光の中で〜あなたの隣に立つ日まで〜

第13話 また会う理由を作る男

飲み会の予定が続く時期だった。

病棟ごとに、医局ごとに、あちこちで小さな集まりが入る。

10A病棟も例外ではない。

日頃お世話になっている医師たちにも声をかけ、こぢんまりとした飲み会を開いていた。

とはいえ、夜の居酒屋はどこも騒がしい。

同じ店の別フロアや隣の個室には、他の病棟らしき団体もいる。
廊下では、酔った声や笑い声が行き交っていた。

美月は、少し席を外してトイレへ向かった。

戻る途中、廊下の少し奥で、二人の男女が立っているのが見えた。

女性の方は、明らかに酔っていた。

声が大きく、距離も近い。
男の方は壁際に立ったまま、少し体を引いている。

笑ってはいる。

けれど、拒まないわけではない。

むしろ、相手の腕をやんわり外すような動きをしていた。

美月は内心でため息をついた。

他所でやってよね……。

そう思いながら、目線をそらして通り過ぎようとした。

その瞬間、男の横顔が見えた。

藤崎理久だった。

美月は、足を止めそうになった。

……うわ。



藤崎先生。

相変わらず、モテモテのようだ。

というより、これはもう。

引き寄せている。

本人が何かをしているわけではないのに、女性の方から勝手に寄っていく。

女ホイホイ。

ひどい表現だと思う。

でも、他に言いようがなかった。

「藤崎先生って、ほんと優しいですよねぇ」

酔った女性が、少し甘えた声で言う。

理久は困ったように笑った。

「ありがとうございます。でも、そろそろ戻った方がいいですよ」

「えー、もうちょっとだけ」

「皆さん待ってますから」

「先生も一緒に来てくださいよ」

理久は、角が立たないように距離を取っている。

いつもの王子の顔。

相手を傷つけず、場も壊さず、でも受け入れすぎない。

ああいうところが、また人を勘違いさせるのでは。

美月はそう思った。

助けるべきか。

一瞬だけ考えた。

けれど、すぐにやめた。

慣れているでしょう。

あれだけ場数を踏んでいそうな人なのだから、自分でどうにかするはずだ。

それに、ここで美月が出ていけば、それはそれで面倒なことになる。

綾瀬さん、藤崎先生と何かあるの?

そんな視線が一瞬で集まる。

絶対に嫌だ。

美月は何も見なかった顔で、静かに通り過ぎた。

その瞬間。

理久と目が合った。

彼は一瞬だけ、分かりやすくこちらを見た。

助けて。

そう言った気がした。

美月は、無表情で視線を外した。

知らない。

私は知らない。

あんな人は知らない。

* * *

席に戻ると、飲み会は相変わらず盛り上がっていた。

外科のレジデントも何人か来ていて、10Aの看護師たちは楽しそうに話している。

美月も空いた席に戻り、何事もなかった顔でグラスを持った。

しばらくして、別の看護師が戻ってきた。

その子は席に着くなり、目を輝かせて声をひそめる。

「ねえ、今さ、廊下で見ちゃった」

「何を?」

「外科の藤崎先生。なんか他の病棟の人っぽい女の子に、めちゃくちゃ絡まれてた」

すぐに周囲が食いついた。

「え、藤崎先生?」

「やっぱりモテるんだ」

「絡まれてるって何?」

「酔った勢いで口説かれてたの?」

その話題は、あっという間に広がった。

美月はグラスを見つめながら、少しだけ眉を下げた。

あらあら。

こうやって、知らないところで注目の的になる方も大変なのかもしれない。

誰かが見ている。
誰かが話す。

何でもないことでも、すぐに噂になる。

美月は少しだけ、理久に同情した。

その時、隣に座っていた内科医の桐谷が、ふいに美月の方を見た。

「綾瀬、見たんじゃないの?」

美月は一瞬だけ止まった。

「さぁ?」

「はぐらかした」

「何のことですか」

桐谷は少し笑った。

10Aによく顔を出す内科医で、穏やかに見えるのに、妙に人の反応を拾うところがある。

「藤崎と同期なんだよ。大学の頃から、ああいうの多かった」

「……そうなんですか」

「本人は慣れてるけど、面倒くさがってる」

美月はグラスを置いた。

「慣れているようには見えますね」

「まあ、慣れてるよ。うまいしね」

桐谷は軽く笑う。

「でも、自分に言い寄ってくるタイプには、あんまり興味ないんだよね」

美月は、そこで初めて桐谷の顔をちゃんと見た。

「そうなんですか」

「そうそう。寄ってくる人には感じよくするけど、ちゃんと線を引く。だから余計にモテるんだと思うけど」

美月は内心で思う。

なるほど。

本人にその気がなくても、あの対応なら確かに誤解される。

桐谷は、軽い口調で続けた。

「藤崎って、余裕あるように見えるでしょ」

「見えますね」

「まあ、実際あるけど」

桐谷は少しだけ声を落とした。

「でも、興味ある相手には意外と不器用かもよ」

美月は思わず咳き込みそうになった。

「……そうなんですか」

「たぶんね。俺、あいつが本気で誰かを追ってるところ、あんまり見たことないから」

美月は、それ以上聞かないことにした。

聞いてはいけない気がした。

藤崎理久が誰に興味を持つのか。
誰を追うのか。

そんなことを考え始めたら、たぶん面倒なことになる。

美月はグラスへ視線を落とした。

考えない。

考えたら、たぶん負ける。

* * *

飲み会の終盤。

美月はレジ横の狭いスペースで、集めた会費と伝票を確認していた。

幹事役の後輩が店員とやり取りをしている横で、足りない分がないか、財布を片手にもう一度金額を数える。

店の入口付近は、帰り支度をする人たちで少し混み合っていた。

奥からは、まだ笑い声が聞こえてくる。

その時、背後から低い声がした。

「綾瀬さん」

振り向くと、理久が立っていた。

顔色は変わっていない。
立ち姿も崩れていない。

けれど、さっきより少しだけ、目元の余裕が薄い気がした。

「さっき、助けてくれなかったね」

美月は一瞬だけ言葉に詰まった。

「助ける必要、ありました?」

「絡まれてた」

「慣れてるでしょう」

「慣れてるけど」

理久は、ほんの少しだけ表情を緩めた。

「助けてほしかった」



その言い方が、思っていたより素直で、美月は返事に困った。

だから、少しだけ茶化した。

「相変わらず、女ホイホイですね」

理久が目を細める。

「ひどい言い方」

「事実です。女の人が次々吸い寄せられているじゃないですか」

「でも、一名、そのトラップに引っかからない子がいるんだけど」

美月は即座に返した。

「私をゴキ扱いしないでください」

理久が少し笑った。

「誰のことか言ってないけど?」

美月は止まった。

「……あ」

「自覚あるんだ」

「今のは言葉の流れです」

「ふうん」

その声が少しだけ低くて、美月は思わず視線を外した。

危ない。

この人は、こういうところが危ない。

距離は近い。

けれど、ここは店の入口近くで、すぐ後ろには会計を待つ人たちがいる。
誰かが振り返れば、すぐに見られる場所だった。

それなのに、さっき桐谷に言われた言葉が、妙に頭に残っている。

興味ある相手には、意外と不器用かもよ。

美月は財布を閉じながら、できるだけ平静に言った。

「そろそろ戻ってください」

「冷たいな」

「普通です」

「じゃあ、また助けてほしい時は呼ぶ」

「呼ばないでください」

「検討する」

「しないやつですね」

理久は声を出さずに笑った。

その笑い方は、いつもの王子の笑顔とは少し違って見えた。

* * *

店を出る頃には、飲み会はほとんど解散になっていた。

会計が終わり、それぞれが駅の方へ流れていく。

美月もバッグを持ち、タクシーを拾おうと入口の方へ向かった。

今日はもう帰ろう。

これ以上、理久のペースに巻き込まれるのは危険だ。

そう思って店を出た瞬間、入口付近でまた騒がしい声が聞こえた。

「藤崎先生、二次会行きましょうよ」

「さっき全然話せなかったです」

「少しだけでいいから」

理久が、数人の女性に囲まれていた。

本当に女ホイホイ。

もはや気の毒になるレベルだった。

理久は笑って断ろうとしている。

でも、相手は酔っていて、簡単には引かない。

美月は見なかったことにしようとした。

今日二回目。

しかし、その時、視界の端で桐谷が動いた。

桐谷は、近くにいた若い外科レジデントに何か言い、軽く肩を押す。

そのレジデントが、女性たちの方へ入っていった。

「すみません、藤崎先生、教授から連絡が入ってます」

明らかに嘘だった。

けれど、酔った場ではそれで十分だった。

女性たちの注意が少し逸れる。

その瞬間、桐谷が美月の方へ歩いてきた。

「綾瀬、タクシー?」

「はい」

「じゃあ、これ」

そう言って、桐谷は手にしていた男性物の上着を美月の腕に押し込んだ。

「え?」

「届け物」

「誰にですか」

「本人に」

意味が分からない。

そう思った次の瞬間、店の前にタクシーが止まった。

桐谷が、美月の肩を軽く押す。

「乗って」

「え、あの」

「屈んで」

「はい?」

言われるまま、反射的に少し身をかがめた。

その隙に、背後から誰かがタクシーに乗り込んできた。

ドアが閉まる。

美月は顔を上げた。

隣に、藤崎理久がいた。

「……」

「……」

しばらく沈黙が落ちた。

美月は膝の上を見る。

理久の上着。

隣を見る。

理久本人。

「……この上着」

「俺の」

「返します」

美月が差し出すと、理久は今度は素直に受け取った。

「ありがとう」

「どういうことですか」

理久は少し視線を逸らした。

「救出してもらった」

「誰をですか」

「俺を」

「誰に」

「桐谷に」

美月は、ようやく全体像を理解し始めた。

あの内科医。

レジデントを差し向けた。
上着を押し込んだ。
美月を屈ませた。
その隙に理久が乗り込んだ。

完璧すぎる連携。

「……なんて頼んだら、こうなるんですか」

「普通に、逃げたいって言った」

「それで私のタクシーに?」

「一番安全そうだったから」

「私は避難所ではありません」

理久が少し笑う。

「うん。ごめん」

その声が、少しだけ素直だった。

タクシーは走り出していた。

美月が行き先を告げると、理久はその前に自分のマンションへ寄るよう運転手に伝えた。

つまり、先に理久を降ろし、そのあと美月を送るつもりらしい。

「それも、頼んでいません」

「うん」

「分かってます?」

「分かってる」

「分かっている人の行動ではありません」

理久は少しだけ笑った。

「今日は助けてもらったから」

「助けた覚えはありません」

「でも、助かった」

そう言われると、返す言葉に困った。

タクシーが、理久のマンション前に停まった。

理久は降りる前に、運転手へ一万円札を差し出した。

「このまま彼女を送ってください。お釣りは彼女に」

美月は慌てた。

「待ってください。私が払います」

「もう渡した」

「そういう問題ではありません」

「じゃあ、次返して」

美月は固まった。

まただ。

また、次の理由を作られた。

「……図りましたね」

理久はドアに手をかけたまま、少しだけ悪い顔で笑った。

「気づいた?」

「今のはさすがに分かります」

「じゃあ、また」

そう言って、理久は降りていく。

ドアが閉まる。

タクシーは再び走り出した。

しばらくして、自宅前に着いた。

運転手が振り返る。

「お釣りです」

美月は差し出されたお釣りを受け取った。

封筒に入っているわけでもない、ただの紙幣と硬貨。

けれど、それが妙に重く感じた。

タクシー代のお釣り。

返さなければならない。

つまり、また会う理由ができてしまった。

美月は小さく息を吐いた。

本当に、なんつー男。

でも、さっき「助けてほしかった」と言った声だけは。

少しだけ、忘れにくかった。
< 13 / 14 >

この作品をシェア

pagetop