君島准教授、ちょっといいですか。

第12話 何者にもなれなかった卒業生

はあぁ。
外の空気を吸って深呼吸をした。
生き返る。
……やっと、ひとりになれた。
どこに行こう。
自分の気分で行きたいところを決められるって、なんて贅沢なの。
子どもが生まれるまでは当たり前のことだったのに。
今じゃ思いとおりになることなんてない。
もはや、何かをしたいと思わない方がラクなんだ、という境地にさえいる。

今日は夫が子どもを見てくれると言ってくれた。
突然できた私の午後の半休。
ふいに自由になれるとどう動けばいいのかわからない。
とりあえず。
子連れでは行けないところに行こう。
思い浮かんだのは、大学近くの喫茶店だった。
大学生の頃、よく行ってたあのお店。
ふとあの頃の景色が蘇る。
その景色の中に、たまに君島先生がいた。
久しぶりに思い出した。
初めて君島先生を見た時、「かっこいい先生だな」と思ったこと。
ゼミのみんなで先生を誘ってご飯を食べに行き、どうでもいい話で笑ったこと。
研究室で淹れてもらったコーヒーを飲みながら、将来のことを話したこと。
あの頃の私は、未来を疑っていなかった。
その眩しさが、今の私には少しちくりとした。

喫茶店の前に立つ。
何年ぶりだろう。
扉を開けると、カランコロンとドアベルが鳴った。
店内はあの頃のまま何も変わっていなかった。
ここだけ時間が止まっているようだった。
「あ」
その声は私の声と重なった。
カウンター席に君島先生がいた。
その姿に胸がきゅっとした。
思い出が一気に色鮮やかになる。
「隣、いいですか?」
「どうぞ」
「ありがとうございます」
「久しぶりだね」
「はい」
「家、この辺なの?」
「少し離れてます」
「そうなんだ」
「今日は夫が子どもを見てくれてて。子連れじゃ行けないところに行きたくて」
「お子さんがいるんだね」
「はい」
私は一瞬目を伏せた。
「なに飲む?」
「え?あぁ」
君島先生は私にメニューを手渡した。
コーヒーの銘柄が書いてあるメニューを見て、自分が大人の女性だったことを思い出す。
急いで決めなくていいんだ、今日は。
結局、当時よく飲んでいたオリジナルブレンドにした。

「元気にしてた?」
君島先生の何気ない問いに即答できず、
「ぼちぼちですかね」
と少し笑った。
「お子さん、いくつなの?」
「1歳です」
「そう」
私は小さく息を吐いた。
「子育てって思ってたより全然ハードですね。毎日気が抜けないです」
「そっか」
「夫は遅くまで仕事してるから、ワンオペで。深呼吸できるの、子どもが寝てる時だけです」
「大変そうだね」
「大変ですね」
変な謙遜をせず素直に言えた。
「先生は?」
「え?」
「毎日どんな感じですか?」
「僕?僕はあの頃となんにも変わらない」
そう言って君島先生は笑った。

「どうぞ」
喫茶店のマスターは君島先生の前にカフェオレを置いた。
「ありがとう」
「こちらはオリジナルブレンドです」
そして私の前にもそっと置いてくれた。
「ありがとうございます」
ああ、懐かしい。
一人ひとり違うコーヒーカップがおしゃれだなぁ、って思ったんだよね。
お店の食器って、揃ってるものって思ってたから。
ゆっくりと大人の味を口に含む。
体に染み渡った。
「……いいな」
先生は充実してそうで。
「え?」
「あ、いえなんでも。先生、お元気そうで良かった」
コーヒーに目を落として、少し笑ってごまかした。
「うん、元気」
君島先生はカフェオレをひと口飲んだ。
その穏やかな横顔を見ていると、胸の奥に押し込めていたものが少しずつ溢れてきた。
「……先生」
「ん?」
「私……何者にもなれませんでした」
そう言って苦笑した。
「え?」
「友達はみんなキャリア積み上げて毎日充実してるのに。私は、妊娠して体調悪くなってしまって、結局仕事辞めて」
「……」
「毎日アパートの中で子どもとふたりきりで1日が終わっていく」
「うん」
「毎日残業の夫すら羨ましい」
「え?」
「夫は社会と繋がってるから」
「……」
「かと言って、私は体力があるタイプでもないから、この状況で正社員やる自信もないし」
「うん」
「だから……」
私は息を吐いた。
「あ、私、何者にもなれなかったんだ、って」
カップを両手で包んだ。
君島先生は何も言わなかった。
しばらくカップを見つめ、
「……そうなの?」
とだけ言った。
「自分で選んだ人生だから、まあ、仕方ないんですけど」
私は苦笑するしかなかった。
君島先生はカップに視線を落としたまま、
「……子どもは、かわいい?」
思いがけない質問だった。
「え?」
「かわいい?」
「……はい」
私は少し笑った。
「もちろん、かわいいです」
「そう」
「でも、それとこれとは別なんです」
「うん」
「妻にもなれたし、母親にもなれたけど」
私は目を伏せた。
「……私自身は、どこに行っちゃったんだろうって思う時があるんです」
君島先生は黙ったままカップを見つめていた。
「友達は今日だって働いてる子がいるのに」
「うん」
「私は今日、久しぶりにひとりでコーヒーを飲めただけで嬉しくて」
「うん」
「あ、なんか、かけ離れちゃったな、って」
君島先生は何も答えなかった。
頬杖をついたまましばらく考え込んでしまった。
「ごめんなさい、なんか暗い話になっちゃいました」
「あ、いや」

私はその後、
「そういえば先生の研究室、あのままですか」
なんて言いながら、敢えて思い出話ばかりをした。
君島先生は何も言わなかった。
ただ、何事もなかったように思い出話に付き合ってくれた。

私はぬるくなった最後のひと口を飲み干した。
「先生、そろそろ行きますね」
「うん」
「ここに来てよかった。先生にも会えたし」
「光栄です」
そう言って君島先生は胸に手を当てた。
「先生」
「ん?」
「お元気で」
「君も、元気で」

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