光の中で〜あなたの隣に立つ日まで〜
第9話 ちゃんと離れていた朝
朝、目が覚めた。
見慣れない天井。
広すぎるリビング。
窓の向こうには、朝の光に照らされた高層階の景色。
一瞬、思考が止まる。
……ここ、どこ。
次の瞬間、昨夜のことを思い出した。
病棟の飲み会。
突然の集中豪雨。
濡れた服。
藤崎理久の家。
温かいコーヒー。
ソファ。
そして――寝落ち。
美月は一気に起き上がった。
肩からブランケットが落ちる。
うわ。
最悪。
雨宿りのつもりが、普通に寝た。
しかも人の家で。
しかも藤崎先生の家で。
美月は慌てて周囲を見回した。
ローテーブルの上に、昨夜使ったカップはない。
代わりに、新しいペットボトルの水が一本置かれている。
少し離れたところには、きちんと畳まれたタオル。
スマホの横には、充電器も置かれていた。
必要なら使えるように、ということなのだろう。
自分の身体を確認する。
何もされていない。
ちゃんとソファで寝かされている。
ブランケットまでかけられている。
距離も、守られている。
……紳士か。
いや、だからこそ怖い。
その時、キッチンの方から声がした。
「起きた?」
美月が振り向くと、理久が立っていた。
もう起きている。
髪は少しだけラフで、黒の薄手の襟付きニットを着ている。
キッチンに立ち、コーヒーを淹れていた。
テーブルには、すでに朝食が用意されている。
トースト。
スクランブルエッグ。
サラダ。
ヨーグルト。
温かいスープ。
水。
完璧。
美月は言葉を失った。
隙がない。
何この人。
朝まで隙がない。
理久は、いつもの調子で少し笑った。
「大丈夫? 顔、完全に事故後だけど」

美月は慌ててブランケットを畳む。
「すみません。本当にすみません。寝るつもりはなくて」
「うん。寝る気満々の顔ではなかったね」
「違います。そういう意味ではなくて」
「分かってる」
理久はカップを置いた。
「疲れてたんでしょ。昨日、飲み会も雨もあったし」
美月は申し訳なさでいっぱいになる。
「ご迷惑をおかけしました」
「迷惑ならブランケットかけない」
さらっと言われて、美月は固まった。
そういうことを、普通の顔で言うな。
理久はテーブルを指した。
「朝ごはん、食べてから帰れば」
美月は即座に警戒する。
「いえ、そこまでしていただくわけには」
「もう作った」
「……作ったんですか」
「うん。食べないと俺が困る」
「なぜですか」
「二人分あるから」
また逃げ道を塞がれた。
しかも自然に。
美月はテーブルを見る。
確かに、二人分ある。
「いつの間に……」
「綾瀬さんが爆睡してる間」
「爆睡って言わないでください」
「じゃあ、深めの仮眠」
「ほぼ同じです」
理久が少し笑う。
「大丈夫。寝顔は見てない」
「見たんですね」
「いや、寝てるか確認しただけ」
「それを見たと言います」
「じゃあ、見えてしまっただけ」
出た。
最悪。
朝から出た。
美月は小さくため息をついた。
「本当に、隙がないですね」
理久が少し首を傾げる。
「俺が?」
「はい」
「それ、褒めてる?」
「褒めてません」
「だと思った」
それでも、理久は少しだけ穏やかに笑っていた。
美月は結局、テーブルについた。
理久は向かいではなく、少し斜めの席に座る。
近すぎない。
でも遠すぎない。
その距離感がまた腹立たしい。
ちゃんと離れている。
昨夜、自分で三回言った「雨宿りだけ」を守っている。
そう思った瞬間、理久が言った。
「距離、これくらいなら安全圏?」
「……暫定的に」
「暫定なんだ」
「継続観察です」
「じゃあ、退院はまだ?」
「むしろ入院させていません」
「厳しいな」
美月は、少しだけ笑いそうになった。
危ない。
この会話のテンポに慣れてはいけない。
朝食は、普通においしかった。
それもまた腹立たしい。
トーストは焦げすぎていないし、スクランブルエッグは柔らかい。
スープは温かく、コーヒーは少し濃い。
見た目だけでなく、ちゃんと整っている。
美月はカップを持ちながら、ふと黙った。
こんなところで、何をしているんだろう。
外科の藤崎先生の家で、彼の服を借りて、朝食を食べている。
冷静に考えれば、かなり危険な状況だ。
でも、今この場には不思議な圧がない。
押しつけがましくない。
距離を詰めてくるくせに、決定的なところでは踏み込まない。
そのことが、逆に厄介だった。
理久が、少し真面目な声で言った。
「昨日のこと、気にしなくていいよ」
美月は目を伏せる。
「でも、普通に迷惑です。雨宿りのつもりで来て、寝て、朝食まで」
「綾瀬さんって、助けられるの苦手だよね」
その言葉で、美月の動きが止まった。
「……別に」
「二回言う?」
「言いません」
理久は笑わなかった。
少しだけ優しい声で続ける。
「誰かを助ける側にはすぐ回るのに、自分が助けられる側になると、すごく居心地悪そうにする」
美月は返せなくなった。
からかいではない。
ちゃんと見られている。
それが分かってしまった。
理久は、目を逸らさずに言った。
「昨日は、助けられてよかったと思っておけばいいよ」
美月は、少しだけ困った顔をした。
「……そういう言い方、ずるいです」
理久は、いつもの笑みに戻る。
「うん。知ってる」
「否定してください」
「しない方が、綾瀬さんは返しやすいでしょ」
「好きじゃありません」
「二回言う?」
「言いません」
理久が、くすっと笑った。
* * *
朝食のあと、美月は自分の服に着替えた。
乾燥機から出した服は、ちゃんと乾いていた。
まだ少しだけ温かくて、雨に濡れた匂いはほとんど消えていた。
服まで乾かされている。
コーヒーも出てきた。
朝食も出てきた。
何もされていない。
完璧すぎて、逆に腹が立つ。
リビングに戻ると、理久が何でもない顔でカップを片付けていた。
美月は改めて頭を下げる。
「本当に、昨日はすみませんでした。服まで……」
理久は少し笑った。
「乾いてよかったね」
「……お手数をおかけしました」
「うん。かなり」
美月が顔を上げる。
「そこは“大丈夫”って言うところでは?」
「言うと思った?」
「普通は言います」
「じゃあ、言わない」
朝から腹立つ。
でも、理久は楽しそうだった。
美月はバッグを持ち、玄関へ向かった。
「では、失礼します」
理久は玄関まで見送る。
そこで、ふっと言った。
「でも、綾瀬さん」
「何ですか」
「昨日のこと、病棟でバレたら大変そうだね」
美月の動きが止まった。
理久は靴箱にもたれたりせず、きちんと立っている。
ただ、表情だけが少し悪い。
「……どういう意味ですか」
「いや、藤崎先生の家に泊まった、って聞こえたら」
「泊まったんじゃありません。寝落ちです」
「うん。そこ、世間的にはあまり区別されないかも」
「します。大事な違いです」
「俺は分かってるよ」
「じゃあ問題ありません」
「でも、10Aのみんなは?」
美月は固まった。
理久がにこっと笑う。
「袋叩きに合いそうだね」
最悪。
この男、完全に分かって言っている。
美月は低い声で言った。
「言いませんよね」
「言うわけないじゃん」
「本当に?」
「綾瀬さんが困ることはしない」
少し間を置いて、理久が続ける。
「たぶん」
美月は目を細めた。
「今、“たぶん”って言いました?」
「言った」
「撤回してください」
「冗談。言わないよ」
その声は、さっきまでより少しだけ静かだった。
美月は黙った。
理久は、きちんと美月を見る。
「昨日のことは、俺と綾瀬さんだけでいい」
その言い方が、またずるかった。
秘密を守ると言っているのに、同時に。
二人だけの秘密、みたいに聞こえる。
美月は眉をひそめる。
「そういう言い方、やめてください」
「どれ?」
「“俺と綾瀬さんだけ”みたいな言い方です」
「嫌?」
「嫌というか、誤解を招きます」
「ここ、二人しかいないけど」
「私が誤解します」
理久が少しだけ目を細めた。
「するんだ」
美月は即答できなかった。
「……しません」
「二回言う?」
「言いません」
「賢明」
腹立つ。
でも、テンポがいい。
玄関で靴を履きながら、美月は自分に言い聞かせた。
これはお礼。
雨宿りと朝食と、服を乾かしてもらったお礼。
それ以上ではない。
絶対に。
理久が自然に言った。
「じゃあ、綾瀬さん」
「何ですか」
「今度、ちゃんとお礼して」
「……何を要求するつもりですか」
理久は少し笑った。
「そんな顔しないでよ。食事とか」
「それ、要求ですよね」
「お願い」
「弱みを握ったうえでのお願いに聞こえます」
「じゃあ、言い方を変える」
理久は少しだけ真面目な顔になった。
「昨日のことは言わない。これは絶対。
それとは別で、俺は綾瀬さんと食事に行きたい」
美月は黙った。
ずるい。
脅しではない形に、ちゃんと直してくる。
逃げ道を塞がれたわけではない。
でも、断る理由も薄くなってしまう。
何もしていない。
それは事実だ。
本当に、何もしていない。
だからこそ厄介だった。
助けられて、守られて、距離を保たれて。
さらに、こちらが断れる形で誘ってくる。
美月は深く息を吐いた。
「……分かりました。食事で」
「いいの?」
「お礼です。あくまで」
「うん。お礼ね」
「強調しないでください」
「してない」
「しています」
理久は楽しそうに笑った。
「じゃあ、店はこっちで取る」
美月は即座に警戒する。
「普通のお店でお願いします」
「普通って?」
「普通です。高くない、静かすぎない、変に雰囲気が良すぎないお店です」
「条件多いな」
「安全管理です」
「またそれ」
「重要です」
理久は少し笑って、言った。
「分かった。考えておく」
美月は思った。
考えておく、が一番信用できない。
その時、理久が自然にスマホを取り出した。
「連絡先、教えて」
美月は固まる。
「……院内の連絡手段でよくないですか」
「店の場所とか時間、それで送るの?」
「……」
「それ、逆に不自然じゃない?」
正論だった。
腹立つくらい正論だった。
美月は、かなり渋い顔でスマホを取り出した。
「業務外連絡は必要最低限でお願いします」
理久もスマホを出して、笑う。
「了解。必要最低限ね」
「本当に分かってます?」
「分かってる。店と時間だけ」
「それ以外は不要です」
「天気とかも?」
「不要です」
「服装は?」
「……それは必要です」
理久が、くすっと笑った。
「じゃあ、必要最低限に入れておく」
この時点で、もう負けている。
連絡先を交換してしまった。
しかも、相手は妙に楽しそうだった。
美月はスマホをしまいながら、最後にもう一度だけ言った。
「お礼ですから」
「うん」
「本当に、それだけです」
「二回言った」
「……」
「三回目、言う?」
美月は睨んだ。
「言いません」
理久は満足そうに笑った。
「じゃあ、また」
美月は玄関の外へ出る。
扉が閉まる直前、理久の声がした。
「綾瀬さん」
「何ですか」
「昨日、助けられてよかったと思っておけばいいよ」
美月は少しだけ黙った。
そして、小さく言った。
「……そこだけは、認めます」
理久の表情が、ほんの少し柔らかくなった。
「うん」
扉が閉まる。
美月は静かな廊下に立ち、スマホを握りしめたまま息を吐いた。
最悪。
本当に、なんつー男。
雨宿りだけのはずだった。
それなのに、連絡先を交換してしまった。
お礼の食事まで決まってしまった。
危険区域だと分かっている。
分かっているのに。
美月はエレベーターへ向かいながら、心の中で呟いた。
私は騙されない。
絶対に。
美月はそう言い聞かせた。
けれど、その言葉が昨日より少しだけ弱くなっていることに、
美月自身が気づいてしまっていた。
見慣れない天井。
広すぎるリビング。
窓の向こうには、朝の光に照らされた高層階の景色。
一瞬、思考が止まる。
……ここ、どこ。
次の瞬間、昨夜のことを思い出した。
病棟の飲み会。
突然の集中豪雨。
濡れた服。
藤崎理久の家。
温かいコーヒー。
ソファ。
そして――寝落ち。
美月は一気に起き上がった。
肩からブランケットが落ちる。
うわ。
最悪。
雨宿りのつもりが、普通に寝た。
しかも人の家で。
しかも藤崎先生の家で。
美月は慌てて周囲を見回した。
ローテーブルの上に、昨夜使ったカップはない。
代わりに、新しいペットボトルの水が一本置かれている。
少し離れたところには、きちんと畳まれたタオル。
スマホの横には、充電器も置かれていた。
必要なら使えるように、ということなのだろう。
自分の身体を確認する。
何もされていない。
ちゃんとソファで寝かされている。
ブランケットまでかけられている。
距離も、守られている。
……紳士か。
いや、だからこそ怖い。
その時、キッチンの方から声がした。
「起きた?」
美月が振り向くと、理久が立っていた。
もう起きている。
髪は少しだけラフで、黒の薄手の襟付きニットを着ている。
キッチンに立ち、コーヒーを淹れていた。
テーブルには、すでに朝食が用意されている。
トースト。
スクランブルエッグ。
サラダ。
ヨーグルト。
温かいスープ。
水。
完璧。
美月は言葉を失った。
隙がない。
何この人。
朝まで隙がない。
理久は、いつもの調子で少し笑った。
「大丈夫? 顔、完全に事故後だけど」

美月は慌ててブランケットを畳む。
「すみません。本当にすみません。寝るつもりはなくて」
「うん。寝る気満々の顔ではなかったね」
「違います。そういう意味ではなくて」
「分かってる」
理久はカップを置いた。
「疲れてたんでしょ。昨日、飲み会も雨もあったし」
美月は申し訳なさでいっぱいになる。
「ご迷惑をおかけしました」
「迷惑ならブランケットかけない」
さらっと言われて、美月は固まった。
そういうことを、普通の顔で言うな。
理久はテーブルを指した。
「朝ごはん、食べてから帰れば」
美月は即座に警戒する。
「いえ、そこまでしていただくわけには」
「もう作った」
「……作ったんですか」
「うん。食べないと俺が困る」
「なぜですか」
「二人分あるから」
また逃げ道を塞がれた。
しかも自然に。
美月はテーブルを見る。
確かに、二人分ある。
「いつの間に……」
「綾瀬さんが爆睡してる間」
「爆睡って言わないでください」
「じゃあ、深めの仮眠」
「ほぼ同じです」
理久が少し笑う。
「大丈夫。寝顔は見てない」
「見たんですね」
「いや、寝てるか確認しただけ」
「それを見たと言います」
「じゃあ、見えてしまっただけ」
出た。
最悪。
朝から出た。
美月は小さくため息をついた。
「本当に、隙がないですね」
理久が少し首を傾げる。
「俺が?」
「はい」
「それ、褒めてる?」
「褒めてません」
「だと思った」
それでも、理久は少しだけ穏やかに笑っていた。
美月は結局、テーブルについた。
理久は向かいではなく、少し斜めの席に座る。
近すぎない。
でも遠すぎない。
その距離感がまた腹立たしい。
ちゃんと離れている。
昨夜、自分で三回言った「雨宿りだけ」を守っている。
そう思った瞬間、理久が言った。
「距離、これくらいなら安全圏?」
「……暫定的に」
「暫定なんだ」
「継続観察です」
「じゃあ、退院はまだ?」
「むしろ入院させていません」
「厳しいな」
美月は、少しだけ笑いそうになった。
危ない。
この会話のテンポに慣れてはいけない。
朝食は、普通においしかった。
それもまた腹立たしい。
トーストは焦げすぎていないし、スクランブルエッグは柔らかい。
スープは温かく、コーヒーは少し濃い。
見た目だけでなく、ちゃんと整っている。
美月はカップを持ちながら、ふと黙った。
こんなところで、何をしているんだろう。
外科の藤崎先生の家で、彼の服を借りて、朝食を食べている。
冷静に考えれば、かなり危険な状況だ。
でも、今この場には不思議な圧がない。
押しつけがましくない。
距離を詰めてくるくせに、決定的なところでは踏み込まない。
そのことが、逆に厄介だった。
理久が、少し真面目な声で言った。
「昨日のこと、気にしなくていいよ」
美月は目を伏せる。
「でも、普通に迷惑です。雨宿りのつもりで来て、寝て、朝食まで」
「綾瀬さんって、助けられるの苦手だよね」
その言葉で、美月の動きが止まった。
「……別に」
「二回言う?」
「言いません」
理久は笑わなかった。
少しだけ優しい声で続ける。
「誰かを助ける側にはすぐ回るのに、自分が助けられる側になると、すごく居心地悪そうにする」
美月は返せなくなった。
からかいではない。
ちゃんと見られている。
それが分かってしまった。
理久は、目を逸らさずに言った。
「昨日は、助けられてよかったと思っておけばいいよ」
美月は、少しだけ困った顔をした。
「……そういう言い方、ずるいです」
理久は、いつもの笑みに戻る。
「うん。知ってる」
「否定してください」
「しない方が、綾瀬さんは返しやすいでしょ」
「好きじゃありません」
「二回言う?」
「言いません」
理久が、くすっと笑った。
* * *
朝食のあと、美月は自分の服に着替えた。
乾燥機から出した服は、ちゃんと乾いていた。
まだ少しだけ温かくて、雨に濡れた匂いはほとんど消えていた。
服まで乾かされている。
コーヒーも出てきた。
朝食も出てきた。
何もされていない。
完璧すぎて、逆に腹が立つ。
リビングに戻ると、理久が何でもない顔でカップを片付けていた。
美月は改めて頭を下げる。
「本当に、昨日はすみませんでした。服まで……」
理久は少し笑った。
「乾いてよかったね」
「……お手数をおかけしました」
「うん。かなり」
美月が顔を上げる。
「そこは“大丈夫”って言うところでは?」
「言うと思った?」
「普通は言います」
「じゃあ、言わない」
朝から腹立つ。
でも、理久は楽しそうだった。
美月はバッグを持ち、玄関へ向かった。
「では、失礼します」
理久は玄関まで見送る。
そこで、ふっと言った。
「でも、綾瀬さん」
「何ですか」
「昨日のこと、病棟でバレたら大変そうだね」
美月の動きが止まった。
理久は靴箱にもたれたりせず、きちんと立っている。
ただ、表情だけが少し悪い。
「……どういう意味ですか」
「いや、藤崎先生の家に泊まった、って聞こえたら」
「泊まったんじゃありません。寝落ちです」
「うん。そこ、世間的にはあまり区別されないかも」
「します。大事な違いです」
「俺は分かってるよ」
「じゃあ問題ありません」
「でも、10Aのみんなは?」
美月は固まった。
理久がにこっと笑う。
「袋叩きに合いそうだね」
最悪。
この男、完全に分かって言っている。
美月は低い声で言った。
「言いませんよね」
「言うわけないじゃん」
「本当に?」
「綾瀬さんが困ることはしない」
少し間を置いて、理久が続ける。
「たぶん」
美月は目を細めた。
「今、“たぶん”って言いました?」
「言った」
「撤回してください」
「冗談。言わないよ」
その声は、さっきまでより少しだけ静かだった。
美月は黙った。
理久は、きちんと美月を見る。
「昨日のことは、俺と綾瀬さんだけでいい」
その言い方が、またずるかった。
秘密を守ると言っているのに、同時に。
二人だけの秘密、みたいに聞こえる。
美月は眉をひそめる。
「そういう言い方、やめてください」
「どれ?」
「“俺と綾瀬さんだけ”みたいな言い方です」
「嫌?」
「嫌というか、誤解を招きます」
「ここ、二人しかいないけど」
「私が誤解します」
理久が少しだけ目を細めた。
「するんだ」
美月は即答できなかった。
「……しません」
「二回言う?」
「言いません」
「賢明」
腹立つ。
でも、テンポがいい。
玄関で靴を履きながら、美月は自分に言い聞かせた。
これはお礼。
雨宿りと朝食と、服を乾かしてもらったお礼。
それ以上ではない。
絶対に。
理久が自然に言った。
「じゃあ、綾瀬さん」
「何ですか」
「今度、ちゃんとお礼して」
「……何を要求するつもりですか」
理久は少し笑った。
「そんな顔しないでよ。食事とか」
「それ、要求ですよね」
「お願い」
「弱みを握ったうえでのお願いに聞こえます」
「じゃあ、言い方を変える」
理久は少しだけ真面目な顔になった。
「昨日のことは言わない。これは絶対。
それとは別で、俺は綾瀬さんと食事に行きたい」
美月は黙った。
ずるい。
脅しではない形に、ちゃんと直してくる。
逃げ道を塞がれたわけではない。
でも、断る理由も薄くなってしまう。
何もしていない。
それは事実だ。
本当に、何もしていない。
だからこそ厄介だった。
助けられて、守られて、距離を保たれて。
さらに、こちらが断れる形で誘ってくる。
美月は深く息を吐いた。
「……分かりました。食事で」
「いいの?」
「お礼です。あくまで」
「うん。お礼ね」
「強調しないでください」
「してない」
「しています」
理久は楽しそうに笑った。
「じゃあ、店はこっちで取る」
美月は即座に警戒する。
「普通のお店でお願いします」
「普通って?」
「普通です。高くない、静かすぎない、変に雰囲気が良すぎないお店です」
「条件多いな」
「安全管理です」
「またそれ」
「重要です」
理久は少し笑って、言った。
「分かった。考えておく」
美月は思った。
考えておく、が一番信用できない。
その時、理久が自然にスマホを取り出した。
「連絡先、教えて」
美月は固まる。
「……院内の連絡手段でよくないですか」
「店の場所とか時間、それで送るの?」
「……」
「それ、逆に不自然じゃない?」
正論だった。
腹立つくらい正論だった。
美月は、かなり渋い顔でスマホを取り出した。
「業務外連絡は必要最低限でお願いします」
理久もスマホを出して、笑う。
「了解。必要最低限ね」
「本当に分かってます?」
「分かってる。店と時間だけ」
「それ以外は不要です」
「天気とかも?」
「不要です」
「服装は?」
「……それは必要です」
理久が、くすっと笑った。
「じゃあ、必要最低限に入れておく」
この時点で、もう負けている。
連絡先を交換してしまった。
しかも、相手は妙に楽しそうだった。
美月はスマホをしまいながら、最後にもう一度だけ言った。
「お礼ですから」
「うん」
「本当に、それだけです」
「二回言った」
「……」
「三回目、言う?」
美月は睨んだ。
「言いません」
理久は満足そうに笑った。
「じゃあ、また」
美月は玄関の外へ出る。
扉が閉まる直前、理久の声がした。
「綾瀬さん」
「何ですか」
「昨日、助けられてよかったと思っておけばいいよ」
美月は少しだけ黙った。
そして、小さく言った。
「……そこだけは、認めます」
理久の表情が、ほんの少し柔らかくなった。
「うん」
扉が閉まる。
美月は静かな廊下に立ち、スマホを握りしめたまま息を吐いた。
最悪。
本当に、なんつー男。
雨宿りだけのはずだった。
それなのに、連絡先を交換してしまった。
お礼の食事まで決まってしまった。
危険区域だと分かっている。
分かっているのに。
美月はエレベーターへ向かいながら、心の中で呟いた。
私は騙されない。
絶対に。
美月はそう言い聞かせた。
けれど、その言葉が昨日より少しだけ弱くなっていることに、
美月自身が気づいてしまっていた。