月水金は私の彼。火木土は親友の彼
余裕のふり
「黒瀬さんって、彼氏いないの」
カウンターの向こうで、常連の男が笑いながら聞いてくる。私はグラスを磨く手を止めずに、口の端だけで笑った。
「さあ。いたら、こんな時間まで働いてませんよ」
「つれないなあ」
「それが仕事なので」
こういうやりとりは、もう何百回もこなしてきた。求められることには慣れている。
誘われて、値踏みされて、余裕そうに受け流す。それが黒瀬るりという女の、店での顔だった。
私は、人に本気で手を伸ばしたことがない。
伸ばした先で、握り返してもらえなかったときのことを考えると、はじめから伸ばさないほうが、ずっと楽だから。
……
深夜2時。看板を落として、私は夜の街を歩いて帰る。
ヒールの音だけが響く道は、いつも少し寂しい。でも、それを寂しいと認めたことは一度もない。一人は気楽だ。そう思うことにしている。
マンションのエントランスに着くと、自動ドアの内側に、人影があった。
「……律?」
コンビニの袋を提げた律が、所在なさげに立っていた。私を見て、ほっとしたように眉を下げる。
「あ、るりさん。おかえりなさい」
「なんでこんなとこにいるの」
「いや、その……この時間、この辺ちょっと暗いから。るりさんが帰ってくるの、待ってようかなって。……余計なお世話でしたよね、すみません」
言い訳みたいに早口で付け足して、律は困った顔をした。
私は、返す言葉に詰まった。
送り迎えなんて、下心のある男がよくやる手だ。そのあとに何を求めてくるか、私はよく知っている。
だから警戒するはずだった。なのに、この男の目には、それがない。ただ、私が暗い夜道を歩くのが、心配なだけ。
それだけ。
「……別に。頼んでないけど」
やっと出てきたのは、そんな可愛げのない一言だった。
律は「ですよね」と笑って、私の歩幅に合わせて隣を歩きだす。何を要求するでもなく、ただ、そこにいる。
「今日、忙しかったですか」
「まあ、それなりに」
「お疲れさまです。……あ、これ、よかったら。温かいうちに」
差し出されたのは、コンビニの肉まんだった。ひとつしかない。自分の分を、私にくれるつもりらしい。
「あんたのでしょ、それ」
「俺は、その、さっき食べたので。……いや、食べてないんですけど、るりさんのほうが、冷えてそうだから」
嘘が下手な男だ。私は少しだけ笑って、肉まんを受け取った。手のひらに、じんわりと熱が移ってくる。
肉まんひとつで、ほだされてたまるか。そう思うのに、熱は消えない。
誰かに見返りなく温めてもらった記憶を、遡ってみる。すぐに、やめた。
思い出せないと分かるだけ、損だから。
……
本当のことを言えば。
私は、律が越してきたあの日、ひなたより先に、この男に気づいていた。
段ボールを抱えて階段でよろけていた、頼りない背中。ひなたが飛び出していくより一瞬早く、私は窓の内側から、それを見ていた。
放っておけない、と思ってしまった自分に、誰より驚いたのは私だ。
でも、口には出さなかった。
出したら最後、認めることになる。私が、誰かを欲しがっているんだと。
ひなたは違う。あの子は、好きになったら好きだと言えるし、寂しいときは寂しいと泣ける。
心をまるごと差し出して、それでも壊れない強さがある。私には、それがない。だから昔から、あの子のまっすぐさが、まぶしくて、少しだけ、憎らしかった。
エレベーターの中で、律の横顔を盗み見る。清潔な首筋。まっすぐな睫毛。綺麗な顔。
……何を見てるんだ、私は。壁に寄りかかって、階数表示に目を戻した。
私が本気になるわけない。
心の中で、そう言い聞かせる。恋なんて、面倒なだけだ。求めて、期待して、裏切られる。
あの繰り返しに、また足を踏み入れるほど、私は馬鹿じゃない。
これは、ただの気の迷い。夜が長いから、そう見えるだけ。
……そう、思っていたかった。
……
部屋に戻ると、リビングの明かりがまだ点いていた。
ソファで、ひなたがうとうとしている。私の帰りを待っていたんだろう。
膝の上には、開きっぱなしのスマホ。画面には、三人で撮った写真が表示されていた。
真ん中に律がいて、その両隣で、私とひなたが笑っている。
「ひな。風邪ひくよ」
肩を揺すると、ひなたは寝ぼけまなこで顔を上げた。
「……るり、おかえり。ねえ、聞いて。今日ね、律くんがね——」
律くん、と口にした瞬間の、ひなたの顔。
とろけるみたいに、やわらかくて、幸せそうで。
私は、その表情の意味を、たぶん誰よりも早く理解してしまった。
ああ。この子も、だ。
胸の奥で、何かが、かたん、と音を立てて位置を変えた。
ひなたが律を好きなら、身を引く。5年来の親友の恋なら、応援する。それが大人だ。
理屈は、一瞬で組み上がった。組み上がった理屈に、心だけが、署名を拒んでいた。
「るり?どうかした?」
「……ううん。なんでもない。早く寝な」
ひなたの頭をぽんと撫でて、私は自分の部屋のドアを閉めた。
手のひらには、まださっきの肉まんの熱が残っていた。馬鹿みたいに、いつまでも。
余裕のふりをした私の顔が、うまく笑えているかどうか、自分でも、分からなかった。
カウンターの向こうで、常連の男が笑いながら聞いてくる。私はグラスを磨く手を止めずに、口の端だけで笑った。
「さあ。いたら、こんな時間まで働いてませんよ」
「つれないなあ」
「それが仕事なので」
こういうやりとりは、もう何百回もこなしてきた。求められることには慣れている。
誘われて、値踏みされて、余裕そうに受け流す。それが黒瀬るりという女の、店での顔だった。
私は、人に本気で手を伸ばしたことがない。
伸ばした先で、握り返してもらえなかったときのことを考えると、はじめから伸ばさないほうが、ずっと楽だから。
……
深夜2時。看板を落として、私は夜の街を歩いて帰る。
ヒールの音だけが響く道は、いつも少し寂しい。でも、それを寂しいと認めたことは一度もない。一人は気楽だ。そう思うことにしている。
マンションのエントランスに着くと、自動ドアの内側に、人影があった。
「……律?」
コンビニの袋を提げた律が、所在なさげに立っていた。私を見て、ほっとしたように眉を下げる。
「あ、るりさん。おかえりなさい」
「なんでこんなとこにいるの」
「いや、その……この時間、この辺ちょっと暗いから。るりさんが帰ってくるの、待ってようかなって。……余計なお世話でしたよね、すみません」
言い訳みたいに早口で付け足して、律は困った顔をした。
私は、返す言葉に詰まった。
送り迎えなんて、下心のある男がよくやる手だ。そのあとに何を求めてくるか、私はよく知っている。
だから警戒するはずだった。なのに、この男の目には、それがない。ただ、私が暗い夜道を歩くのが、心配なだけ。
それだけ。
「……別に。頼んでないけど」
やっと出てきたのは、そんな可愛げのない一言だった。
律は「ですよね」と笑って、私の歩幅に合わせて隣を歩きだす。何を要求するでもなく、ただ、そこにいる。
「今日、忙しかったですか」
「まあ、それなりに」
「お疲れさまです。……あ、これ、よかったら。温かいうちに」
差し出されたのは、コンビニの肉まんだった。ひとつしかない。自分の分を、私にくれるつもりらしい。
「あんたのでしょ、それ」
「俺は、その、さっき食べたので。……いや、食べてないんですけど、るりさんのほうが、冷えてそうだから」
嘘が下手な男だ。私は少しだけ笑って、肉まんを受け取った。手のひらに、じんわりと熱が移ってくる。
肉まんひとつで、ほだされてたまるか。そう思うのに、熱は消えない。
誰かに見返りなく温めてもらった記憶を、遡ってみる。すぐに、やめた。
思い出せないと分かるだけ、損だから。
……
本当のことを言えば。
私は、律が越してきたあの日、ひなたより先に、この男に気づいていた。
段ボールを抱えて階段でよろけていた、頼りない背中。ひなたが飛び出していくより一瞬早く、私は窓の内側から、それを見ていた。
放っておけない、と思ってしまった自分に、誰より驚いたのは私だ。
でも、口には出さなかった。
出したら最後、認めることになる。私が、誰かを欲しがっているんだと。
ひなたは違う。あの子は、好きになったら好きだと言えるし、寂しいときは寂しいと泣ける。
心をまるごと差し出して、それでも壊れない強さがある。私には、それがない。だから昔から、あの子のまっすぐさが、まぶしくて、少しだけ、憎らしかった。
エレベーターの中で、律の横顔を盗み見る。清潔な首筋。まっすぐな睫毛。綺麗な顔。
……何を見てるんだ、私は。壁に寄りかかって、階数表示に目を戻した。
私が本気になるわけない。
心の中で、そう言い聞かせる。恋なんて、面倒なだけだ。求めて、期待して、裏切られる。
あの繰り返しに、また足を踏み入れるほど、私は馬鹿じゃない。
これは、ただの気の迷い。夜が長いから、そう見えるだけ。
……そう、思っていたかった。
……
部屋に戻ると、リビングの明かりがまだ点いていた。
ソファで、ひなたがうとうとしている。私の帰りを待っていたんだろう。
膝の上には、開きっぱなしのスマホ。画面には、三人で撮った写真が表示されていた。
真ん中に律がいて、その両隣で、私とひなたが笑っている。
「ひな。風邪ひくよ」
肩を揺すると、ひなたは寝ぼけまなこで顔を上げた。
「……るり、おかえり。ねえ、聞いて。今日ね、律くんがね——」
律くん、と口にした瞬間の、ひなたの顔。
とろけるみたいに、やわらかくて、幸せそうで。
私は、その表情の意味を、たぶん誰よりも早く理解してしまった。
ああ。この子も、だ。
胸の奥で、何かが、かたん、と音を立てて位置を変えた。
ひなたが律を好きなら、身を引く。5年来の親友の恋なら、応援する。それが大人だ。
理屈は、一瞬で組み上がった。組み上がった理屈に、心だけが、署名を拒んでいた。
「るり?どうかした?」
「……ううん。なんでもない。早く寝な」
ひなたの頭をぽんと撫でて、私は自分の部屋のドアを閉めた。
手のひらには、まださっきの肉まんの熱が残っていた。馬鹿みたいに、いつまでも。
余裕のふりをした私の顔が、うまく笑えているかどうか、自分でも、分からなかった。