共通語に直さないで――方言フェチな彼の三行溺愛
第3話 三行ラブレターは、声にするとずるい
木曜日の朝、雨は降っていなかった。
三人で床と天井に前日からの変化がないことを確かめる。千拓は一般客が木箱を使う前に、自分の封筒を取り出して上着の内ポケットへしまった。
葵空は入口へ赤いスカーフを結ぶ。
風に揺れる赤を見上げると、店の中から祖母が「開けるよ」と声を掛けてきそうだった。
客は一度に三人まで。個人宛ての手紙は本人が持ち帰り、木箱へ残せるのは、公開を許した匿名の「三行舎への三行」だけだ。
尚喜が入口で人数を見て、千拓が案内をし、葵空は代筆を受け持った。
最初の時間に来た郵便配達員は、カードを前にして頭を抱えた。
「三行に収まらん」
「四行目は、家で直接言ってください」
葵空が答えると、受付の千拓が横を向いて笑いをこらえた。
次の時間には、老夫婦がやってきた。夫は震える手を膝へ置き、妻の顔を見ないまま言った。
「わしの代わりに、書いてもらえるか」
毎朝の味噌汁。病院へ何度も付き添ってくれたこと。これからも隣にいてほしいこと。どの言葉にも、榧ノ原町の響きが染み込んでいた。
葵空は仕事の癖で、伝わりやすい共通語へ整えかけた。
その時、千拓が老男性へ尋ねる。
「いつもの言い方のまま書いても大丈夫ですか」
「その方がええ。わしは、こんな話し方しかできんけん」
直す必要など、どこにもなかった。
葵空は息を整え、聞いたままの声を三行へ置いた。
『毎朝の味噌汁が、いちばんうまい。
病院へ一緒に来てくれて、ほんま助かった。
これからも隣におってくれ。』
妻はカードを読み、涙をこぼしながら笑った。
「ほんまに、この人らしいわ」
夫は照れくさそうにそっぽを向いたが、妻が差し出した手はしっかり握り返した。
整った文章より、その人の声のまま届く言葉がある。
葵空の胸の奥で、固く結んでいたものが少しほどけた。
休憩中、窓辺で千拓に言う。
「あのまま書いてよかった。私だけじゃ、また直しとったけん」
地元の語尾が混じった。気づいても、今回は言い直さなかった。
千拓も百円玉を入れず、ただ嬉しそうに聞いている。
「再生は頼まないんですか」
「今のは、次も聞ける気がするから」
胸の奥が甘く縮んだ。
彼の指先が、机に置いた葵空の手へ近づく。あと少しで触れるというところで入口の鈴が鳴り、千拓はすぐに手を引いた。
残念だと思った自分に、葵空はいちばん驚いた。
一日限りの公開は、何事もなく終わった。
許可された手紙を撮影して台帳へ記録し、保存ケースへ移す。祖母の文具、残った公開用カード、空になった木箱も作業車へ積んだ。赤いスカーフは入口から外し、乾いた袋へしまう。
店内に大切な物が残っていないことを三人で確かめ、三行舎を施錠した。そのあと、すべてを尚喜の乾いた作業室へ運んだ。木箱は翌朝、地元の木工職人へ相談することになった。
搬出と記録を終えると、千拓が内ポケットから封筒を出した。
『言い直す前の君が好きです。
言い直したあとの君も好きです。
どちらの声も、俺に聞かせてください。』
声に出していないのに、千拓の低い声で読まれた気がした。
「三行なら、何を書いても許されるんですか」
「返事は急ぎません。店の答えとも別です」
何事にも決断の早い男が、葵空の返事だけは待つと言った。
その夜、宿で葵空は何度もカードを読み返した。
七年前、仕事仲間だった恋人に、方言を直せと言われ続けた。客の前で訛るな。感情的に聞こえる。共通語の方が信用される。
恋と仕事が絡まり、別れたあとも、自分の声まで嫌いになった。
千拓も、店を残したいから自分へ近づいたのではないか。自分も、祖母の思い出を恋と取り違えていないか。
同じ間違いを繰り返すのが怖かった。
葵空は尚喜へ電話し、残る遺品と写真を売却前提の整理へ戻してほしいと頼んだ。千拓にも、今のところは売るつもりだと伝えた。
「分かりました。決めるのは葵空さんです」
引き止められず、ほっとした。同時に、寂しかった。
電話を切ったあと、葵空は告白の三行をよそ行きの声で読んだ。続いて、誰にも聞かれないほど小さな声で、故郷の調子のまま読み直す。
胸へまっすぐ届いたのは、二度目の方だった。
売却の回答まで、あと一日だった。
木曜日の朝、雨は降っていなかった。
三人で床と天井に前日からの変化がないことを確かめる。千拓は一般客が木箱を使う前に、自分の封筒を取り出して上着の内ポケットへしまった。
葵空は入口へ赤いスカーフを結ぶ。
風に揺れる赤を見上げると、店の中から祖母が「開けるよ」と声を掛けてきそうだった。
客は一度に三人まで。個人宛ての手紙は本人が持ち帰り、木箱へ残せるのは、公開を許した匿名の「三行舎への三行」だけだ。
尚喜が入口で人数を見て、千拓が案内をし、葵空は代筆を受け持った。
最初の時間に来た郵便配達員は、カードを前にして頭を抱えた。
「三行に収まらん」
「四行目は、家で直接言ってください」
葵空が答えると、受付の千拓が横を向いて笑いをこらえた。
次の時間には、老夫婦がやってきた。夫は震える手を膝へ置き、妻の顔を見ないまま言った。
「わしの代わりに、書いてもらえるか」
毎朝の味噌汁。病院へ何度も付き添ってくれたこと。これからも隣にいてほしいこと。どの言葉にも、榧ノ原町の響きが染み込んでいた。
葵空は仕事の癖で、伝わりやすい共通語へ整えかけた。
その時、千拓が老男性へ尋ねる。
「いつもの言い方のまま書いても大丈夫ですか」
「その方がええ。わしは、こんな話し方しかできんけん」
直す必要など、どこにもなかった。
葵空は息を整え、聞いたままの声を三行へ置いた。
『毎朝の味噌汁が、いちばんうまい。
病院へ一緒に来てくれて、ほんま助かった。
これからも隣におってくれ。』
妻はカードを読み、涙をこぼしながら笑った。
「ほんまに、この人らしいわ」
夫は照れくさそうにそっぽを向いたが、妻が差し出した手はしっかり握り返した。
整った文章より、その人の声のまま届く言葉がある。
葵空の胸の奥で、固く結んでいたものが少しほどけた。
休憩中、窓辺で千拓に言う。
「あのまま書いてよかった。私だけじゃ、また直しとったけん」
地元の語尾が混じった。気づいても、今回は言い直さなかった。
千拓も百円玉を入れず、ただ嬉しそうに聞いている。
「再生は頼まないんですか」
「今のは、次も聞ける気がするから」
胸の奥が甘く縮んだ。
彼の指先が、机に置いた葵空の手へ近づく。あと少しで触れるというところで入口の鈴が鳴り、千拓はすぐに手を引いた。
残念だと思った自分に、葵空はいちばん驚いた。
一日限りの公開は、何事もなく終わった。
許可された手紙を撮影して台帳へ記録し、保存ケースへ移す。祖母の文具、残った公開用カード、空になった木箱も作業車へ積んだ。赤いスカーフは入口から外し、乾いた袋へしまう。
店内に大切な物が残っていないことを三人で確かめ、三行舎を施錠した。そのあと、すべてを尚喜の乾いた作業室へ運んだ。木箱は翌朝、地元の木工職人へ相談することになった。
搬出と記録を終えると、千拓が内ポケットから封筒を出した。
『言い直す前の君が好きです。
言い直したあとの君も好きです。
どちらの声も、俺に聞かせてください。』
声に出していないのに、千拓の低い声で読まれた気がした。
「三行なら、何を書いても許されるんですか」
「返事は急ぎません。店の答えとも別です」
何事にも決断の早い男が、葵空の返事だけは待つと言った。
その夜、宿で葵空は何度もカードを読み返した。
七年前、仕事仲間だった恋人に、方言を直せと言われ続けた。客の前で訛るな。感情的に聞こえる。共通語の方が信用される。
恋と仕事が絡まり、別れたあとも、自分の声まで嫌いになった。
千拓も、店を残したいから自分へ近づいたのではないか。自分も、祖母の思い出を恋と取り違えていないか。
同じ間違いを繰り返すのが怖かった。
葵空は尚喜へ電話し、残る遺品と写真を売却前提の整理へ戻してほしいと頼んだ。千拓にも、今のところは売るつもりだと伝えた。
「分かりました。決めるのは葵空さんです」
引き止められず、ほっとした。同時に、寂しかった。
電話を切ったあと、葵空は告白の三行をよそ行きの声で読んだ。続いて、誰にも聞かれないほど小さな声で、故郷の調子のまま読み直す。
胸へまっすぐ届いたのは、二度目の方だった。
売却の回答まで、あと一日だった。