりと温かくなり、涙が滲んだ。

「ありがとう。嬉しい。」

私を照らしている照明とは違う、身体の中から光が外へ向かって溢れていくような感覚になった。

ゆらゆらとうっすら揺れていた陽炎は、今はもうほとんど見えない。

私たちは、鮮明になった景色の中で、優しく揺れる菫の花のように、美しく花びらを開いているようだった。

私たちの雰囲気が変わったのがわかったのだろう。

カメラマンが、

「それじゃあ、ケイ、立ち上がってみようか」

「そう、そう。いいよ」

と声をかけた。

今までの静寂とは打って変わって、ここぞとばかりにケイを褒めている。

その急な変わりように、思わず吹き出してしまった。

朝比奈君もつられて吹き出し、私たちはカメラの前であることを忘れて、自然に笑っていた。

それから、朝比奈君は椅子を使って、いくつものポーズを取り始めた。

今日まで、きっとポージングのレッスンも受けてきたのだろう。

動きはとても滑らかで、次々と自然に形を変えていく。

私は呆然と立ったまま、朝比奈君を見つめ続けていた。

「遠野さん」

急に呼ばれて、思わず振り返る。

カシャッ。

私の顔も、フレームに収まってしまった。

カメラマンが言う。

「遠野さん、とっても可愛いよ。このまま、ここのモデルとして所属してくれればいいのに」

さすが、被写体をその気にさせるのが仕事の人だ。お世辞も上手い。

私は思いきり、ぶんぶんと首を横に振った。

「遠野さん、首、取れちゃうよ」

そう言って、朝比奈君は笑いながら、私の頭を片手で押さえた。

そのままの状態で、私は朝比奈君を見上げる。

「カメラマンさん、本気で言ってると思うよ」

そう言って、彼は優しく微笑んだ。
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