共通語に直さないで――方言フェチな彼の三行溺愛
第5話 二人だけの共通語
午後二時半、千拓は損傷箇所の写真と漏水の記録だけを葵空へ渡し、近くの宿泊施設の点検へ向かった。
彼が作業室を出たあと、葵空は尚喜へ頼んだ。
「雨が止んで安全なら、出会った場所の近くで返事をしたい。退避所を見てもらえる?」
三時頃に雨が止むと、尚喜は担当区間を回った。路面、側溝、斜面、落枝。道路管理者から規制が出ていないことまで確かめ、四時二十分に戻ってきた。
「長居せず、明るいうちなら大丈夫じゃ」
葵空はまず、建物についての答えを出した。
午後四時五十分、不動産会社へ買い取り辞退のメールを送った。尚喜と送信済み表示、自動受信通知まで確かめた。五分後には独立した検査先へ詳しい調査を申し込み、受付メールも確認した。
祖母に言われたからでも、千拓を好きだからでもない。検査結果が厳しければ、別の売却先を探す。
自分の責任で、次の確認へ進むのだ。
午後五時過ぎ、初夏の空にまだ明るさが残るうちに、葵空は赤いスカーフと三行の返事を持って退避所へ向かった。
雨上がりの山は、濡れた土と木々の匂いが濃い。低い柵へ赤いスカーフを結び、風で飛ばないことを確かめてから千拓へ電話する。
「安全確認済みの退避所で、落とし物を拾いました」
十五分後、千拓の車が入ってきた。赤い布を見て、初日の再現だと気づいたらしい。
葵空はスカーフを柵から外し、自分の肩へ掛けた。
「急に呼び出して、ごめん。仕事、大丈夫じゃった?」
「大丈夫です。それと、昨日の続きをお願いします」
「一回百円」
千拓は、前日に出しかけた百円玉を差し出した。
葵空はそれを受け取り、彼の目を見て繰り返す。
「そういう言い方は、ずるいんよ」
今度は誰にも邪魔されなかった。
千拓が満足そうに笑う。その笑顔を見届けてから、葵空は三行のカードを差し出した。
『千拓さんが好きなんよ。
言い直す前も、あとの言葉も聞いてほしい。
うちらの共通語、これから一緒に作ろう。』
千拓は一行ずつ、時間を掛けて読んだ。
読み終えると、葵空へ腕を伸ばしかけて止める。
「抱き締めてもいいですか」
葵空はうなずいた。
赤いスカーフごと、温かな胸に包まれる。耳元で鳴る心臓が、どちらのものか分からなかった。
「好きだと言うことは、これから遠慮しません」
「一日しか待ってないでしょう」
「体感では一年です」
笑ったあと、千拓はもう一度尋ねた。
「キスもしていいですか」
「してええよ」
今度は言い直さなかった。
二人はそれぞれの車で尚喜の作業室へ戻った。
約束どおり待っていた尚喜は、報告を聞くなり千拓へ指を突きつけた。
「泣かせたら、側溝掃除」
「泣かせません。側溝も掃除します」
葵空は声を上げて笑った。
――半年後。
詳しい検査の結果、前室は独立して残せると分かった。危険な後部を撤去し、前室を補修する。必要な届出と設備点検、保険加入を終え、三行舎は葵空の制作室として、週に一度だけ三行の手紙を書ける場所になった。
葵空は近隣都市の住まいから通い、公開日の朝には赤いスカーフを入口へ結ぶ。
千拓の会社は運営に関わらない。彼は恋人として、休みの日に手伝うだけだ。
公開準備を手伝う日に使う玄関の合鍵と、補修した木箱の複製鍵を、葵空は千拓へ一本ずつ預けた。祖父母や来場者の手紙は別に保存し、空になった木箱だけを二人の私信箱にした。
ある公開日の朝、先に来た千拓が、二人の朝食を用意して三行を入れていた。
『珈琲を飲みやすい温度にしました。
君の好きなパンも温めました。
着いたら最初に俺を見てください。』
「三行目だけ重い」
「溺愛なので」
公開日ごとに一往復ずつ、何でもない日々の手紙が増えていった。
ある朝、葵空が前週までの手紙を整理していると、開いた木箱を見た尚喜が笑った。
「この調子じゃ、次の冬までにフタが閉まらんぞ」
「二箱目は注文済みです」
千拓の即答に、葵空は呆れた。
「増やす方を止める気はないん」
「もう一度」
差し出された百円を受け取らず、葵空は彼の耳元で繰り返した。
「増やす方を止める気はないん。これは無料。恋人料金」
千拓は百円玉を一枚、木箱へ入れた。
「では、一生分の前金です」
冗談で済ませるには、声があまりに真剣だった。
葵空は百円玉を取り出さなかった。
共通語は、誰かに決めてもらう正しい言葉ではない。
赤いスカーフの下、木箱に増えていく三行すべてが、二人だけの共通語だった。
午後二時半、千拓は損傷箇所の写真と漏水の記録だけを葵空へ渡し、近くの宿泊施設の点検へ向かった。
彼が作業室を出たあと、葵空は尚喜へ頼んだ。
「雨が止んで安全なら、出会った場所の近くで返事をしたい。退避所を見てもらえる?」
三時頃に雨が止むと、尚喜は担当区間を回った。路面、側溝、斜面、落枝。道路管理者から規制が出ていないことまで確かめ、四時二十分に戻ってきた。
「長居せず、明るいうちなら大丈夫じゃ」
葵空はまず、建物についての答えを出した。
午後四時五十分、不動産会社へ買い取り辞退のメールを送った。尚喜と送信済み表示、自動受信通知まで確かめた。五分後には独立した検査先へ詳しい調査を申し込み、受付メールも確認した。
祖母に言われたからでも、千拓を好きだからでもない。検査結果が厳しければ、別の売却先を探す。
自分の責任で、次の確認へ進むのだ。
午後五時過ぎ、初夏の空にまだ明るさが残るうちに、葵空は赤いスカーフと三行の返事を持って退避所へ向かった。
雨上がりの山は、濡れた土と木々の匂いが濃い。低い柵へ赤いスカーフを結び、風で飛ばないことを確かめてから千拓へ電話する。
「安全確認済みの退避所で、落とし物を拾いました」
十五分後、千拓の車が入ってきた。赤い布を見て、初日の再現だと気づいたらしい。
葵空はスカーフを柵から外し、自分の肩へ掛けた。
「急に呼び出して、ごめん。仕事、大丈夫じゃった?」
「大丈夫です。それと、昨日の続きをお願いします」
「一回百円」
千拓は、前日に出しかけた百円玉を差し出した。
葵空はそれを受け取り、彼の目を見て繰り返す。
「そういう言い方は、ずるいんよ」
今度は誰にも邪魔されなかった。
千拓が満足そうに笑う。その笑顔を見届けてから、葵空は三行のカードを差し出した。
『千拓さんが好きなんよ。
言い直す前も、あとの言葉も聞いてほしい。
うちらの共通語、これから一緒に作ろう。』
千拓は一行ずつ、時間を掛けて読んだ。
読み終えると、葵空へ腕を伸ばしかけて止める。
「抱き締めてもいいですか」
葵空はうなずいた。
赤いスカーフごと、温かな胸に包まれる。耳元で鳴る心臓が、どちらのものか分からなかった。
「好きだと言うことは、これから遠慮しません」
「一日しか待ってないでしょう」
「体感では一年です」
笑ったあと、千拓はもう一度尋ねた。
「キスもしていいですか」
「してええよ」
今度は言い直さなかった。
二人はそれぞれの車で尚喜の作業室へ戻った。
約束どおり待っていた尚喜は、報告を聞くなり千拓へ指を突きつけた。
「泣かせたら、側溝掃除」
「泣かせません。側溝も掃除します」
葵空は声を上げて笑った。
――半年後。
詳しい検査の結果、前室は独立して残せると分かった。危険な後部を撤去し、前室を補修する。必要な届出と設備点検、保険加入を終え、三行舎は葵空の制作室として、週に一度だけ三行の手紙を書ける場所になった。
葵空は近隣都市の住まいから通い、公開日の朝には赤いスカーフを入口へ結ぶ。
千拓の会社は運営に関わらない。彼は恋人として、休みの日に手伝うだけだ。
公開準備を手伝う日に使う玄関の合鍵と、補修した木箱の複製鍵を、葵空は千拓へ一本ずつ預けた。祖父母や来場者の手紙は別に保存し、空になった木箱だけを二人の私信箱にした。
ある公開日の朝、先に来た千拓が、二人の朝食を用意して三行を入れていた。
『珈琲を飲みやすい温度にしました。
君の好きなパンも温めました。
着いたら最初に俺を見てください。』
「三行目だけ重い」
「溺愛なので」
公開日ごとに一往復ずつ、何でもない日々の手紙が増えていった。
ある朝、葵空が前週までの手紙を整理していると、開いた木箱を見た尚喜が笑った。
「この調子じゃ、次の冬までにフタが閉まらんぞ」
「二箱目は注文済みです」
千拓の即答に、葵空は呆れた。
「増やす方を止める気はないん」
「もう一度」
差し出された百円を受け取らず、葵空は彼の耳元で繰り返した。
「増やす方を止める気はないん。これは無料。恋人料金」
千拓は百円玉を一枚、木箱へ入れた。
「では、一生分の前金です」
冗談で済ませるには、声があまりに真剣だった。
葵空は百円玉を取り出さなかった。
共通語は、誰かに決めてもらう正しい言葉ではない。
赤いスカーフの下、木箱に増えていく三行すべてが、二人だけの共通語だった。


