光の中で〜あなたの隣に立つ日まで〜

第12話 少しだけ、本気だ

仕事帰り。

美月は、理久の最寄駅で待っていた。

駅とマンションは、ほぼ直結している。
前に来た時も思ったけれど、やはり圧倒される。

改札の向こうには、仕事帰りの人たちが流れていた。

スーツ姿の会社員。
買い物袋を持った女性。
イヤホンをした学生。

そして、その中に、藤崎理久がいた。

白衣ではない。
仕事帰りの私服。

落ち着いた色のコートに、シャツ。
疲れているはずなのに、相変わらず隙がない。

「待った?」

「いえ」

「じゃあ、行こうか」

美月はすぐに言った。

「ピアスだけ受け取りに来たんですが」

「うん。人質だから」

「本当に人聞きが悪いです」

「先に言ったの、綾瀬さんだけど」

美月は言い返そうとして、やめた。

このやり取りにも、少し慣れてきている。

それが嫌だった。

かなり嫌だった。

マンションに着き、エレベーターで上がる。

二度目なのに、やはり落ち着かない。

静かな廊下。
広い玄関。
雨の日に見た、夜景のある部屋。

玄関に入ると、理久はいつものように距離を取った。

「どうぞ」

「お邪魔します」

美月は靴をそろえながら、心の中で確認する。

今日はピアスを受け取るだけ。

本当に、それだけ。

長居しない。
流されない。
余計な話をしない。

リビングへ通されると、理久は洗面台の方へ行き、小さなケースを持って戻ってきた。

「はい」

美月はそれを受け取る。

小さなケースの中に、ピアスは片方ずつ丁寧に入っていた。

柔らかい布の上に置かれ、傷がつかないようにされている。

思った以上に、きちんと保管されていた。

美月は少しだけ拍子抜けした。

「……ありがとうございます」

「どういたしまして」

「では、失礼します」

「早いな」

「目的は達成しましたので」

理久は少し笑った。

そして、リビングの奥を指す。

そこには、チェス盤が置かれていた。

美月は眉をひそめる。

「……何ですか、あれ」

「チェス」

「見れば分かります」

「一局だけ」

「なぜですか」

「俺が勝ったら、夕飯も付き合ってよ」

美月は、じっと理久を見た。

「勝負形式にする意味があります?」

「綾瀬さんが納得しやすいかなと思って」

「勝てる前提ですね」

「ハンデつけるよ」

「それでも自信があると」

「うん」

腹立つ。

本当に、腹立つ。

でも。

少し面白い。

美月はチェス盤を見た。

白と黒の駒が、きれいに並んでいる。
理久の部屋に置かれていると、それすら妙に似合ってしまうのが、また腹立たしい。

「……一局だけです」

「うん。一局だけ」

「負けたら、本当にピアスだけ受け取って帰ります」

「いいよ」

その即答が、逆に信用できない。

美月はソファの前に座った。

理久は向かいに座り、駒を整える。

「白でいい?」

「どちらでも」

「じゃあ、綾瀬さんが白」

「ハンデですか」

「うん」

「それでも勝てると思っているんですね」

理久は少し笑った。

「言ったでしょ」

腹立つ。

この人は本当に腹立つ。

けれど、美月は駒を一つ前に出した。

最初の一手。

白いポーンが、盤上を進む。

理久は、少しだけ楽しそうにそれを見た。

* * *

理久は約束通り、ハンデをつけた。

確かに有利な条件だった。

最初の数手、美月は慎重に駒を動かした。

チェスに詳しいわけではない。

けれど、ルールは分かる。

深く考えれば、少しは戦えるはずだと思っていた。

けれど、理久はその余裕を簡単に崩してきた。

攻めているようで、逃げ道を残す。
こちらが安全だと思った場所に、次の手で罠が現れる。
一つの駒を守ったつもりが、別の駒を失う。

気づいた時には、盤面の端へ追い込まれていた。

「……待ってください」

「待つ?」

「今の、いつから仕掛けてました?」

「最初から」

美月は盤面を見つめた。

「性格が出ますね」

理久が笑う。

「俺の?」

「はい。逃げ道を残しているように見せて、全部塞ぐところが」

「褒めてる?」

「褒めてません」

「だと思った」

理久は楽しそうだった。

美月は、次の手を考える。

右に逃げる。
駄目。
左に逃げる。
そこも塞がれている。
守りに入れば、次の一手で取られる。

美月は駒を持ったまま、しばらく固まった。

「……これは」

「うん」

「かなり性格が悪いです」

「まだ負けてないよ」

「負ける形が見えています」

「よく見えてるね」

「褒められても嬉しくありません」

「褒めてる」

「だから嬉しくありません」

理久が声を出さずに笑った。

結局、ハンデがあったにもかかわらず、美月はあっさり負けた。

信じられないくらい自然に。

気づいた時には、逃げ場がなかった。

理久が穏やかに言う。

「チェックメイト」



美月はしばらく盤面を見つめた。

白いキングは、もうどこにも動けない。

「……これは、かなり性格が悪いです」

「チェスの話?」

「全般です」

「ひどいな」

「事実です」

理久は楽しそうだった。

美月はため息をつき、ピアスのケースをバッグにしまった。

「分かりました。夕飯ですね」

「うん」

「ただし、普通のお店でお願いします」

「前にも聞いた気がする」

「前回、まったく守られなかったので」

「今回は普通寄り」

「寄り?」

「綾瀬さん基準だと分からないけど」

「信用できません」

「じゃあ、信用しないで」

またそれ。

美月は思った。

信用しないで、と言う人ほど、変なところで信用させてくる。

それが一番厄介なのだ。

* * *

タクシーに乗る。

美月は窓の外を見ながら、心の中で思った。

なんでこうなる。

ピアスを取りに来ただけ。
それだけだったはず。

なのに、チェスで負けて、夕飯。

完全に理久のペースだった。

「不満そう」

隣で理久が言う。

美月は窓の外を見たまま答えた。

「不満です」

理久は少しだけ笑った。

「分かりやすい」

「分かりやすくしているんです」

「親切だね」

「警告です」

腹立つ。

けれど、この流れももう何度目か分からない。

店に着くと、静かで雰囲気のあるレストランだった。

前回よりは落ち着いている。

けれど、普通かと言われると、やはり普通ではない。

スタッフがすぐに出迎える。

「藤崎様、お待ちしておりました」

美月は足を止めた。

え。

予約?

個室に案内される。

美月は席に着く前に、理久を見た。

「……最初から予約していました?」

理久は悪びれない。

「うん」

「勝負、負ける気なかったんですね」

「負けても来てもらうつもりだったよ」

「それ、勝負の意味がありません」

「あるよ。綾瀬さんが“仕方ない”って言いやすい」

うわ。

まただ。

逃げ道を作っているようで、最初から連れてくる気だった。

美月は呆れたように息を吐いた。

「本当に、なかなかのやり手ですね」

「まだ“なかなか”?」

「かなり、です」

理久は少し嬉しそうに笑った。

「それ、けっこう気に入ってる」

「褒めていません」

「知ってる」

本当に、なんつー男。

* * *

食事が始まる。

前回より少し落ち着いた店だった。
個室だから、周囲の目はない。

けれど、その分、理久との距離が近い。

美月は料理に手を伸ばしながら、ふと、ずっと思っていたことを口にした。

「藤崎先生」

「ん?」

「一緒にディナーに行きたがる方なんて、山ほどいるのでは」

理久の手が、一瞬だけ止まった。

美月は続ける。

「よく誘われている姿も見ていますし。そういう方と行かれたらいいかと」

声は淡々としていた。

嫉妬ではない。
責めているわけでもない。

ただ、本当に不思議なのだ。

なぜ、自分なのか。

理久は少しだけ黙った。

そして、いつもの軽い笑顔ではなく、少し真面目な顔で言った。

「そういう人たちとは、行かない」

「なぜですか」

「行ったら、期待させるから」

美月は言葉に詰まった。

理久は続ける。

「誘われるのと、行きたいのは違うでしょ」

美月は視線を逸らした。

「……慣れていそうなので」

「慣れてるよ。誘われるのは」

その返しに、美月は少しむっとした。

でも理久は、すぐに続けた。

「でも、行きたいと思う人は、そんなにいない」

空気が変わる。

美月は、ナプキンの端を指で押さえた。

「そういう言い方、ずるいです」

「うん」

「否定しないんですね」

「今のは、否定したくない」

いつもの軽口ではない。

でも、重すぎもしない。

逃げ道はある。
けれど、ちゃんと本音が混ざっていた。

美月は困った。

かなり困った。

「私は、誘いやすそうには見えないと思いますけど」

理久が少し笑う。

「見えないね」

「では、なぜ」

「誘いにくいから」

美月は顔を上げた。

「……意味が分かりません」

「誘いにくい人を、誘いたくなった」

「面倒な性格ですね」

「よく言われる」

「でしょうね」

理久は水のグラスを置き、少しだけ身を引いた。

近づきすぎない距離。

「綾瀬さんは、俺を“藤崎先生すごい”って見ないでしょ」

「見ません」

「知ってる」

「むしろ警戒対象です」

「それも知ってる」

「では、なぜ」

理久は少しだけ笑った。

「その方が楽だから」

美月は黙った。

理久は、ゆっくり続ける。

「俺が何をしても、簡単に喜ばない。でも、ちゃんと見てる。嫌なら嫌って顔をするし、怪しいと思ったら怪しいって顔をする」

「……顔に出ていますか」

「かなり」

「最悪です」

「俺は好きだけど」

美月は固まった。

理久はすぐに、いつもの調子に戻す。

「顔がね」

「今、絶対わざとですよね」

「うん」

「最低です」

理久は楽しそうに笑う。

美月の耳は少し熱かった。

理久は、穏やかに続けた。

「山ほどいる人たちと行けばいい、って言ったけど」

「はい」

「綾瀬さんは、その“山ほど”に入っていないから誘ってる」

美月は返せない。

「それ、どういう意味ですか」

「俺を見てる場所が違うってこと」

美月は黙った。

理久は笑う。

「だから、チェスで勝ってでも連れてきた」

「それは脅迫に近いです」

「勝負に負けたのは綾瀬さん」

「ハンデがあったのに」

「うん。かわいかった」

「かわいくありません」

美月は即座に返した。

けれど、理久は少しも悪びれない。

「そういうところも含めて」

「……本当に、性格が悪いですね」

「それは何度か聞いた」

美月は、もう何度目か分からないため息をついた。

この人は、強引に奪うわけではない。

けれど、こちらが反論できない形で、次へ進ませる。

そして、その途中で少しだけ本音を落としてくる。

それが一番厄介だった。

食事の終盤、美月は水を飲みながら言った。

「結局、またご馳走になっています」

「そうだね」

「お礼の意味がありません」

「今日は俺が誘ったから」

「それも最初から予約していたんですよね」

「うん」

「やっぱり策士です」

「悪役寄り?」

「かなり」

理久は嬉しそうに笑った。

「それ、けっこう気に入ってる」

「褒めていません」

「知ってる」

帰り道。

店を出ると、夜風が少し涼しかった。

タクシーを待つ間、美月はピアスの入ったケースをバッグの中で確認した。

ピアスは返ってきた。

目的は達成した。

それなのに、借りは減っていない。

むしろ、増えた気がする。

美月は小さく呟いた。

「……お礼、全然できていない」

隣で理久が、少しだけ楽しそうに言う。

「じゃあ、また会えるね」

美月は思った。

うわ。

そこに繋げるためだったのか。

完全に、理久のペース。

藤崎理久、やっぱりかなりのやり手だ。

タクシーが来る。

理久は自然に扉を開け、美月を先に乗せる。

その動きすら、あまりにも自然で腹立たしい。

美月は席に座りながら言った。

「次は、私が店を選びます」

理久は少しだけ目を細めた。

「うん。楽しみにしてる」

「普通のお店です」

「分かってる」

美月は疑わしげに理久を見た。

「その顔は、分かっていない顔です」

「信用ないな」

「積み重ねの結果です」

理久は笑った。

美月は窓の外へ視線を向けた。

ピアスは戻った。

でも、次の約束ができてしまった。

そしてもっと困ったことに。

なぜ自分なのか。

その答えを、少しだけ聞いてしまった。

美月は、夜の街を見ながら思った。

もう、ただのモテ医者とは言えない。

この人は、かなり面倒で、かなりずるい。

そしてたぶん。

少しだけ、本気だ。
< 12 / 14 >

この作品をシェア

pagetop