完璧な婚約者と迎える、自堕落な朝

「試作品の進捗を見に、ちょっと研究所(ラボ)の方行ってきまーす」

 金曜日、午前十一時のオフィス。書類の入ったバッグを肩にかけた私は、同じブランド商品を担当しているチームの皆に声をかけた。

「はい」とか「了解」とか、短い返事をする同僚たちの中で、ひとりだけニヤニヤしているのは、同期の麻里だ。
「行ってらっしゃ~い。ついでに婚約者の黒瀬くんとランチ?」
「冷やかさないでよ。仕事の時はそういう空気ナシにしてるから、ひとりで適当に済ませてくる」

 そっけなくあしらうと、麻里はつまらなそうに「ふうん」と腕を組む。

「相変わらずドライな理系カップルねぇ。あ、こないだ指摘した化粧水の香りが強すぎる件、改善できてるか厳しくチェックよろしく」
「オッケー。ちゃんとリストに入れてあるから安心して」

 私、末永颯花は化粧品メーカー勤務の三十一歳。

 本社で企画職をしていて、今はチームリーダーとして、新しいメンズコスメのブランドを立ち上げるべく奮闘している。開発中の試作品についての確認をするため、今から郊外にある会社の研究所へ向かうところだ。

 忙しなく廊下を歩きながら、腕時計をちらっと見る。

 ……ちょっとメイクを直す時間くらいあるよね。

 外へ出る前に、私は化粧室に立ち寄った。

 鏡の前に立ち、後ろで束ねてあるストレートの黒髪ロングヘアに乱れがないことを確認する。

 自社製品の皮脂吸収シートで肌を押さえ、これまた自社製品のミストで乾燥が気になる目元に潤いを足す。パウダーを軽く重ねたら、やや落ちていたコーラルピンクのリップを塗り直して完成だ。

 同僚の前ではクールぶってみたけれど、本当の私は、研究所で働いている婚約者の彼にべた惚れ。

 彼の前ではベストな自分でいたくて、ついつい気合いを入れてしまう。

 同じ理系大学出身の彼――黒瀬文哉とは、大学三年の頃からの付き合い。

 なんだかんだもうすぐ交際十年になるけれど、結婚はお互いに会社での立場が安定してからにしようと言い合っていたので、二十代の内はお互い仕事に打ち込んだ。

 その間に、彼の愛情が冷めたらどうしよう……とひとりで不安になることもあったけれど、昨年、彼が研究所内で昇進し、私がチームリーダーを任されたタイミングで、文哉からプロポーズを受けた。

『デートの約束をしなくても、常にそばにいられる関係になりたい。颯花が見せてくれるどんな表情も、一番最初に見られる相手でいたいんだ。――俺と、結婚してほしい』

 彼が用意してくれた指輪には、九月生まれの私にぴったりのブルーサファイヤが輝いていた。

 感動して泣いてしまった私に文哉は少し慌てて、『サファイヤがルビーと同じ鉱物からできているのは知ってる? 酸化アルミニウムの結晶で――』と、雑学を披露し始めた。

 大学の同級生、かつ所属するゼミも一緒で十年も付き合ってきた仲だから、その話はすでに聞いたことがあった。

 しかし、そんな記憶を忘れてしまうくらいにプロポーズに緊張していたのだと思うと、彼が愛しくてたまらなくて、私から熱烈なキスのお返しをした。


 それから半年ほど経った現在、仕事の合間を縫って結婚式の準備と新居探しをしている最中だ。幸いマリッジブルーなどとは無縁で、この上なく幸せな毎日を送っている。

「到着まであと五分……」

 社用車のナビを確認し、口の中でだけで小さく呟く。窓の外には、都心にある本社の周辺とは違って田んぼや畑の多いのどかな風景が広がっている。

 文哉は入社以来ずっと研究所勤務なので、毎朝早くにひとり暮らしのマンションを出て電車に長時間揺られ、帰りも遅くなる。

 一度、近くに部屋を借りたらと提案したこともあるのだけれど、『颯花に会いづらくなるのは困る』と、東京中心部の実家から会社に通う私に合わせてずっと大変な通勤を続けている。

 彼の気持ちは嬉しいけれど、いつか体を壊してしまうのではと心配なので、新居はそれぞれの通勤に平等な条件で探している。

 もしもいい物件が見つかったら、籍を入れるよりも早く、私は彼と一緒に暮らしたいと思っている。

 なぜなら、私にとって文哉の一番の魅力は――普通にデートをしただけではなかなか見ることのできない、生活感あふれる彼の一面だから。


「お疲れ様です。企画部末永ですー」

 何度も足を運んでいるため、勝手知ったる研究所。

 試作品を本社に持ち帰るための保冷バッグを肩から下げた私は、清潔な白い壁と床に囲まれた部屋を訪れた。中にはたくさんの実験器具を前に白衣姿で仕事をする研究所の社員たちがいて、彼らに挨拶をしながら担当者の姿を探す。

 すると、数メートル先の実験台で、細長いピペットで瓶から薬品を吸い上げる彼の姿を見つける。

 尖った高い鼻に、彫りの深い目元。後ろに撫でつけられた艶やかな黒髪。その美しすぎる横顔につい目を奪われてしまうが、今は仕事中!と自分に言い聞かせる。

 私は彼に気づかれぬよう深呼吸をすると、〝本社の社員〟という顔を作って遠慮がちに声を掛けた。

「お疲れ様です、黒瀬さん」
「ああ、末永さんですか。少し待ってください」

 彼は吸い上げた薬品を、また別の液体が入った試験管に数滴落とし、手袋をつけた手で軽く振る。

 その反応を確かめるまなざしは真剣だ。

 彼はキスをする時もあんな目をして、私の反応を窺う時がある。

 さらに、キスで止まれずにベッドになだれ込んだ時さえ、彼は理知的な一面をのぞかせる。たぶん、真面目な顔で私の体にあらゆる実験を試みては、頭の中にその結果をデータとして蓄積しているのだと思う。

 彼の中にある私のデータは、すでに十年分。つまり体の隅々までを知り尽くされているので、私は付き合いたての頃よりずっと早く、そして激しく、彼の実験で燃え盛ってはどろどろに溶けてしまう。

 いっそ本物の化学反応と同じように、彼と深く結びついて、ひとつの新しい物質に生まれ変われたらいいのに――。

「――さん、末永さん」

 文哉に何度も呼びかけられる声で、ハッと我に返る。

 彼はいつの間にか手袋を外し、クリアファイルに入った書類を持って私のそばに立っていた。


 いかんいかん。実験中の彼の視線ひとつで、激しくふしだらな妄想の世界にトリップしてしまった……!

「す、すみませんぼうっとして。試作品の件ですよね?」
「ええ。こちらのデータをご覧ください。前回ご指摘の香りの強さについてはこの数値を見ていただくと改善したことがわかるかと」
「ありがとうございます。実物はありますか? 肌にのせた時の香りを試させてください」
「もちろんです。こちらに」

 煩悩をしまい込んで、彼が示したデスク上の棚を見る。そこには遮光性のあるコバルトブルーの小瓶が整然と並んでいる。

 私たちがドロッパーボトルと呼んでいるそれはふたの部分がスポイトになっており、少量で効果を発揮する美容液タイプの商品によく利用されるものだ。

 目的の化粧水サンプルを手に取った彼が、私に「手を」と短く促す。

 言われるがまま手の甲を出すと、文哉がそこに数滴の化粧水を垂らした。その状態のままでは、とくに香りは感じない。次に指先で軽くトントンと馴染ませてから、鼻に近づける。

 さりげない中に、ほんのり清潔なせっけんの香りがした。メンズコスメ初心者でも手に取りやすそうな、万人受けする香りだ。

 しかし、もう一度手を近づけてみると、ほとんどなんの匂いもしない。要するにとても理想的な仕上がりだ。サラッとした使用感なのに潤いも申し分ない。

「黒瀬さん! 私たちが目指していたものはまさにこれです!」
「よかった。香料の調整にとことんこだわった甲斐があります」

 仕事中はあまり感情をあらわにしない文哉だが、今回の商品には彼も少し不安があったらしい。涼しげな目元が安心したように緩んで、薄い唇が笑みを浮かべる。

 私の婚約者、カッコよすぎませんか……?

 心の中で悶えつつも、彼が用意してくれた資料、そしてサンプルの瓶をバッグに詰める。

 こうして研究所に出向く時はいつも、文哉のささいな仕草や表情で胸はときめくし、彼が仕事を頑張っている姿を見るだけで、自分のモチベーションにも繋がる。

 私にとってはご褒美のようなイベントだが、仕事中に浮かれてばかりはいられない。

「そうだ、フェイスパックの方はどうですか? シートの密着度が課題でしたよね」
「ええ。あれから、日本人男性の顔の輪郭について、さらに五百名分のデータを追加してサイズを調整しています。ただ、カットについてもう少し研究の余地があるので、サンプルの提示は二週間程度お待ちください」
「わかりました。メンバーに伝えます」

 文哉の魅力は、容姿が整っていることだけではない。大学の頃からとことん自分の専門分野については突き詰めるタイプで、仕事においてもその姿勢を貫いて良い商品を作ろうとしている姿には、神々しささえ感じられる。

 本社と研究所という職場の違いはあれど、そんな彼と同じ会社で働くことができているのはとても幸せだし、なにより私たちは結婚間近。これ以上望んだらばちが当たりそうなくらい幸せ……。なのだけれど。

 私という人間はどこまでも欲深いらしい。恋人としても同僚としても、文哉の色々な表情を見られる立場でありながら、昼間の彼の姿を見つめるだけでは物足りない。

 用件を済ませ研究所を去るタイミングで、出入り口まで見送りに来た文哉にそっと耳打ちする。

「あのさ、今夜……泊まりに行ってもいい?」

 文哉の長い睫毛が震え、彼の白く整った頬がほんのり赤く色づいた。はにかんだような笑みがいじらしくて、心臓が鷲掴みにされる。

「俺、多分遅くなるけど平気?」
「もちろん。ご飯用意して待ってる」
「ありがとう。帰ったら颯花が待ってると思うと、残りの仕事も頑張れるよ」

 ああ、なんて完璧な婚約者なのだろう。ぽうっとしながら彼に別れを告げる。

 しかし、彼と別れた後駐車場で車に乗り込んだ私は、乙女モードから一転。やや太めの声で「よしっ」と呟き控えめにガッツポーズを決める。

 お泊まりの約束は取り付けた。あとは、私が明日の朝寝坊しなければいいだけ。

 前回は私が熟睡しているうちにタイミングを逃してしまったから、今度こそは本懐を遂げて見せる……!

 定時に仕事を終わらせていそいそと文哉の家に向かった私は、古風な男性が夢見ていそうな新妻のごとき甲斐甲斐しさで夕食を作りながら、彼の帰りを待った。

 結婚したら毎日こんな風に彼に尽くしたい……!と思っているわけではないが、自分もフルタイムの正社員で働いているから、古風な男性側の意見も理解できなくはない。

 仕事で疲れて帰って来た時に、好きな人の笑顔と美味しいご飯が待っていたら、そりゃ嬉しいし助かるだろう。

 どちらか一方に負担を押し付ける形にならなければ、そんな日をたまに作るのは全然悪くないと思う。

 子どもが生まれたりしたら、状況は変わってくるのかもしれないけど……いや、子どもって。さすがにまだ気が早すぎるよ!

 肉じゃがの鍋を火にかけ水分を飛ばしながら、ひとり恥ずかしくなって頬を熱くする。

 炊飯器にはつやつやのご飯、文哉の好きな赤だしのお味噌汁に、ブロッコリーをツナマヨで和えたサラダも完成しているので、頭の中に生じた余白でついつい将来の妄想が広がってしまった。

 手のひらでぱたぱたと顔をあおいでいると、玄関の方で物音がする。文哉が帰ってきたのだ。

「おかえりなさい」
「ただいま。……すごくいい匂いがする」

 部屋に入ってきた文哉は、目元の辺りに少しの疲れを滲ませつつも、私の姿を見つけると柔らかく微笑んだ。

 ダイニングの椅子にかばんを置いて背もたれにジャケットをかけると、キッチンにやってきて後ろから私をゆるく抱きしめる。

「肉じゃがだ。美味しそう」
「もうちょっと煮ようかと思ってたけど、お腹空いたし食べよっか。手を洗ってきて」
「ああ。でも、その前に――」

 軽く首を傾けた彼が顔を近づけ、私の唇に触れるだけのキスを落とした。触れている部分からじんわり伝わってくる彼の体温に、鼓動が速まる。

 そっと唇を離した彼が、囁くように言った。

「デザートに颯花を注文していい?」
「……うん。でも、今日の私、食後のデザートにしては重たいかもしれない。久々に研究所で白衣姿の文哉を見て、なんか疼いちゃったから」

 私を抱きしめる文哉の腕に、きゅ、と力がこもる。至近距離で絡んだままの視線が、甘い熱を帯びる。

「昼間、真面目な顔してそんなこと考えてたのか」
「そうだよ。だからこんな風に押しかけたんじゃない」

 密着したまま、上目遣いで彼を見る。その白く尖った顎は、まだつるりとしている。

 やっぱり、明日の朝にならないとアレはお目にかかれないか……。

 軽く落胆していると、唐突に二度目のキスが降ってくる。直後に三度目。そして四度目も……徐々に激しくリップ音の立つ、濃厚な口づけになっていく。

「ん。文哉……ご飯は?」
「もちろん後で食べるよ、でも今は……甘いものが先に欲しくなった」

 余裕のない声にドキンと心臓が脈打ち、再び唇を塞がれる。彼の手が服の上から丁寧に体のラインをなぞり、私はその動きに集中するように、目を閉じる。

 途端に思考がとろりと形をなくし、蜂蜜の中に溺れていくような甘い感覚に飲み込まれていった。


 それからの私たちは、たっぷりと愛し合った後で食事もお風呂もふたりで堪能し、寝るときは文哉のぶかぶかなTシャツに身を包み、同じベッドで幸せな眠りについた。

 ――そして翌朝。心地よく微睡んでいた私は、ドアのすき間から微かに聞こえてくる水音でハッと目を覚ました。
 ベッドの隣に目をやると、すでに文哉の姿はない。

 ま、まずい……!

 慌てた私はベッドから転げ落ちるようにして床に足をつけ、裸足のまま洗面所へダッシュする。

「待って文哉! 早まらないで……!」

 切羽詰まって叫びながら、洗面所に飛び込む。

 彼の手には、ヴィィイイン……と金属の歯を蠢かせる、にっくき電気シェーバーが。

 正面の鏡の中で驚く文哉と目が合ったものの、私はすぐに視線を彼の口元へと移動させた。

「よかった……間に合った」

 神様仏様、そして文哉様ありがとう……!

「間に合ったって……なにが? どうしてそんなに焦ってるの?」

 ぽかん、と口を開ける、隙だらけの彼。いつもなら美しく整った口元に、無秩序に散っている、ささやかな無精髭。

 ――これ。これなの。普段、あんなにも清潔な研究所で働く、完璧な婚約者である彼の、一番の魅力。文哉は元々髭が薄いので、こうして一緒に夜を明かさない限り、この姿を拝むことができないのだ。

「文哉~、好き~」

 私は両手を広げて彼にハグをねだり、未だになにが起こったか理解しきれていなさそうな彼に構わず、甘えるようにその口元に頬を寄せる。

「どうしたんだよ。朝から甘えん坊で……別にいいけど」

 文哉は苦笑しながらも、慈しむように髪を撫でてくれる。

 この感触……まだ芽を出したばかりの、若い芝生? それとも、生まれたての動物の産毛?

 ううん、どっちでもない。他に例えようのない私だけの宝物……!

 念願かなって興奮気味の私は、最愛の婚約者を戸惑わせたまま鏡の前で熱烈な頬ずりを繰り返し、その甘い恍惚に思う存分酔いしれた。



Fin.
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