月水金は私の彼。火木土は親友の彼
隣の彼
インターホンも鳴らさずに、控えめなノックが二回。
このころには、それが律さんの合図だって、私はもう知っていた。
ドアを開けると、案の定、律さんが少し困った顔で立っている。
「あの、これ……肉じゃが、作りすぎちゃって。もしよかったら」
両手で差し出されたタッパーは、まだほんのり温かかった。律さんが越してきてから、3週間。
隣の人、というだけだったはずの距離は、思っていたよりずっと早く縮まっていた。
「わ、嬉しい。じゃあお礼に、うちのごはんも今度おすそ分けするね」
「いや、そんな、お礼なんて。……あ、でも、ひなたちゃんの作るものなら、食べてみたいかも」
言ってから、律さんは自分の言葉に照れたみたいに、視線を落とした。
私のほうこそ、胸の奥がふわっと熱くなって、タッパーを抱える手にちょっと力が入る。
……なんだろう、これ。
……
三人でいる時間は、呆れるくらい心地よかった。
るりが仕事に出ない夜は、決まって誰かの部屋に集まった。
律さんがコンビニで買ってきたお酒を並べて、私がつまみを作って、るりが辛口の感想を言う。
テレビを流しながら、どうでもいい話で笑いあう。
それだけの時間が、どうしてこんなに満たされるんだろうと思った。
「律って、ほんと抜けてるよね」
ある夜、るりが枝豆をつまみながら、呆れたように言った。
「財布は落とすし、傘は忘れるし。よく今まで一人で生きてこられたね」
「うっ……返す言葉もないです」
「まあ、そういうとこ、ほっとけないんだけど」
そう言いながら、るりは律さんの空いたグラスにさっとお酒を注ぐ。
口は悪いのに、気配りだけは誰よりも早い。
律さんが「ありがとうございます」と頭を下げると、るりは「別に」とそっぽを向いた。
そのやりとりを、私は笑って眺めていた。このときは、ただ微笑ましいだけだった。ほんとうに、それだけだった。
律さんは、聞き上手だった。
私が仕事の愚痴をこぼせば、ちゃんと最後まで聞いて、「ひなたちゃんは頑張りすぎだよ」と言ってくれる。
るりが酔って絡んでも、嫌な顔ひとつしない。誰にでも優しくて、誰のことも否定しない。
そういう人だから、つい、甘えたくなる。
気づけば私は、律さんの分まで夕飯を多めに作るようになっていた。
洗剤が切れていないか気にしたり、寒くなってきたねと毛布を貸したり。
頼まれてもいないのに、世話を焼きたくなる。
「私、なんか……お母さんみたいだ」
洗い物をしながらつぶやくと、自分の頬が緩んでいることに気づいて、あわてて引き締めた。
でも、それだけじゃないことにも、うすうす気づいていた。
朝、隣の部屋のドアが開く音がすると、つい耳を澄ませてしまう。
買い物に出るとき、律さんに会うかもしれないと思って、いつもより丁寧にリップを塗る。
2回のノックが聞こえるのを、心のどこかで待っている。
尽くしたいんじゃない。近くにいたいんだ。
そう認めてしまいそうになるたびに、私はぶんぶんと首を振った。
だって律さんは、私にだけ優しいわけじゃない。誰にでも、同じ顔で笑いかける人なんだから。
……
その夜、るりはバーの遅番で、部屋には律さんと二人きりだった。
ベランダ越しの夜風が涼しくて、私たちは缶ビールを片手に、手すりにもたれて話していた。
律さんは、めずらしく自分のことを話した。
仕事のこと、昔つきあっていた人と、別れ話を切り出せないままずるずる終わってしまったこと。
「情けないですよね。俺、いつもそうなんです。誰かを傷つけたくなくて、結局、何も決められない」
苦く笑う横顔が、街灯の光に照らされていた。
「こういう話、あんまり人にしないんですけど」
律さんは、缶を持ったまま、私のほうを見た。
「ひなたちゃんには、なんか話せちゃうな。……君だけかも、こんなこと言えるの」
心臓が、とん、と鳴った。
君だけ、という三文字が、私の中でやけに大きく響く。
うれしくて、でも、うれしがっている自分がちょっと怖くて、私はビールをひとくち飲んでごまかした。
「……私なんかで、よかったら。いつでも聞くよ」
やっと絞り出した声は、自分でも情けないくらい、小さかった。
律さんは「ありがとう」と笑って、また夜の空に目を戻す。
その横顔を、私はもう、ただの隣人としては見られなくなっていた。
ただの隣人。優しくて、不器用な、隣の人。そう思っていたはずなのに。
……私、もしかして。
……
夜が更けて、玄関の鍵が回る音がした。
「ただいまー……あれ、律もいたんだ」
仕事帰りのるりが、リビングに顔を出す。
疲れているはずなのに、律さんを見つけた瞬間、その表情がやわらかくほころんだのを、私は見てしまった。
「おかえり、るりさん。遅くまでお疲れさま」
「うん。……律がいると、なんか、ほっとする」
さらりと言って、るりは律さんの隣に腰を下ろした。
いつものるりだ。いつもの、三人の夜だ。
なのに。
るりが律さんを見る、その目の温度が、今までとほんの少しだけ違う気がして——私は、手の中の缶を、そっと握り直した。
このころには、それが律さんの合図だって、私はもう知っていた。
ドアを開けると、案の定、律さんが少し困った顔で立っている。
「あの、これ……肉じゃが、作りすぎちゃって。もしよかったら」
両手で差し出されたタッパーは、まだほんのり温かかった。律さんが越してきてから、3週間。
隣の人、というだけだったはずの距離は、思っていたよりずっと早く縮まっていた。
「わ、嬉しい。じゃあお礼に、うちのごはんも今度おすそ分けするね」
「いや、そんな、お礼なんて。……あ、でも、ひなたちゃんの作るものなら、食べてみたいかも」
言ってから、律さんは自分の言葉に照れたみたいに、視線を落とした。
私のほうこそ、胸の奥がふわっと熱くなって、タッパーを抱える手にちょっと力が入る。
……なんだろう、これ。
……
三人でいる時間は、呆れるくらい心地よかった。
るりが仕事に出ない夜は、決まって誰かの部屋に集まった。
律さんがコンビニで買ってきたお酒を並べて、私がつまみを作って、るりが辛口の感想を言う。
テレビを流しながら、どうでもいい話で笑いあう。
それだけの時間が、どうしてこんなに満たされるんだろうと思った。
「律って、ほんと抜けてるよね」
ある夜、るりが枝豆をつまみながら、呆れたように言った。
「財布は落とすし、傘は忘れるし。よく今まで一人で生きてこられたね」
「うっ……返す言葉もないです」
「まあ、そういうとこ、ほっとけないんだけど」
そう言いながら、るりは律さんの空いたグラスにさっとお酒を注ぐ。
口は悪いのに、気配りだけは誰よりも早い。
律さんが「ありがとうございます」と頭を下げると、るりは「別に」とそっぽを向いた。
そのやりとりを、私は笑って眺めていた。このときは、ただ微笑ましいだけだった。ほんとうに、それだけだった。
律さんは、聞き上手だった。
私が仕事の愚痴をこぼせば、ちゃんと最後まで聞いて、「ひなたちゃんは頑張りすぎだよ」と言ってくれる。
るりが酔って絡んでも、嫌な顔ひとつしない。誰にでも優しくて、誰のことも否定しない。
そういう人だから、つい、甘えたくなる。
気づけば私は、律さんの分まで夕飯を多めに作るようになっていた。
洗剤が切れていないか気にしたり、寒くなってきたねと毛布を貸したり。
頼まれてもいないのに、世話を焼きたくなる。
「私、なんか……お母さんみたいだ」
洗い物をしながらつぶやくと、自分の頬が緩んでいることに気づいて、あわてて引き締めた。
でも、それだけじゃないことにも、うすうす気づいていた。
朝、隣の部屋のドアが開く音がすると、つい耳を澄ませてしまう。
買い物に出るとき、律さんに会うかもしれないと思って、いつもより丁寧にリップを塗る。
2回のノックが聞こえるのを、心のどこかで待っている。
尽くしたいんじゃない。近くにいたいんだ。
そう認めてしまいそうになるたびに、私はぶんぶんと首を振った。
だって律さんは、私にだけ優しいわけじゃない。誰にでも、同じ顔で笑いかける人なんだから。
……
その夜、るりはバーの遅番で、部屋には律さんと二人きりだった。
ベランダ越しの夜風が涼しくて、私たちは缶ビールを片手に、手すりにもたれて話していた。
律さんは、めずらしく自分のことを話した。
仕事のこと、昔つきあっていた人と、別れ話を切り出せないままずるずる終わってしまったこと。
「情けないですよね。俺、いつもそうなんです。誰かを傷つけたくなくて、結局、何も決められない」
苦く笑う横顔が、街灯の光に照らされていた。
「こういう話、あんまり人にしないんですけど」
律さんは、缶を持ったまま、私のほうを見た。
「ひなたちゃんには、なんか話せちゃうな。……君だけかも、こんなこと言えるの」
心臓が、とん、と鳴った。
君だけ、という三文字が、私の中でやけに大きく響く。
うれしくて、でも、うれしがっている自分がちょっと怖くて、私はビールをひとくち飲んでごまかした。
「……私なんかで、よかったら。いつでも聞くよ」
やっと絞り出した声は、自分でも情けないくらい、小さかった。
律さんは「ありがとう」と笑って、また夜の空に目を戻す。
その横顔を、私はもう、ただの隣人としては見られなくなっていた。
ただの隣人。優しくて、不器用な、隣の人。そう思っていたはずなのに。
……私、もしかして。
……
夜が更けて、玄関の鍵が回る音がした。
「ただいまー……あれ、律もいたんだ」
仕事帰りのるりが、リビングに顔を出す。
疲れているはずなのに、律さんを見つけた瞬間、その表情がやわらかくほころんだのを、私は見てしまった。
「おかえり、るりさん。遅くまでお疲れさま」
「うん。……律がいると、なんか、ほっとする」
さらりと言って、るりは律さんの隣に腰を下ろした。
いつものるりだ。いつもの、三人の夜だ。
なのに。
るりが律さんを見る、その目の温度が、今までとほんの少しだけ違う気がして——私は、手の中の缶を、そっと握り直した。