奇跡を起こすソーダ水
Chapter3 期待と試練
北海道民にとって希望と呼べる存在はクリスタルミューズだけではない。札幌を拠点に構えるプロ野球チーム、『札幌グレイシャーズ』。監督の氷川 正信(63)率いるグレイシャーズは、4番選手のバンディッド悠介(29)を筆頭に勢いを増していた。
2026年3月25日、開幕戦。札幌グレイシャーズVS神戸マンモス。
グレイシャーズは1対3とリードを許す。試合は9回裏でグレイシャーズの攻撃、2アウト満塁のサヨナラ場面。打者は他球団から移籍したばかりのバンディッド悠介。
——「さあ次のバッターはサーモンズから移籍したばかりのバンディッド悠介!グレイシャーズファンが最も期待を寄せる男に、開幕戦の運命が託されます!」
「さあ果たして、開幕戦初アーチなるか?それとも神戸マンモスが逃げ切るのか?注目の1球ですね!」——
多くの歓声が集まる中、迎えた1ボール2ストライク。手に汗を握りながらバットを持つ。
「あと1球!あと1球!」
マンモスファンの大歓声が球場を包む。そして投げられたのはカーブ……明らかに球はストライクゾーンに入っていた。
「……!」
バンディッドは渾身のダウンスイングに全てを賭けた。そして——
カーン……!
——「打球が高々と舞い上がった!ホームランか!?伸びていくぞ……打球はセンター真鍋……見送ったー!」
「おお何と……!移籍後初アーチを描きました!サヨナラ3ランホームラン!」——
開幕戦、札幌グレイシャーズ勝利。その後もグレイシャーズは勝利を重ねていき、北海道民の誇りとして球界を背負っていった。だがその裏で、グレイシャーズの壊滅の危機が影から迫っていた。
2026年10月16日の夜。バンディッド悠介が宿泊先のホテルへ帰ろうとしていた頃だった。
コツ……コツ……
「ふぅ~……さっさと風呂入って寝なきゃな……ってん?何だ……?」
路上で一人の人影が倒れている。酔っぱらいかと思ったが、ユニフォームを着ている。
「このユニフォーム……グレイシャーズ!?」
ダッダッダッ……!
「……!?赤穂さん!?赤穂さん!?おい……!」
「……」
パサッ……
「う……嘘だろ……!?」
ポコポコポコ……
「何なんだよこれ……!?考えてる場合じゃない……!」
プルプルプル……
「警察ですか!?大変なんです……!うちの選手が死んでるんです……!?」
殺害されたのはグレイシャーズの投手、赤穂 崇人(34)。血液がポコポコと沸騰するように蒸発している。
「ブラッディソーダ……ってやつなのかこれ!?」
今世間が恐怖に震えているブラッディソーダ殺人事件。だが本物のブラッディソーダは血液がシュワシュワと弾けるのに対し、なぜか血液が沸騰している。だが違和感にバンディッドは気づくはずもなく、ブラッディソーダ殺人事件の1件として警察は処理した。
1時間後。
♪〜♪〜
音漏れするような大音量でヘッドホンをしながら歩く氷川凪は、手だけ振り付けの練習をしながら家路へと向かっていた。しかし、無防備な彼女を狙う一人の男の影が迫る。
コソコソ……
人混みの中から狙う男は、ナイフを手に彼女へと接近していく。だが一瞬だけ人混みに紛れ、その姿を見失う。
「……!どこに行った……?」
いくら探しても彼女の姿が見当たらない。追っていた男は、まさか自分が追われていたことなど知らず——
スッ……
「何私をストーカーしてんの……?」
「……!何……!?」
ガシッ……ボキィ……!
「コ……」
気づく前に首が真反対に曲げられていた。当然男は即死。だが彼女はクリスタルミューズのリーダー、トップアイドルの氷川凪のはずだ。なぜ命を狙われている?それにあの力は。ただ一つ言えること。それは、自分が強くなければ兄を守れるはずがない。兄より強くなければいけないということだけ。
2026年12月9日、11時。幸人は買い出しのために外出していた。店を営業しない日は何も考えなくていい。後先のことは考えたくない。だがこのままでいいのだろうか?妹はトップアイドルとして多忙な日々、母親はずっと行方不明。父親は、探す価値もない。だがそんなとき——
「いぎゃぁー……!?」
「……!?」
札幌の路地裏から大きな悲鳴が響き渡った。放っておきたいところだが、やはり暗殺者としての性なのか彼の足は自然と動いていた。
シュワシュワ……
「……!あれは……?」
襲われたのは初老の男性。問題の加害者はフードを目深に被った女性。被害者は彼の方にも殺害依頼が入っていた男。札幌グレイシャーズの球団に勤める大垣 文吉。どうやら大垣は、野球部の高校生を騙して女性用風俗に売り飛ばしていたらしい。それだけでなく、彼は女性の姿を見て真っ先に口を開く。
「あらま?ファンの方から期待されているあなたが、自分から罪の試練を重ねちゃうなんてね……?凪ちゃん……」
「……」
「僕は全部わかっているわよ。あなた、一人でどれだけのもの抱えて——」
シュッ……!
「……フゥ!」
パリン……ヒュゥゥ……
「……!?やはりこれね……」
投げられた氷のナイフは壁に当たるとすぐに溶けた。これは凪にしか作れない氷のナイフ。触れただけでかなり危険だ。
ダッダッダッ……!
「あら、捕まえたって僕は何もしないのに……」
彼がそう思っても凪は誰にも見られたくないのだろう。そんなときだった。
「大垣さん!……!?貴様、大垣さんに何をした!?」
「もぉ……妹の尻拭いは兄の責任なのね……」
高校生を売り飛ばす時点で裏社会の人間と関わっているのか、大垣の周辺にはギャングがいた。
「顔を見られちゃったわね……まあ殺しはしないけど」
「こいつ女じゃねえか!?」
そろそろ女性に間違われるのも飽きてきた。性転換手術をしたら声も女性になれるのだろうか?
「ゴホン……あんたたち、大垣が何をしていたか知らないの!?大垣のことは許せないけど、守ろうとするあんたたちも、もう許さないんだし!」
「何……!?こいつ、男なのか……!?」
「わっ!ヤバい言っちゃった……」
ここで久しぶりに野太い声を出してみた。普段の生活は元々の声の高さもあって支障なかったのだが、いざ本音を言ってみるとスッキリするものだ。
スッ……
路地裏は壁と壁が狭い。狭い場所こそ短期決戦にかなり向いている。強者である風格を見せるには、敵にゆっくりと向かって行くこと。挑発に乗った男たちは一斉に殴りかかろうとする。
ピン……
彼はわざと持参していたソーダ瓶を床に落とす。それに気づかない男の一人が踏んで足を滑らせ、そのまま転ぶと一斉に全員が転んだ。
バタンッ……!
「うわ……!?」
コツ……コツ……
男たちが目を開けると、真上から見下ろす彼の姿。殴らなくても圧倒的な強者感を見せられるのが彼の強みだ。
「ねえ?この大垣文吉って、札幌が誇るグレイシャーズ側の人間よね?」
やはり戦闘が終わったら女性的な声に戻る。グレイシャーズは皮肉にも、彼の父親が監督を務めている。
「ハハハ……お前、そういえば監督のオカマ息子だよなぁ?写真が隅っこに飾られていたぜ……」
「フフフ……あなた今の発言、監督が何か良からぬことを考えているって解釈で、間違っていないわね……?」
「グレイシャーズもあのアイドルも、どうせもうすぐ終わりだ……お前なんかが止められ——」
ドスッ……!
「ぐぶぅ……!?」
「もうお黙り!罰ゲームはソーダ一気飲み……」
ポンッ……シュワシュワ……
「おい!何するつもりだ……!?」
「今言ったじゃない?ソーダ一気飲みよ。ちなみにこれね、過去一の強さかもしれないから、しんどいわよ……」
「やめ……ごぼごぼ……!?」
シュワシュワ……!
案の定、強炭酸の一気飲みに喉が耐えられるはずもなく嘔吐。毒が入っていないだけマシだが、絶え間なく喉に流される苦痛は言わなくてもわかるだろう。
バタン……
「全く手間かけさせるわね……帰ったらまた作んないと!」
けれど、妹の凪は何を考えている?あんな殺しを続けていたら、凪が愛するメンバーやファンが地獄に突き落とされるっていうのに。何か違う目的でもあるのか?それにグレイシャーズの選手が次々と殺害される事件も今話題になっている。12月13日に東京ドームで開催されるクリスタルミューズのライブ。凪がそれでも手を汚し続けるのなら、兄である自分には止める義務があるのかもしれない。僕だって皆の夢を壊したくない!しかし、彼の知らないところで事態はかなり深刻な方向へと向かっていた。
同刻。
ウーウー……!ウーウー……!
クリスタルミューズに並ぶ北海道のアイドルグループ、『ホワイトアスター』の事務所で大規模な火災が発生していた。
「おい中に誰かいないのか!?」
「マズい……!このままじゃ全部焼け焦げちまう……!」
「中に……!社長がまだ……!」
ホワイトアスターのリーダー、海瀬 円香(23)はパニックで取り乱している。まだ建物の中に社長が残されているらしいが、この規模で助け出せるのだろうか?結局完全に鎮火するまでには数時間かかり、その後消防隊の捜索により、一人の遺体が発見された。
「社長……!?」
「嘘……社長が……そんな……!」
遺体の身元は、ホワイトアスターの支配人兼社長を務める日吉 正隆。そんなとき、事件現場にはクリスタルミューズの朝倉美緒も立ち会っていた。円香は感情のまま美緒の胸ぐらを掴み——
「……!あなたたちクリスタルミューズが私の事務所燃やしたんでしょ……!?私たちのことずっと邪魔だと思っていたもんね……!?」
「……」
「それよりリーダーはどこよ……?こんなときにリーダーがいないってまずどういうことよ……!?」
「……単刀直入に言うけど、私たちじゃないわ……リーダーの仕業でもない……」
「じゃあ誰がやったってのよ……!?」
クリスタルミューズとホワイトアスターは同じ北海道出身のメンバーで構成されたアイドルグループ。世間で見ればライバルだ。もちろんだが、事務所を燃やしたのは凪でも、クリスタルミューズでもない。
「……」
2人が言い争う姿を見ている一人の影。その正体は凪だ。このまま疑いを否定しに行こうかと一歩踏み出そうとする。
コソコソ……
「……!」
彼女は微かな視線を感じ取る。見ている方向は自分の方ではなく、言い争う2人に向いていた。
「……」
一人の男が手榴弾を投げ込もうとピンに指をかけている。このまま美緒と円香を爆死させるつもりか?彼女が守るべき存在はメンバーだけじゃない。たとえライバルでも、円香は夢に向かって突き進むアイドル。守るに決まっている!
スッ……
凪は戦闘用グローブを填めると、冷気が漂う氷のナイフをケースから取り出した。彼女は一瞬にして間合いを詰め、そのまま——
シュッ……!
「……」
シュワシュワ……
「カカ……」
頸動脈を切られた男は猛毒の効果も相まって即死した。そのまま適当に身体を刺せば氷のナイフは溶けて消滅する。持ち帰る必要もない。まだ狙う影がいると考えた彼女は、あえて手榴弾のピンを抜いて人気のない方向へ投げ込み——
ドガーン……!
「……!?何……!?」
「爆発した……!?」
爆発音を聞きつけた犯人と思われる数人の男がぞろぞろと集まってくる。その男たちは美緒と円香を狙っていた。凪はこの瞬間を狙っていたのだ。
シュッ……
「だ……誰……!?」
「逃げて……」
彼女が静かに呟くと、美緒は円香の肩を支えるように現場から撤退した。
「動くな!お前どこのどいつだ!?」
「名乗る必要はないわ……あなたたちは弾け飛ぶように死ぬんだから……」
凪は氷のナイフを両手に構え、二刀流の姿勢を取った。
バンバーン……!
「フッ……!」
飛び交う銃弾を流れるような動きで回避し、そのまま全員のアキレス腱を切断。
シュワシュワシュワ……!
「そのナイフにはフッ酸が仕込まれているわ……中々乙な痛みでしょ……?」
「ぐがぁ……!脚が……!脚がぁ……!?」
ナイフに仕込まれた猛毒とフッ酸が傷口から流れ込み、切られたアキレス腱から焼けるような痛みが走る。
「死ぬまで時間がかかると思うわ。まあゆっくり楽しみな……」
仕込んだ毒が徐々に全身へと渡っていく。
「待て……!助けてくれ……助け……」
パタン……
「……」
東京ドームのライブまで4日しか残されていないのに、なぜ戦わなければいけない?このままアイドルが狙われる日が続くのなら、ライブの開催はかなり大きなリスクになる。だが兄には頼れない……アイドルを狙う黒幕の目星はついているのだが、彼女一人でどうにかなる問題ではなかった。
パン……パン……パン……!
「素晴らしいじゃないか……凪……」
「……お父さん……」
「随分見ない間にデカくなったな?」
「何の用?」
彼女の前に現れたのは実の父親、氷川正信だ。それに、彼女が黒幕だと睨んでいる存在でもある。理由は度を越した完璧主義な性格だ。そのせいで実の息子を一度も愛さなかった。
「そういえば4日後にライブだろ?父さんも楽しみにしているから……良い姿見せてくれよ?」
「……フフ……嘘つき……どうせお父さんが観たいものは、ライブじゃなくて血のライブでしょ?」
「やはり察しが良いな……まあメンバーからは、せいぜい目を離さないことをおすすめするよ……」
コツ……コツ……
やはり彼女の予想は当たっているのか?もしそうなら、どうしてアイドルを毒牙にかけるのか?グレイシャーズの選手が殺された事件の犯人も氷川正信なのだろうか?それに、これだけの権力を持っているのに、なぜ愛していない幸人を自ら殺さないのだろうか?やはり単純じゃない。
「そうだ……美緒!」
今は考えている余裕はなかった。ライブまで残された4日間、敵はどこからでもやってくるかもしれない。彼女は見えない恐怖の中、美緒が逃げた方向へ走り出した。
2026年3月25日、開幕戦。札幌グレイシャーズVS神戸マンモス。
グレイシャーズは1対3とリードを許す。試合は9回裏でグレイシャーズの攻撃、2アウト満塁のサヨナラ場面。打者は他球団から移籍したばかりのバンディッド悠介。
——「さあ次のバッターはサーモンズから移籍したばかりのバンディッド悠介!グレイシャーズファンが最も期待を寄せる男に、開幕戦の運命が託されます!」
「さあ果たして、開幕戦初アーチなるか?それとも神戸マンモスが逃げ切るのか?注目の1球ですね!」——
多くの歓声が集まる中、迎えた1ボール2ストライク。手に汗を握りながらバットを持つ。
「あと1球!あと1球!」
マンモスファンの大歓声が球場を包む。そして投げられたのはカーブ……明らかに球はストライクゾーンに入っていた。
「……!」
バンディッドは渾身のダウンスイングに全てを賭けた。そして——
カーン……!
——「打球が高々と舞い上がった!ホームランか!?伸びていくぞ……打球はセンター真鍋……見送ったー!」
「おお何と……!移籍後初アーチを描きました!サヨナラ3ランホームラン!」——
開幕戦、札幌グレイシャーズ勝利。その後もグレイシャーズは勝利を重ねていき、北海道民の誇りとして球界を背負っていった。だがその裏で、グレイシャーズの壊滅の危機が影から迫っていた。
2026年10月16日の夜。バンディッド悠介が宿泊先のホテルへ帰ろうとしていた頃だった。
コツ……コツ……
「ふぅ~……さっさと風呂入って寝なきゃな……ってん?何だ……?」
路上で一人の人影が倒れている。酔っぱらいかと思ったが、ユニフォームを着ている。
「このユニフォーム……グレイシャーズ!?」
ダッダッダッ……!
「……!?赤穂さん!?赤穂さん!?おい……!」
「……」
パサッ……
「う……嘘だろ……!?」
ポコポコポコ……
「何なんだよこれ……!?考えてる場合じゃない……!」
プルプルプル……
「警察ですか!?大変なんです……!うちの選手が死んでるんです……!?」
殺害されたのはグレイシャーズの投手、赤穂 崇人(34)。血液がポコポコと沸騰するように蒸発している。
「ブラッディソーダ……ってやつなのかこれ!?」
今世間が恐怖に震えているブラッディソーダ殺人事件。だが本物のブラッディソーダは血液がシュワシュワと弾けるのに対し、なぜか血液が沸騰している。だが違和感にバンディッドは気づくはずもなく、ブラッディソーダ殺人事件の1件として警察は処理した。
1時間後。
♪〜♪〜
音漏れするような大音量でヘッドホンをしながら歩く氷川凪は、手だけ振り付けの練習をしながら家路へと向かっていた。しかし、無防備な彼女を狙う一人の男の影が迫る。
コソコソ……
人混みの中から狙う男は、ナイフを手に彼女へと接近していく。だが一瞬だけ人混みに紛れ、その姿を見失う。
「……!どこに行った……?」
いくら探しても彼女の姿が見当たらない。追っていた男は、まさか自分が追われていたことなど知らず——
スッ……
「何私をストーカーしてんの……?」
「……!何……!?」
ガシッ……ボキィ……!
「コ……」
気づく前に首が真反対に曲げられていた。当然男は即死。だが彼女はクリスタルミューズのリーダー、トップアイドルの氷川凪のはずだ。なぜ命を狙われている?それにあの力は。ただ一つ言えること。それは、自分が強くなければ兄を守れるはずがない。兄より強くなければいけないということだけ。
2026年12月9日、11時。幸人は買い出しのために外出していた。店を営業しない日は何も考えなくていい。後先のことは考えたくない。だがこのままでいいのだろうか?妹はトップアイドルとして多忙な日々、母親はずっと行方不明。父親は、探す価値もない。だがそんなとき——
「いぎゃぁー……!?」
「……!?」
札幌の路地裏から大きな悲鳴が響き渡った。放っておきたいところだが、やはり暗殺者としての性なのか彼の足は自然と動いていた。
シュワシュワ……
「……!あれは……?」
襲われたのは初老の男性。問題の加害者はフードを目深に被った女性。被害者は彼の方にも殺害依頼が入っていた男。札幌グレイシャーズの球団に勤める大垣 文吉。どうやら大垣は、野球部の高校生を騙して女性用風俗に売り飛ばしていたらしい。それだけでなく、彼は女性の姿を見て真っ先に口を開く。
「あらま?ファンの方から期待されているあなたが、自分から罪の試練を重ねちゃうなんてね……?凪ちゃん……」
「……」
「僕は全部わかっているわよ。あなた、一人でどれだけのもの抱えて——」
シュッ……!
「……フゥ!」
パリン……ヒュゥゥ……
「……!?やはりこれね……」
投げられた氷のナイフは壁に当たるとすぐに溶けた。これは凪にしか作れない氷のナイフ。触れただけでかなり危険だ。
ダッダッダッ……!
「あら、捕まえたって僕は何もしないのに……」
彼がそう思っても凪は誰にも見られたくないのだろう。そんなときだった。
「大垣さん!……!?貴様、大垣さんに何をした!?」
「もぉ……妹の尻拭いは兄の責任なのね……」
高校生を売り飛ばす時点で裏社会の人間と関わっているのか、大垣の周辺にはギャングがいた。
「顔を見られちゃったわね……まあ殺しはしないけど」
「こいつ女じゃねえか!?」
そろそろ女性に間違われるのも飽きてきた。性転換手術をしたら声も女性になれるのだろうか?
「ゴホン……あんたたち、大垣が何をしていたか知らないの!?大垣のことは許せないけど、守ろうとするあんたたちも、もう許さないんだし!」
「何……!?こいつ、男なのか……!?」
「わっ!ヤバい言っちゃった……」
ここで久しぶりに野太い声を出してみた。普段の生活は元々の声の高さもあって支障なかったのだが、いざ本音を言ってみるとスッキリするものだ。
スッ……
路地裏は壁と壁が狭い。狭い場所こそ短期決戦にかなり向いている。強者である風格を見せるには、敵にゆっくりと向かって行くこと。挑発に乗った男たちは一斉に殴りかかろうとする。
ピン……
彼はわざと持参していたソーダ瓶を床に落とす。それに気づかない男の一人が踏んで足を滑らせ、そのまま転ぶと一斉に全員が転んだ。
バタンッ……!
「うわ……!?」
コツ……コツ……
男たちが目を開けると、真上から見下ろす彼の姿。殴らなくても圧倒的な強者感を見せられるのが彼の強みだ。
「ねえ?この大垣文吉って、札幌が誇るグレイシャーズ側の人間よね?」
やはり戦闘が終わったら女性的な声に戻る。グレイシャーズは皮肉にも、彼の父親が監督を務めている。
「ハハハ……お前、そういえば監督のオカマ息子だよなぁ?写真が隅っこに飾られていたぜ……」
「フフフ……あなた今の発言、監督が何か良からぬことを考えているって解釈で、間違っていないわね……?」
「グレイシャーズもあのアイドルも、どうせもうすぐ終わりだ……お前なんかが止められ——」
ドスッ……!
「ぐぶぅ……!?」
「もうお黙り!罰ゲームはソーダ一気飲み……」
ポンッ……シュワシュワ……
「おい!何するつもりだ……!?」
「今言ったじゃない?ソーダ一気飲みよ。ちなみにこれね、過去一の強さかもしれないから、しんどいわよ……」
「やめ……ごぼごぼ……!?」
シュワシュワ……!
案の定、強炭酸の一気飲みに喉が耐えられるはずもなく嘔吐。毒が入っていないだけマシだが、絶え間なく喉に流される苦痛は言わなくてもわかるだろう。
バタン……
「全く手間かけさせるわね……帰ったらまた作んないと!」
けれど、妹の凪は何を考えている?あんな殺しを続けていたら、凪が愛するメンバーやファンが地獄に突き落とされるっていうのに。何か違う目的でもあるのか?それにグレイシャーズの選手が次々と殺害される事件も今話題になっている。12月13日に東京ドームで開催されるクリスタルミューズのライブ。凪がそれでも手を汚し続けるのなら、兄である自分には止める義務があるのかもしれない。僕だって皆の夢を壊したくない!しかし、彼の知らないところで事態はかなり深刻な方向へと向かっていた。
同刻。
ウーウー……!ウーウー……!
クリスタルミューズに並ぶ北海道のアイドルグループ、『ホワイトアスター』の事務所で大規模な火災が発生していた。
「おい中に誰かいないのか!?」
「マズい……!このままじゃ全部焼け焦げちまう……!」
「中に……!社長がまだ……!」
ホワイトアスターのリーダー、海瀬 円香(23)はパニックで取り乱している。まだ建物の中に社長が残されているらしいが、この規模で助け出せるのだろうか?結局完全に鎮火するまでには数時間かかり、その後消防隊の捜索により、一人の遺体が発見された。
「社長……!?」
「嘘……社長が……そんな……!」
遺体の身元は、ホワイトアスターの支配人兼社長を務める日吉 正隆。そんなとき、事件現場にはクリスタルミューズの朝倉美緒も立ち会っていた。円香は感情のまま美緒の胸ぐらを掴み——
「……!あなたたちクリスタルミューズが私の事務所燃やしたんでしょ……!?私たちのことずっと邪魔だと思っていたもんね……!?」
「……」
「それよりリーダーはどこよ……?こんなときにリーダーがいないってまずどういうことよ……!?」
「……単刀直入に言うけど、私たちじゃないわ……リーダーの仕業でもない……」
「じゃあ誰がやったってのよ……!?」
クリスタルミューズとホワイトアスターは同じ北海道出身のメンバーで構成されたアイドルグループ。世間で見ればライバルだ。もちろんだが、事務所を燃やしたのは凪でも、クリスタルミューズでもない。
「……」
2人が言い争う姿を見ている一人の影。その正体は凪だ。このまま疑いを否定しに行こうかと一歩踏み出そうとする。
コソコソ……
「……!」
彼女は微かな視線を感じ取る。見ている方向は自分の方ではなく、言い争う2人に向いていた。
「……」
一人の男が手榴弾を投げ込もうとピンに指をかけている。このまま美緒と円香を爆死させるつもりか?彼女が守るべき存在はメンバーだけじゃない。たとえライバルでも、円香は夢に向かって突き進むアイドル。守るに決まっている!
スッ……
凪は戦闘用グローブを填めると、冷気が漂う氷のナイフをケースから取り出した。彼女は一瞬にして間合いを詰め、そのまま——
シュッ……!
「……」
シュワシュワ……
「カカ……」
頸動脈を切られた男は猛毒の効果も相まって即死した。そのまま適当に身体を刺せば氷のナイフは溶けて消滅する。持ち帰る必要もない。まだ狙う影がいると考えた彼女は、あえて手榴弾のピンを抜いて人気のない方向へ投げ込み——
ドガーン……!
「……!?何……!?」
「爆発した……!?」
爆発音を聞きつけた犯人と思われる数人の男がぞろぞろと集まってくる。その男たちは美緒と円香を狙っていた。凪はこの瞬間を狙っていたのだ。
シュッ……
「だ……誰……!?」
「逃げて……」
彼女が静かに呟くと、美緒は円香の肩を支えるように現場から撤退した。
「動くな!お前どこのどいつだ!?」
「名乗る必要はないわ……あなたたちは弾け飛ぶように死ぬんだから……」
凪は氷のナイフを両手に構え、二刀流の姿勢を取った。
バンバーン……!
「フッ……!」
飛び交う銃弾を流れるような動きで回避し、そのまま全員のアキレス腱を切断。
シュワシュワシュワ……!
「そのナイフにはフッ酸が仕込まれているわ……中々乙な痛みでしょ……?」
「ぐがぁ……!脚が……!脚がぁ……!?」
ナイフに仕込まれた猛毒とフッ酸が傷口から流れ込み、切られたアキレス腱から焼けるような痛みが走る。
「死ぬまで時間がかかると思うわ。まあゆっくり楽しみな……」
仕込んだ毒が徐々に全身へと渡っていく。
「待て……!助けてくれ……助け……」
パタン……
「……」
東京ドームのライブまで4日しか残されていないのに、なぜ戦わなければいけない?このままアイドルが狙われる日が続くのなら、ライブの開催はかなり大きなリスクになる。だが兄には頼れない……アイドルを狙う黒幕の目星はついているのだが、彼女一人でどうにかなる問題ではなかった。
パン……パン……パン……!
「素晴らしいじゃないか……凪……」
「……お父さん……」
「随分見ない間にデカくなったな?」
「何の用?」
彼女の前に現れたのは実の父親、氷川正信だ。それに、彼女が黒幕だと睨んでいる存在でもある。理由は度を越した完璧主義な性格だ。そのせいで実の息子を一度も愛さなかった。
「そういえば4日後にライブだろ?父さんも楽しみにしているから……良い姿見せてくれよ?」
「……フフ……嘘つき……どうせお父さんが観たいものは、ライブじゃなくて血のライブでしょ?」
「やはり察しが良いな……まあメンバーからは、せいぜい目を離さないことをおすすめするよ……」
コツ……コツ……
やはり彼女の予想は当たっているのか?もしそうなら、どうしてアイドルを毒牙にかけるのか?グレイシャーズの選手が殺された事件の犯人も氷川正信なのだろうか?それに、これだけの権力を持っているのに、なぜ愛していない幸人を自ら殺さないのだろうか?やはり単純じゃない。
「そうだ……美緒!」
今は考えている余裕はなかった。ライブまで残された4日間、敵はどこからでもやってくるかもしれない。彼女は見えない恐怖の中、美緒が逃げた方向へ走り出した。