黒澤主任の甘いイジワル
 ショッピングモールの案件が落ち着いてきたころには、黒澤が戻って一カ月が過ぎていた。営業一課の面々は、会社からほど近い居酒屋にいた。

「それでは皆さんグラスを持って――、黒澤さんの帰国、そして営業一課へお帰りなさい! 乾杯ーっ!」

 別の課の黒澤の同期も駆けつけ、総勢十八人。主役の黒澤は中心に座らされ、次々と注がれる酒に「ありがとうございます」と笑顔で応えていた。
 新菜は、黒澤の隣に座っている。店に入るなり黒澤が「一条さんは俺の隣に座って」と耳元でつぶやいたからだ。
 
「……黒澤さんと話したい人、たくさんいますよ?」
「いいでしょ? この一カ月は大変だったんだから。お疲れさまの意味も込めて」
「それは、……確かに」
 
 周囲から刺さる視線に気づかないフリをして、新菜はグラスを口元へ運ぶ。
 先日、沢城のショッピングモールの出張で縮まったように見えた距離は、変わっていない。
 
「黒澤ぁ、海外はどうだった?  やっぱりモテただろ?」
 
 黒澤の同期、矢野の突っ込みに、全員の視線が集中する。
 
「さあ、どうだろ。でも帰ってきて思ったのは、一課に戻れてよかったってことかな」
 
 黒澤の言葉に歓喜の声が上がる。
 
「だろ! やっぱ他の課よりもウチの課は団結力が違うよな」

 談笑が広がる中、黒澤には次々とビールが注がれる。
 海外での出会いや、おまえってもしかして……なんていう、ひやりとするような言葉も注がれたグラスを空けながら、黒澤はさらりとかわしていく。
 
(ペース、早い……)
 
 顔色こそ変えていないが、黒澤はお酒がそれほど強くないことを新菜は知っている。

「あっ、新菜!」

 黒澤に酒を注いでいた同期が声をあげた。新菜は黒澤のグラスを奪い取り、残っていたビールを一気に飲み干した。グラスを置いて黒澤と目が合うと、「大丈夫です」と無言で返す。
 
「なんだよ~一条さん、足りないなら俺が注ぐよ?」
「ありがとうございます! あと、黒澤さんの分も私に注いでいただいて!」
「久しぶりに一条が本領発揮してきたな!」
 
 笑いが起きる中、「ありがとう」と黒澤が優しく笑った。その笑みに、急にいろんなことが思い出された。
 三年前。あのカフェで、心配そうに向けられた目。ふいに「大丈夫だよ」と頭をぽんぽんと触れられ、視線の先でぶつかった黒澤の赤い顔……。
 
「黒澤さぁん」
 
 反対側から甘い声が響いた。新菜は黒澤に背を向け、左隣の社員と話し始める。できるだけ他の女子社員と黒澤の会話を邪魔したくはない――それは、新菜なりの意地だ。

 コース料理も終わり、二次会へ移るというタイミングで「ごめん、明日引っ越しの片づけがあって」と、あらかじめ部長に告げていた黒澤は惜しまれつつも会を抜けることになった。新菜も二次会の流れに乗ろうとしたとき、黒澤が新菜へ近づいた。

「このあと時間ある? お疲れさま会しない? ふたりで」

 至近距離で視線が絡み、小さく新菜は返事した。
 
 居酒屋を出ると、夜の湿った空気がまとわりつく。冷めない夜気に男性社員のほとんどがネクタイを外していた。そんな二次会へ向かう社員たちの背中をふたりで見送る。
 
「ちょっと場所を変えようか」

 黒澤が慣れた手つきでタクシーを止める。先を促され、これから始まる二人きりの時間に静かに息を深く吸い込んだ。
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