光の中で〜あなたの隣に立つ日まで〜
第10話 お礼は、普通の食事で
それから数日後。
美月は、何度もスマホを見ないようにしていた。
連絡は、店と時間だけ。
お礼の食事。
ただの精算。
それ以上ではない。
雨宿りをさせてもらった。
服を乾かしてもらった。
朝食まで出してもらった。
だから、お礼をする。
それだけ。
そう自分に言い聞かせていたところに、スマホが鳴った。
画面に表示された名前を見て、美月は一瞬だけ固まる。
藤崎理久。
メッセージを開く。
『土曜 19:00。ここで待ち合わせ。
服は少しきれいめで大丈夫』
続いて、位置情報が送られてきた。
美月は何気なく開いた。
そして固まった。
……え。
ここ?
そこは、夜景が見えることで有名な、高級レストランだった。
完全に“お礼の食事”の顔をしていない。
完全に、デート。
美月はスマホを握りしめた。
いやいやいや。
普通のお店って言ったよね?
高くない。
静かすぎない。
変に雰囲気が良すぎない。
そう言った。
何ひとつ守られていない。
美月はすぐに返信した。
『普通のお店とは』
即既読がついた。
『普通に食事できる店』
美月は眉を寄せる。
『そういう意味ではありません』
すぐに返事が来る。
『静かで、周りに邪魔されない方がいいかなと思って』
『それを雰囲気が良すぎると言います』
『じゃあ、雰囲気は見ない方向で』
『無理です』
少し間が空いた。
『嫌なら変えるよ』
そこで、美月の指が止まった。
理久は押してくる。
かなり押してくる。
でも、境界線は確認する。
そこがずるい。
嫌なら変える。
そう言われると、拒否する理由が自分の中にあるかを見なければならない。
嫌か。
嫌ではない。
ただ、危険すぎるだけ。
美月は画面をしばらく見つめた。
そして、短く返した。
『お礼ですから』
すぐに返事が来る。
『うん。お礼ね』
強調された気がして、美月はスマホを伏せた。
本当に、なんつー男。
* * *
土曜の夜。
美月は、指定されたレストランの前で足を止めた。
エントランスからして、すでに普通ではない。
照明は控えめで、ガラス越しに見える店内は落ち着いている。
スタッフの動きも静かで、どこかホテルのラウンジのようだった。
「普通のお店とは」
美月は小さく呟いた。
その時、背後から声がする。
「来てくれたんだ」
振り向くと、藤崎理久が立っていた。
黒に近いネイビーのジャケット。
白いシャツ。
いつもより少しだけ柔らかい髪。
病院での白衣姿とも、雨の日の家で見たラフな姿とも違う。
これはこれで、腹立たしいほど似合っている。
美月は表情を引き締めた。
「お礼ですから」
「うん」
「念のため言いますけど、今日は私が払います」
理久は少しだけ笑った。
「そういうことにしておこうか」
「今の言い方、信用できません」
「じゃあ、信用しないで」
「最初からそのつもりです」
理久は楽しそうに目元を緩めた。
スタッフに案内され、二人は窓際の席へ通された。
店内は静かだった。
けれど、静かすぎて息が詰まるというより、周囲の会話がほどよく遠くなる静けさだった。
窓の外には夜景が広がっている。
テーブルには白いクロス。
薄いグラス。
小さなキャンドル。
どう考えても、お礼の食事ではない。
美月は席に着きながら、低く言った。
「普通のお店とは」
「二回目だね」
「三回目も言いますか」
「聞きたい気もする」
「言いません」
理久が少し笑う。
「嫌だった?」
「嫌というより、驚いています」
「それはごめん」
「謝る気あります?」
「少し」
「少し」
美月は思わず繰り返した。
この人は、正直なのか不誠実なのか分からない。
いや、たぶん不誠実ではない。
ただ、自分に都合のいい方向へ、ものすごく自然に進ませるだけだ。
それが一番厄介だった。
理久はメニューを開き、美月の方へ少し傾けた。
「苦手なものある?」
「特には」
「お酒は?」
「少しなら」
「無理しなくていいよ」
「しません」
理久が少しだけ笑った。
「そういうところ、信用できる」
「褒め方が分かりにくいです」
「綾瀬さん向け」
「向けないでください」
またこの流れ。
美月はメニューを見ながら、心の中でため息をついた。
でも、料理は普通においしかった。
それもまた腹立たしい。
前菜は綺麗で、スープは温かく、メインの魚は皮目が香ばしい。
味つけは強すぎず、静かな店の空気にも合っていた。
美月は、つい素直に言ってしまった。
「……おいしいです」
言った瞬間、失敗したと思った。
理久が少しだけ嬉しそうに笑ったからだ。
「よかった」
「今のは料理の感想です」
「分かってる」
「お店選びを褒めたわけではありません」
「そこまで否定しなくても」
「誤解を防ぐためです」
「誤解してほしくないんだ」
「してほしくありません」
理久は楽しそうにグラスを持った。
「警戒されてるな」
「当然です」
「でも、来てくれた」
「お礼なので」
「うん。お礼ね」
その言い方がまた、少しだけ甘い。
美月はグラスを置いた。
「藤崎先生」
「何?」
「その“お礼ね”って言い方、やめてください」
「どうして?」
「お礼以外の意味を含んでいるように聞こえます」
「含んでるかも」
「含めないでください」
「善処します」
「しないやつですね」
「よく分かってきたね」
腹立つ。
本当に腹立つ。
でも、会話のテンポが悪くない。
それが余計に腹立たしい。
食事が進むにつれて、美月は少しずつ緊張が抜けている自分に気づいた。
理久は、必要以上に甘い言葉を言うわけではない。
けれど、話を聞くのがうまい。
病棟のこと。
患者家族への説明の難しさ。
後輩に教える時の距離感。
医師と看護師で見えているものの違い。
そういう話になると、理久は変に茶化さなかった。
「綾瀬さんって、患者さんの生活の方まで見てるよね」
ふいに言われて、美月は少しだけ手を止めた。
「内科病棟なので」
「うん。でも、それだけじゃないと思う」
「……何がですか」
「退院した後に困らないか、ってところまで考えてる」
美月は返せなくなった。
仕事の話を、そんなふうに見られているとは思わなかった。
理久は続ける。
「駅ビルでもそうだった。倒れた人だけじゃなくて、周りの人の動きも見てた」
「それは、必要だったので」
「必要なことを、ちゃんと拾える人なんだと思った」
美月は視線を落とした。
褒められている。
それも、見た目でも、女としてでもなく。
仕事を。
そこが、ずるい。
「……今、そういう話をするのは反則です」
「反則?」
「お礼の食事なので」
「仕事の話なら安全圏かと思った」

「安全ではありません」
「そっか」
理久が少しだけ笑う。
「じゃあ、覚えておく」
美月はカトラリーを置き、静かに息を吐いた。
この人は、やっぱり厄介だ。
近づきすぎない。
でも、見ている。
見ていないふりをして、かなり見ている。
それが一番困る。
食事が終わる頃には、美月は当初の目的を思い出した。
そうだ。
今日はお礼をする日だ。
会計。
ここだけは絶対に譲れない。
美月はバッグに手を伸ばし、立ち上がるタイミングを待った。
しかし、理久の方が早かった。
スタッフが近づく前に、彼は自然に席を立ち、少し離れたところで会計を済ませてしまった。
美月が気づいた時には、もう遅かった。
理久が戻ってくる。
美月は低い声で言った。
「……今、何をしました?」
「会計」
「私が払うと言いました」
「そうだね」
「聞いていました?」
「聞いてた」
理久は財布をしまった。
「でも、今日は俺が誘ったから」
「お礼の意味がありません」
「じゃあ、勝ったね」
「何にですか」
理久は、ほんの少しだけ目を細めた。
「警戒心に」
美月は黙った。
理久は続ける。
「まだ負けてないけど、ちょっと崩れた」
悔しい。
本当に悔しい。
でも、否定できない。
「……お会計、半分出します」
「出さなくていい」
「出します」
「じゃあ、次」
美月は止まった。
「次?」
理久は、あまりにも自然に言った。
「今日のお礼ができていないんでしょ」
「……」
「次、綾瀬さんが選んだ店でいいよ」
まただ。
また、逃げ道を作ったふりをして、次の約束を置いていく。
美月は低く言った。
「本当に策士ですね」
理久は笑う。
「褒めてる?」
「褒めてません」
「だと思った」
そこへ、スタッフが静かに近づいてきた。
「バルコニーのお席をご用意しております」
美月は固まる。
「……バルコニー?」
美月は、何度もスマホを見ないようにしていた。
連絡は、店と時間だけ。
お礼の食事。
ただの精算。
それ以上ではない。
雨宿りをさせてもらった。
服を乾かしてもらった。
朝食まで出してもらった。
だから、お礼をする。
それだけ。
そう自分に言い聞かせていたところに、スマホが鳴った。
画面に表示された名前を見て、美月は一瞬だけ固まる。
藤崎理久。
メッセージを開く。
『土曜 19:00。ここで待ち合わせ。
服は少しきれいめで大丈夫』
続いて、位置情報が送られてきた。
美月は何気なく開いた。
そして固まった。
……え。
ここ?
そこは、夜景が見えることで有名な、高級レストランだった。
完全に“お礼の食事”の顔をしていない。
完全に、デート。
美月はスマホを握りしめた。
いやいやいや。
普通のお店って言ったよね?
高くない。
静かすぎない。
変に雰囲気が良すぎない。
そう言った。
何ひとつ守られていない。
美月はすぐに返信した。
『普通のお店とは』
即既読がついた。
『普通に食事できる店』
美月は眉を寄せる。
『そういう意味ではありません』
すぐに返事が来る。
『静かで、周りに邪魔されない方がいいかなと思って』
『それを雰囲気が良すぎると言います』
『じゃあ、雰囲気は見ない方向で』
『無理です』
少し間が空いた。
『嫌なら変えるよ』
そこで、美月の指が止まった。
理久は押してくる。
かなり押してくる。
でも、境界線は確認する。
そこがずるい。
嫌なら変える。
そう言われると、拒否する理由が自分の中にあるかを見なければならない。
嫌か。
嫌ではない。
ただ、危険すぎるだけ。
美月は画面をしばらく見つめた。
そして、短く返した。
『お礼ですから』
すぐに返事が来る。
『うん。お礼ね』
強調された気がして、美月はスマホを伏せた。
本当に、なんつー男。
* * *
土曜の夜。
美月は、指定されたレストランの前で足を止めた。
エントランスからして、すでに普通ではない。
照明は控えめで、ガラス越しに見える店内は落ち着いている。
スタッフの動きも静かで、どこかホテルのラウンジのようだった。
「普通のお店とは」
美月は小さく呟いた。
その時、背後から声がする。
「来てくれたんだ」
振り向くと、藤崎理久が立っていた。
黒に近いネイビーのジャケット。
白いシャツ。
いつもより少しだけ柔らかい髪。
病院での白衣姿とも、雨の日の家で見たラフな姿とも違う。
これはこれで、腹立たしいほど似合っている。
美月は表情を引き締めた。
「お礼ですから」
「うん」
「念のため言いますけど、今日は私が払います」
理久は少しだけ笑った。
「そういうことにしておこうか」
「今の言い方、信用できません」
「じゃあ、信用しないで」
「最初からそのつもりです」
理久は楽しそうに目元を緩めた。
スタッフに案内され、二人は窓際の席へ通された。
店内は静かだった。
けれど、静かすぎて息が詰まるというより、周囲の会話がほどよく遠くなる静けさだった。
窓の外には夜景が広がっている。
テーブルには白いクロス。
薄いグラス。
小さなキャンドル。
どう考えても、お礼の食事ではない。
美月は席に着きながら、低く言った。
「普通のお店とは」
「二回目だね」
「三回目も言いますか」
「聞きたい気もする」
「言いません」
理久が少し笑う。
「嫌だった?」
「嫌というより、驚いています」
「それはごめん」
「謝る気あります?」
「少し」
「少し」
美月は思わず繰り返した。
この人は、正直なのか不誠実なのか分からない。
いや、たぶん不誠実ではない。
ただ、自分に都合のいい方向へ、ものすごく自然に進ませるだけだ。
それが一番厄介だった。
理久はメニューを開き、美月の方へ少し傾けた。
「苦手なものある?」
「特には」
「お酒は?」
「少しなら」
「無理しなくていいよ」
「しません」
理久が少しだけ笑った。
「そういうところ、信用できる」
「褒め方が分かりにくいです」
「綾瀬さん向け」
「向けないでください」
またこの流れ。
美月はメニューを見ながら、心の中でため息をついた。
でも、料理は普通においしかった。
それもまた腹立たしい。
前菜は綺麗で、スープは温かく、メインの魚は皮目が香ばしい。
味つけは強すぎず、静かな店の空気にも合っていた。
美月は、つい素直に言ってしまった。
「……おいしいです」
言った瞬間、失敗したと思った。
理久が少しだけ嬉しそうに笑ったからだ。
「よかった」
「今のは料理の感想です」
「分かってる」
「お店選びを褒めたわけではありません」
「そこまで否定しなくても」
「誤解を防ぐためです」
「誤解してほしくないんだ」
「してほしくありません」
理久は楽しそうにグラスを持った。
「警戒されてるな」
「当然です」
「でも、来てくれた」
「お礼なので」
「うん。お礼ね」
その言い方がまた、少しだけ甘い。
美月はグラスを置いた。
「藤崎先生」
「何?」
「その“お礼ね”って言い方、やめてください」
「どうして?」
「お礼以外の意味を含んでいるように聞こえます」
「含んでるかも」
「含めないでください」
「善処します」
「しないやつですね」
「よく分かってきたね」
腹立つ。
本当に腹立つ。
でも、会話のテンポが悪くない。
それが余計に腹立たしい。
食事が進むにつれて、美月は少しずつ緊張が抜けている自分に気づいた。
理久は、必要以上に甘い言葉を言うわけではない。
けれど、話を聞くのがうまい。
病棟のこと。
患者家族への説明の難しさ。
後輩に教える時の距離感。
医師と看護師で見えているものの違い。
そういう話になると、理久は変に茶化さなかった。
「綾瀬さんって、患者さんの生活の方まで見てるよね」
ふいに言われて、美月は少しだけ手を止めた。
「内科病棟なので」
「うん。でも、それだけじゃないと思う」
「……何がですか」
「退院した後に困らないか、ってところまで考えてる」
美月は返せなくなった。
仕事の話を、そんなふうに見られているとは思わなかった。
理久は続ける。
「駅ビルでもそうだった。倒れた人だけじゃなくて、周りの人の動きも見てた」
「それは、必要だったので」
「必要なことを、ちゃんと拾える人なんだと思った」
美月は視線を落とした。
褒められている。
それも、見た目でも、女としてでもなく。
仕事を。
そこが、ずるい。
「……今、そういう話をするのは反則です」
「反則?」
「お礼の食事なので」
「仕事の話なら安全圏かと思った」

「安全ではありません」
「そっか」
理久が少しだけ笑う。
「じゃあ、覚えておく」
美月はカトラリーを置き、静かに息を吐いた。
この人は、やっぱり厄介だ。
近づきすぎない。
でも、見ている。
見ていないふりをして、かなり見ている。
それが一番困る。
食事が終わる頃には、美月は当初の目的を思い出した。
そうだ。
今日はお礼をする日だ。
会計。
ここだけは絶対に譲れない。
美月はバッグに手を伸ばし、立ち上がるタイミングを待った。
しかし、理久の方が早かった。
スタッフが近づく前に、彼は自然に席を立ち、少し離れたところで会計を済ませてしまった。
美月が気づいた時には、もう遅かった。
理久が戻ってくる。
美月は低い声で言った。
「……今、何をしました?」
「会計」
「私が払うと言いました」
「そうだね」
「聞いていました?」
「聞いてた」
理久は財布をしまった。
「でも、今日は俺が誘ったから」
「お礼の意味がありません」
「じゃあ、勝ったね」
「何にですか」
理久は、ほんの少しだけ目を細めた。
「警戒心に」
美月は黙った。
理久は続ける。
「まだ負けてないけど、ちょっと崩れた」
悔しい。
本当に悔しい。
でも、否定できない。
「……お会計、半分出します」
「出さなくていい」
「出します」
「じゃあ、次」
美月は止まった。
「次?」
理久は、あまりにも自然に言った。
「今日のお礼ができていないんでしょ」
「……」
「次、綾瀬さんが選んだ店でいいよ」
まただ。
また、逃げ道を作ったふりをして、次の約束を置いていく。
美月は低く言った。
「本当に策士ですね」
理久は笑う。
「褒めてる?」
「褒めてません」
「だと思った」
そこへ、スタッフが静かに近づいてきた。
「バルコニーのお席をご用意しております」
美月は固まる。
「……バルコニー?」