黒澤主任の甘いイジワル
 電車の揺れが心地いい。
 残業終わり。並んで揺られる終電の中、隣の黒澤は「明日の段取りを頭に入れておく」とスマートフォンをいじり始めた。ふたりの時間に期待しただけに、新菜は残念な気持ちに蓋をした。
(……ねむい)
 いつもならスマートフォンで動画を見て眠気をやり過ごすも、隣に黒澤がいると思うと車窓に目を向けるしかなかった。向かいに座るサラリーマンが目を閉じて揺れている。
 ……帰ってからお風呂にお湯をためて、その間に何かを食べて……冷蔵庫には何があったっけ……。
 ぼんやりと考えごとをしているうちに、あと十五分というところで意識が落ちた。

「……一条」
 
 右側に確かな体温を感じる。心地よくて、この温かさに甘えていたい――。ふわりと漂う柔軟剤の香りに安らぎかけたとき、耳元に吐息がかかった。
 
「……そんなに無防備な顔で寝てると、悪戯されるって教わらなかったか?」
「!」
 
 その言葉に、新菜は弾かれたように目を見開いた。目の前で、薄い唇が三日月のラインを描いて笑っている。
 
「やっと起きた。なんでこんな短時間でそんなに爆睡できるんだよ」
「……えっ、あ、すみません、重かったですよね」
 
 思い切り黒澤に寄りかかっていたことに気づき、慌てて身を引く。
 
「一条さんって、耳、弱いの?」
「はっ!?」
「全然起きないから耳元で囁いたら、パッと目を開いた。ちょっと……」
「ちょっと、何ですか?」
「面白いね」
 
 力が抜けそうになるのを必死に堪える。深夜になっても黒澤の整った横顔に、新菜は不覚にもムッとした。
 
「ほら、降りるぞ」
 
 差し出された手に、考えるより先に、新菜は手を伸ばして握り返していた。改札を抜けても離れない。黒澤は涼しい顔でマンションへ歩いていく。その歩みは、新菜に合わせてゆっくりだった。
 
(このまま黒澤さんと……?)
 
 目と鼻の先に住むふたり。五分も歩けば新菜のマンションに着いてしまう。
 
「じゃ、明日よろしく」
 
 あっさり黒澤の手が離れた。その指先が新菜の手のひらをかすめ、名残惜しさを残す。

「……お疲れさまでした」
「お疲れ」

 外灯に照らされた背中は立ち止まることもなく去っていく。さっきまで繋がれていた手には、黒澤の感触が残っている。なのに、その背中には名残惜しさはなくて、やっぱり少し意地悪だと新菜は思った。
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