黒澤主任の甘いイジワル
 タクシーは夜の街をすり抜け、賑やかなネオンが遠ざかっていく。行き先を告げる黒澤の声に、胸の鼓動が一段と速くなる。
 黒澤と新菜のマンションは目と鼻の先。黒澤がタクシーを降りたら、そこまで歩いて送り届ける――そんな光景が頭をよぎる。
 
(……どうしよう)
 
 さっき強気になったはずの新菜も、緊張が高まるにつれて言葉を失っていく。
 
「……気分悪い?」
「いえ、これぐらいでは酔いません」
「そっか。やっぱり新菜ってお酒強いんだね」
 
 呼び捨てに胸がキュンと音を立てた。出張先で呼ばれて以来だ。
 
「……その呼び方」
「嫌?」
「嫌じゃ、ないです」
 
 膝の上に置いている手に、黒澤がそっと触れた。
 
「これはどう?」
 
 ズルい。
 触れた手を、指先をからめとるように繋がれる。エアコンの効いた車内なのに、体温が急上昇していく。それは黒澤も同じなのか、繋いだ指先から伝わる熱さが全身に広がった。タクシーが黒澤の住むマンションに着く頃には、もう互いに離れがたい空気になっていた。
 マンションの前で、新菜は繋がれた手をキュッと握り返す。
 
「来て」
 
 拒む理由など、どこにもなかった。
 
 エレベーターを四階で降りて、すぐの角部屋が黒澤の住まいだった。黒澤がドアを開け、先を促す。部屋に入ると、彼は後ろ手に扉を閉めた。
 
「新菜」

 呼ばれて振り向くと、シトラスとアルコールの香りが鼻をかすめる。広くはない玄関で新菜の背中が壁に突き当たり、逃げ場を塞ぐように黒澤の手が壁につかれた。唇に熱が触れる。頬に触れる手から、溢れるような思いが伝わってくる。
 
 ようやく唇を離し、見つめ合って新菜は口を開いた。
 
「わたし、目をつぶっていても黒澤さんの手、当てられる自信があります」
「……ん?」
「触れた感触も、厚みも。他の人と、ちがうから」
「うわ、それいま言う? 妬くんだけど」
 
 信じられない、と黒澤が苦笑しながら自分のネクタイに手をかけた。目の前で結び目を引き緩め、するりと布が擦れる音が響く。その手つきに新菜の理性が溶かされていく。胸の高鳴りを最高潮まで押し上げ、ひたすらに甘い時間が流れていった。
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