共通語に直さないで――方言フェチな彼の三行溺愛
第4話 共通語では言えないこと
 金曜日の朝九時、残る遺品と建物の写真を確認するため、三人は三行舎の前へ集まった。

 到着した途端、横殴りの雨が屋根を叩き始めた。水曜日には染みのなかった前室の天井から、雫が落ちる。風雨の時だけ現れる漏水だった。

 手紙も木箱も赤いスカーフも、前夜に運び出してある。

 三人は敷居を越えず、入口から見える範囲だけを確かめた。千拓が漏水箇所を撮影し、葵空が時刻と雨の向きを記録する。予定していた建物内の確認は中止し、戸を閉めた。

 雨に追われるように尚喜の作業室へ移り、濡れた髪と手を拭く。上着を木箱から離れた場所へ掛け、乾いた手で緩衝材を外した。

 十時、前夜に予約していた木工職人と映像通話をつないだ。

 斜めから明かりを当てると、月曜日に見つけた青い印のそばに、緩んだ小さな留め木が見えた。箱を水平に置き、複数の角度から職人へ見せる。

 『抵抗があれば、すぐやめてください』

 尚喜が箱を支え、葵空が留め木をつまんだ。力を入れなくても抜ける。すると、底板の下に薄い差し込み口が現れた。

 中には、一通の封筒があった。

 『葵空へ――次に店へ来た時に』

 祖母の字だった。日付は二年前。葵空が仕事で賞を取ったと電話した夜だ。

 封筒の中には、三行だけが残されていた。

 『葵空へ。
 うまく言おうとせんでええ。
 大事な人には、好きな声で。』

 建物を残せとは、ひと言も書かれていなかった。

 残すとも、手放すとも書かれていない。祖母は答えを決める代わりに、自分の言葉で選んでいいのだと伝えてくれたのだ。

 葵空は手紙を胸へ押し当てた。声を殺そうとしても、涙は止まらなかった。七年間、喉の奥へ押し込めてきたものが、ひとつずつほどけていく。

 「七年前、付き合っとった人に、方言を直せって言われ続けたんです。別れたあとも、仕事で認められるたび、直した私だけが認められた気がしとった」

 声は震えた。それでも、言い直さなかった。

 千拓は慰めを急がず、葵空が話し終えるまで黙って待った。

 「地元の言葉を聞きたいから、好きになったんじゃありません」

 やがて千拓が言った。

 「言葉を選ぶ時の顔も、仕事のために言い直す賢さも、安心して言い直さない時の声も好きです。どれを使うかは、葵空さんが決めてください」

 方言を好きだと言いながら、彼は一度もそれを強いなかった。

 そのことが、何よりも嬉しかった。

 「そういう言い方は、ずるいんよ」

 千拓が「もう一度」と言いかけ、口を閉じる。

 葵空は涙の跡をぬぐいながら笑った。

 「百円払ったら、もう一回言ってもええよ」

 千拓が財布を開いた時、奥へ下がっていた尚喜が三人分の茶を持って戻った。

 「続きは茶を飲んでから。冷めたら、ばあちゃんに叱られるぞ」

 千拓は指先まで出した百円玉を財布へ戻した。温かい茶が喉を通り、葵空の呼吸がようやく整う。

 千拓は許可を得て収納袋を開き、赤いスカーフを両手で差し出した。

 「使う日も、しまう日も、葵空さんが決めてください」

 葵空は自分の手で肩へ掛けた。祖母の赤が、今は少しだけ自分の色に見えた。

 昼を過ぎた頃、葵空は尚喜へ自分の考えを話した。

 「祖母ちゃんの手紙が見つかったから残す、とは決めん。今回の買い取りは断って、第三者に安全性と費用を調べてもらう。前室だけ残せるなら残す。無理なら、改めて売り方を探す」

 千拓の会社には、運営も管理も頼まない。恋と仕事の境目を、今度は自分で守る。

 千拓も自社に有利な提案はせず、撮影した損傷記録だけを渡すと約束した。

 午後二時二十分。

 葵空は祖母の手紙を傍らへ置き、千拓への返事を三行にした。

 何度か共通語へ直しかけた。けれど最後に残ったのは、今の自分がいちばん伝えたい声だった。

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