『黒薔薇館の十三夜』

第三章 閉ざされた廊下

 コン、コン。

 静まり返った部屋に、二度だけ響くノック。

 美咲はベッドの上で体を強張らせた。

「……朝倉さん。」

 少女の声が、もう一度聞こえる。

 透き通るようにか細く、それでいてどこか悲しげな声だった。

 美咲は恐る恐る扉へ近づく。

 ドアノブに手を伸ばしかけた、その時だった。

 ――『午後九時以降は、決して部屋からお出になりませんよう。』

 霧島の言葉が頭をよぎる。

 ただの注意とは思えない、あの真剣な表情。

 美咲は伸ばしかけた手を引っ込めた。

「……誰、ですか?」

 震える声で問いかける。

 返事はない。

 耳を澄ますと、廊下の向こうへ歩いていくような足音だけが聞こえた。

 ギシ……。

 ギシ……。

 やがて、その音も遠ざかり、館は再び静寂に包まれる。

「夢……じゃないよね。」

 美咲はドアスコープを覗いた。

 薄暗い廊下には、誰の姿もない。

 ほっと胸をなで下ろした、その瞬間。

 廊下の突き当たりにある窓の前を、黒い影が横切った。

「……っ!」

 美咲は思わず息を呑む。

 長い髪。

 黒いドレス。

 昨日、結衣が見たと言っていた少女と同じような姿だった。

 しかし次の瞬間には、影は跡形もなく消えていた。

「そんな……。」

 美咲は慌ててカーテンを閉め、ベッドへ戻った。

 その夜はほとんど眠ることができなかった。

 ◇

 翌朝。

 窓から差し込む柔らかな光に、美咲はゆっくり目を覚ました。

 昨日の激しい雨が嘘のように空は晴れ渡り、庭の黒い薔薇が朝露をまとって輝いている。

 時計は午前七時半。

 恐る恐る部屋を出ると、廊下にはすでに悠斗が立っていた。

「おはよう。……寝不足?」

 美咲は苦笑する。

「顔に出てる?」

「思いっきり。」

 その時、隣の部屋から結衣も出てきた。

 彼女もどこか疲れた表情をしている。

「結衣、大丈夫?」

「……昨日、私も聞いた。」

「何を?」

「足音。」

 三人の表情が変わる。

「誰かが廊下を歩いてた。」

「やっぱり……。」

 美咲は昨夜の出来事を話した。

 少女の声。

 ノック。

 黒い影。

 話を聞き終えた悠斗は腕を組み、小さくうなった。

「偶然じゃないな。」

 そこへ蓮、大翔、紗奈、健人も集まってくる。

「なんだ、朝から深刻そうな顔して。」

 大翔が笑いながら近づいたが、美咲たちの話を聞くうちに、その笑顔は消えていった。

「俺も夜中に目が覚めた。」

 健人が口を開く。

「誰かが階段を上り下りしてる音がした。」

「俺も聞いた。」

 蓮も続ける。

「でも部屋は出なかった。」

 七人全員が顔を見合わせた。

 昨夜、誰一人部屋を出ていない。

 なのに足音を聞いている。

「じゃあ……誰が歩いてたんだ?」

 誰も答えられなかった。

 ◇

 朝食の席でも重たい空気は続いていた。

 霧島は何事もなかったかのように紅茶を注いでいる。

「霧島さん。」

 美咲は意を決して尋ねた。

「昨日の夜、誰か廊下を歩いていましたよね?」

 霧島の手が一瞬だけ止まる。

「いいえ。」

「でも私たち全員……。」

「聞き間違いでしょう。」

 淡々とした返答だった。

「この館は古く、風が吹くと木材が軋みます。」

「それだけじゃ説明できません!」

 思わず声を荒らげる美咲。

 しかし霧島は穏やかな笑みを崩さない。

「朝食の後は、ご自由に館をご見学ください。」

 まるで質問そのものをなかったことにするようだった。

 ◇

 朝食を終えた七人は館の探索を始めた。

 三階へ続く階段。

 書斎。

 音楽室。

 温室。

 どの部屋も立派で、まるで美術館のようだった。

 しかし、不思議なことが一つあった。

 二階の廊下の奥に、一本だけ鍵の掛かった扉がある。

 重厚な鉄製の鍵。

 扉には古びたプレートが付いていた。

 「立入禁止」

「昨日は気づかなかったな。」

 悠斗がプレートを指でなぞる。

「何があるんだろう。」

 大翔がノブを回す。

 ガチャ。

 開かない。

「当然か。」

 蓮は扉を軽く叩く。

 コン……コン。

 その瞬間だった。

 ――コン。

 中から、誰かが叩き返した。

「え……?」

 七人の動きが止まる。

 もう一度。

 コン。

 確かに、扉の向こうから音が返ってきた。

 紗奈の顔が青ざめる。

「誰か……いるの?」

 返事はない。

 館は静まり返っている。

「おい、霧島さん!」

 悠斗が大声で呼ぶ。

 だが返事はなかった。

 もう一度、蓮が扉を叩く。

 コン。

 しかし今度は何も返ってこない。

「聞き間違い……?」

 誰もそうは思えなかった。

 その時だった。

 廊下の向こうから霧島が静かに歩いてくる。

 その表情からは感情がまったく読み取れない。

「皆様。」

 霧島は鍵の掛かった扉の前で立ち止まった。

「この部屋には近づかないでください。」

「中に誰かいるんですか?」

 健人が尋ねる。

 霧島はゆっくり首を横に振る。

「……誰もおりません。」

「じゃあ、さっきの音は?」

「館は時々、不思議な音を立てます。」

 そう言って鍵を確認すると、霧島は七人を見渡した。

 その目は初めて、穏やかさではなく警戒を宿していた。

「どうか、この館のルールだけは守ってください。」

 そう言い残し、霧島は去っていく。

 七人は誰一人、その場を動けなかった。

 そして美咲は気づいてしまう。

 霧島が確認した鍵は、最初から開いていた形跡があったことに。

 鍵穴の周りには、新しく付いた無数の擦り傷。

 まるで最近、何度も誰かが無理やり開けようとしたかのように――。

 美咲はその傷から目を離せなかった。

 この館には、まだ誰も知らない秘密が隠されている。

 そんな予感だけが、胸の奥で静かに膨らんでいった。
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