君島准教授、ちょっといいですか。
第13話 そのままの先生
カランコロンーー。
店を出て行く彼女の背中を見送った。
『先生……私、何者にもなれませんでした』
さっきの彼女の言葉が、まだ耳に残っていた。
夫。
子ども。
あの子は自分で選んだ人生を歩いている。
それなのに。
「何者にもなれていないのは……僕の方じゃないか」
喫茶店のマスターは何も言わず2杯目をカウンターに置いてくれた。
「ありがとう」
そう言うとマスターは小さく微笑んだ。
マスターは何も聞かない。
ただ、カップが空になる頃になると、いつも静かに次の一杯を置いてくれる。
その距離感が心地よかった。
ーー若い頃の僕は。
恋愛をして、結婚をして。
そんな人生を歩むものだと漠然と思っていた。
だけど。
好きになったのは男だったから。
恋愛は、いつも始まる前に終わっていた。
そんな頃、家庭教師の直海さんと出会った。
直海さんは僕のことをいつも『リン』と呼んだ。
『麟太郎くんなら、リンだね』
家庭教師初日にそう言われた。
距離を詰めるのが早い人だな、と思ったけど、嫌じゃなかった。
問題に正解するとノートいっぱいに大きな花丸を書いてくれた。
あれがけっこう嬉しかったっけ。
問題を解き終えると一緒にカフェオレを飲んで。
どうでもいい話で笑って。
あの人といる時間は心地よかった。
だけど、その時間は長く続かなかった。
直海さんは留学して。
僕は大学生になって。
気づけば連絡は途絶えていた。
大学に入っても、自分がどんな人生を歩むのか見えなかった。
周りは就職や恋愛の話をしているのに、僕だけ時間が止まったような気がしていた。
そんな不器用な時間を、何年も過ごした。
このまま、ひとりで歳を重ねていくんだろう。
そんなことを思い始めていた頃だった。
音信不通になってから十数年経っていた。
僕が講師を依頼された市民講演会の控室に、
「やあ、リン」
と、あの人は何事もなかったようにやって来て笑った。
あの日から、僕たちは時々会うようになった。
喫茶店でカフェオレを飲んで。
本屋をぶらぶら歩いて。
適当な店でご飯を食べる。
特別なことなんて、何ひとつない日々だった。
若い頃の僕は、「普通の幸せ」に憧れていた。
結婚して。
家族がいて。
そういう人生が幸せなんだと思っていた。
でも。
隣で笑ってくれる人がいる。
「またね」と言える人がいる。
今の僕には、それで十分だった。
カフェオレをひと口飲む。
温かさが喉を通っていく。
その時。
カランコロンーー。
「お待たせ」
聞き慣れた声だった。
顔を上げると、直海さんが立っていた。
「待った?」
「今、2杯目」
「好きだね」
「好きだけど」
「なに?」
「別に」
直海さんはさっきまで学生が座っていた席に座り、
「ちょっとさ、あとで電気屋寄ってくんない?」
「いいよ」
「マウスが壊れちゃったんだよ」
「また?使い方が荒いんじゃないの?」
「失礼な」
ふたりで笑った。
直海さんは「待たせたからな」とカフェオレ代を払ってくれた。
なんだかんだ言って直海さんだっていつもカフェオレだった。
「ごちそうさまでした」
マスターは小さく会釈をした。
カランコロン――。
夕方の風が心地よかった。
電気屋に行くといつもちょっとでは済まなかった。
マウスは、
「このくらいのでいいんだよ」
と即決していたけど。
「リン、これ見てみ?」
新型の掃除機。
「これもすごくない?」
今度は自動調理器。
「見るだけだから」
そう言いながら、直海さんはいちいち楽しそうに立ち止まる。
結局いつも、ひとつひとつ説明を読んでしまう。
「ちょっとで終わった試し、ないよね?」
僕がそう言うと、
「楽しいよね」
と笑っていた。
ひととおり家電をチェックして満足した直海さんは、
「夕飯なに食べる?」
と僕を見た。
「なんでもいいよ」
「それ、一番困るやつ」
「じゃあ、直海さんが決めて」
「責任重大だな」
直海さんは腕を組んで少し考え、
「定食にしよ」
と言った。
「結局いつもの店じゃない」
「落ち着くじゃん」
「まあね」
歩きながらふたりで笑った。
いつもの定食屋に入る。
直海さんはおしぼりで手を拭いた。
「今日は魚にしようかな」
「珍しい」
「最近、健康診断引っかかってさ」
「もう若くないね」
「リンには言われたくない」
直海さんは僕を睨んだ。
「そういやあの教育実習の子、どうしたの?」
「あれから話せてないな」
「まあ、不安になるよな」
「そうだね」
「でもその子は多分、大丈夫だと思う、俺」
「僕も」
「俺なんかこの歳になっても、まだ『ああすればよかった』って思う日あるもん」
「わかる」
「今日はあの子元気なかったから、もう少し話聞けばよかったかな、とかさ」
「うん」
「反省ばっかだよ」
僕は直海さんを覗き込み、
「へぇ。ちゃんと先生だね」
「けっこう真面目よ、俺」
「知ってる」
顔を見合わせて笑った。
料理が届くと、ふたりそろって「いただきます」と手を合わせた。
直海さんは味噌汁をすすりながら言った。
「リンさ」
「ん?」
「今日ちょっと元気なかった?」
相変わらずよく見てるな。
「ちょっと学生のこと考えてただけ」
「そっか」
直海さんはそれ以上何も聞いてこなかった。
「全然関係ないけど、俺、昨日スーパー行ったんだけどさ」
「本当に全然関係ないね」
「だから、全然関係ないけど、って言ったじゃない」
「そうだね」
「3個パックのツナ缶が今までで一番安くてさ。買いだめしておこうと思ってカゴに4つ入れてたら、『ひと家族様2つまでなんです』って言われてさ」
「うん」
「リン呼ぼうかと一瞬本気で思った」
「そんなに安かったの?」
「底値だったんだよ」
直海さんは興奮気味に嬉しそうに言った。
その後も僕たちは、明日には忘れてしまうような話ばかりしていた。
笑って。
食べて。
また笑って。
そんな時間が、僕には何より大切だった。
店を出ると、外はすっかり暗くなっていた。
「じゃあ、また」
「うん、また」
直海さんは手をひらひらと振って、いつものように歩き出す。
僕も反対方向へ歩く。
振り返らない。
また会えると知っているから。
このなんでもない時間が、明日も続けばいい。
来週も。
来月も。
その先も。
それだけでよかった。
店を出て行く彼女の背中を見送った。
『先生……私、何者にもなれませんでした』
さっきの彼女の言葉が、まだ耳に残っていた。
夫。
子ども。
あの子は自分で選んだ人生を歩いている。
それなのに。
「何者にもなれていないのは……僕の方じゃないか」
喫茶店のマスターは何も言わず2杯目をカウンターに置いてくれた。
「ありがとう」
そう言うとマスターは小さく微笑んだ。
マスターは何も聞かない。
ただ、カップが空になる頃になると、いつも静かに次の一杯を置いてくれる。
その距離感が心地よかった。
ーー若い頃の僕は。
恋愛をして、結婚をして。
そんな人生を歩むものだと漠然と思っていた。
だけど。
好きになったのは男だったから。
恋愛は、いつも始まる前に終わっていた。
そんな頃、家庭教師の直海さんと出会った。
直海さんは僕のことをいつも『リン』と呼んだ。
『麟太郎くんなら、リンだね』
家庭教師初日にそう言われた。
距離を詰めるのが早い人だな、と思ったけど、嫌じゃなかった。
問題に正解するとノートいっぱいに大きな花丸を書いてくれた。
あれがけっこう嬉しかったっけ。
問題を解き終えると一緒にカフェオレを飲んで。
どうでもいい話で笑って。
あの人といる時間は心地よかった。
だけど、その時間は長く続かなかった。
直海さんは留学して。
僕は大学生になって。
気づけば連絡は途絶えていた。
大学に入っても、自分がどんな人生を歩むのか見えなかった。
周りは就職や恋愛の話をしているのに、僕だけ時間が止まったような気がしていた。
そんな不器用な時間を、何年も過ごした。
このまま、ひとりで歳を重ねていくんだろう。
そんなことを思い始めていた頃だった。
音信不通になってから十数年経っていた。
僕が講師を依頼された市民講演会の控室に、
「やあ、リン」
と、あの人は何事もなかったようにやって来て笑った。
あの日から、僕たちは時々会うようになった。
喫茶店でカフェオレを飲んで。
本屋をぶらぶら歩いて。
適当な店でご飯を食べる。
特別なことなんて、何ひとつない日々だった。
若い頃の僕は、「普通の幸せ」に憧れていた。
結婚して。
家族がいて。
そういう人生が幸せなんだと思っていた。
でも。
隣で笑ってくれる人がいる。
「またね」と言える人がいる。
今の僕には、それで十分だった。
カフェオレをひと口飲む。
温かさが喉を通っていく。
その時。
カランコロンーー。
「お待たせ」
聞き慣れた声だった。
顔を上げると、直海さんが立っていた。
「待った?」
「今、2杯目」
「好きだね」
「好きだけど」
「なに?」
「別に」
直海さんはさっきまで学生が座っていた席に座り、
「ちょっとさ、あとで電気屋寄ってくんない?」
「いいよ」
「マウスが壊れちゃったんだよ」
「また?使い方が荒いんじゃないの?」
「失礼な」
ふたりで笑った。
直海さんは「待たせたからな」とカフェオレ代を払ってくれた。
なんだかんだ言って直海さんだっていつもカフェオレだった。
「ごちそうさまでした」
マスターは小さく会釈をした。
カランコロン――。
夕方の風が心地よかった。
電気屋に行くといつもちょっとでは済まなかった。
マウスは、
「このくらいのでいいんだよ」
と即決していたけど。
「リン、これ見てみ?」
新型の掃除機。
「これもすごくない?」
今度は自動調理器。
「見るだけだから」
そう言いながら、直海さんはいちいち楽しそうに立ち止まる。
結局いつも、ひとつひとつ説明を読んでしまう。
「ちょっとで終わった試し、ないよね?」
僕がそう言うと、
「楽しいよね」
と笑っていた。
ひととおり家電をチェックして満足した直海さんは、
「夕飯なに食べる?」
と僕を見た。
「なんでもいいよ」
「それ、一番困るやつ」
「じゃあ、直海さんが決めて」
「責任重大だな」
直海さんは腕を組んで少し考え、
「定食にしよ」
と言った。
「結局いつもの店じゃない」
「落ち着くじゃん」
「まあね」
歩きながらふたりで笑った。
いつもの定食屋に入る。
直海さんはおしぼりで手を拭いた。
「今日は魚にしようかな」
「珍しい」
「最近、健康診断引っかかってさ」
「もう若くないね」
「リンには言われたくない」
直海さんは僕を睨んだ。
「そういやあの教育実習の子、どうしたの?」
「あれから話せてないな」
「まあ、不安になるよな」
「そうだね」
「でもその子は多分、大丈夫だと思う、俺」
「僕も」
「俺なんかこの歳になっても、まだ『ああすればよかった』って思う日あるもん」
「わかる」
「今日はあの子元気なかったから、もう少し話聞けばよかったかな、とかさ」
「うん」
「反省ばっかだよ」
僕は直海さんを覗き込み、
「へぇ。ちゃんと先生だね」
「けっこう真面目よ、俺」
「知ってる」
顔を見合わせて笑った。
料理が届くと、ふたりそろって「いただきます」と手を合わせた。
直海さんは味噌汁をすすりながら言った。
「リンさ」
「ん?」
「今日ちょっと元気なかった?」
相変わらずよく見てるな。
「ちょっと学生のこと考えてただけ」
「そっか」
直海さんはそれ以上何も聞いてこなかった。
「全然関係ないけど、俺、昨日スーパー行ったんだけどさ」
「本当に全然関係ないね」
「だから、全然関係ないけど、って言ったじゃない」
「そうだね」
「3個パックのツナ缶が今までで一番安くてさ。買いだめしておこうと思ってカゴに4つ入れてたら、『ひと家族様2つまでなんです』って言われてさ」
「うん」
「リン呼ぼうかと一瞬本気で思った」
「そんなに安かったの?」
「底値だったんだよ」
直海さんは興奮気味に嬉しそうに言った。
その後も僕たちは、明日には忘れてしまうような話ばかりしていた。
笑って。
食べて。
また笑って。
そんな時間が、僕には何より大切だった。
店を出ると、外はすっかり暗くなっていた。
「じゃあ、また」
「うん、また」
直海さんは手をひらひらと振って、いつものように歩き出す。
僕も反対方向へ歩く。
振り返らない。
また会えると知っているから。
このなんでもない時間が、明日も続けばいい。
来週も。
来月も。
その先も。
それだけでよかった。