大正恋刺繍 ~押しかけ婿様の寡黙な溺愛~
 朔也はすでに帰宅し、扉越しに挨拶をして二階に上がっていった。澄乃は作業部屋で刺繍をしていたが、一針ごとに落ち着かなさが増して、ついに針を止めた。

 刺繍絵の今日進んだ分を見直し、溜め息をつく。全然だめだ。全部やり直さなければ。

(黙っているから、余計に気まずいのだわ)

 態度が不自然なのは冴子に皮肉られたせいだと、朔也は知る由もない。きっと自分が何かへまをして澄乃を不快にさせたのだと思い込んでいるに違いない。

 彼は何も悪くないのだ。

 せめて、それだけでも伝えておかないと、彼の誠実さに対して申し訳が立たないではないか。

 澄乃は思い切って立ち上がり、決然と廊下に出た。階段を上がっていくと、間が良いのか悪いのか、ちょうど下りてきた朔也と踊り場で鉢合わせしてしまった。

「……っ」

 思わず立ちすくんでしまう。朔也は穏やかなまなざしを澄乃に向け、ふと小首を傾げて手を伸ばした。

 指先が、近づいてくる。

 指の長い、大きな手。

 軍装の白い革手袋をしていない、素のままの手。

 椿山御殿で自分の掌を包んだ手が──。

 左肘のすぐ上に、容赦なく締めつけられる感覚が蘇る。

 ぱん、と乾いた音が響いた。

 気がついたときには、澄乃は伸ばされた朔也の手を打ち払っていた。

 朔也は払いのけられた姿勢のまま、かすかに目を瞠っている。

 ようやく思考が追いついて、澄乃はのぼせたように頭がカーッとなった。

「ご……ごめんなさい……っ」

 朔也が手を下ろし、曖昧な笑みを浮かべる。

「袖に糸がついていたので、取ろうとしたんですが」

 ああ、また。

 また彼を、傷つけてしまった。

「……ごめんなさい。驚いて、しまって……」

 語尾が震えて消える。

 朔也はわずかに唇を引き結び、静謐な表情で頭を下げた。

「すみません、余計なことをしました」

 彼はもう一度会釈すると、澄乃の傍らを通りすぎた。注意深く距離を保って。

 澄乃は踊り場に立ち尽くしたまま、彼の足音が一階に下り、廊下を遠ざかっていくのを聞いていた。扉を敲く音、開ける音。かすかに聞こえた父の声が、扉が閉じる音とともに消える。

 澄乃は自分の左袖をぎくしゃくと見下ろした。二の腕辺りに、赤い糸の切れ端がついていた。鶯色の小紋の上に乗った、小指ほどの長さの赤い絹糸。
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