黒澤主任の甘いイジワル
 黒澤が戻って二週間、相変わらず営業一課は忙しい。
 
「一条さん、大学病院の資料出来てる?」
「はい、沢城ショッピングモールの見積もりも出来てます」
「助かる。じゃ医大の打ち合わせのあと、そのまま沢城の打ち合わせに行ってくる」
 
 新菜から資料を受け取ると、黒澤は足早にオフィスを出て行く。その表情には、まさに戦場へ向かうような勇ましさがある。背中に小さくエールを送り、新菜はすぐにパソコンへ向き直った。
 普段から多忙な部署でも、ここまで忙しいのは入社して初めてだった。新菜が営業補佐を務めていた笹内の入院によるもので、黒澤の海外赴任中、代わりにエースを担っていた笹内の穴は大きい。
 帰国直後の黒澤は休暇も返上で呼び出され、新菜も部長からの緊急の電話で走ることになった。
 最も負荷がかかっているのは黒澤だ。復帰直後に決まっていた海外との大型案件に加え、笹内が担当していた大学病院移転と、新設されるショッピングモールの案件まで一手にこなしている。新菜は、二年ぶりにその黒澤を支えている。

 夕方。
 終業の時間が近づいても鳴り止まない電話に応対する。
 
「はい、藤川物産です。……黒澤はただいま席を外しておりまして——」
 
 ショッピングモールの建設を請け負う設計会社からだ。代わりに用件を聞こうとした時、「一条さん」と小声で呼ばれた。
 
「代わるよ」

 外回りから帰ってきたばかりの黒澤が新菜のデスクに手を伸ばした。繋がったままの受話器を新菜が差し出すと、笑みを向けられた。スマートな手が、さらさらとペンを走らせる。
 
 ——7/18 10:00 現地
 
 メモの日付は明日だ。電話を切った黒澤は、ふぅと小さく息をつき、隣の空席の椅子を引いて腰を下ろした。戦から戻り、張り詰めていた緊張がふっと緩んだような顔だ。

「沢城のサッシの見積もり、修正が入った。工期も押してるから、他の物も含めて現地で打ち合わせしたいって」
「でしたら、笹内さんの現地調査資料と突き合わせて明日持参できるよう準備します」
「それなんだけど、同行してくれない? 笹内の資料だけじゃ、現場の納まりが読みきれなくて。向こうの所長、かなりシビアだし、知ってる一条さんがいてくれると助かる」
「分かりました。とりあえず見積もり作成し直します」
 
 心臓が早鐘を打っている。努めて涼しい顔を装うと、ほっとした表情で「よかった」と黒澤はつぶやいた。
 片道二時間はかかる道のり。
 ——明日、黒澤さんとずっと一緒……。
 鳴り始めた電話に、新菜は高鳴る胸を慌てて押さえ、受話器へと手を伸ばした。
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