光の中で〜あなたの隣に立つ日まで〜
第28話 表参道と首輪
洗面所の事故から、二日が経った。
事故。
美月は、何度もそう言い聞かせていた。
濡れた髪。
前を留めていないパジャマ。
鎖骨。
胸元。
少し低い声。
「……覗き?」
それから。
おやすみ、美月。
あれは事故だった。
でも、自分の反応までは、事故では片づけられなかった。
そのせいで、家の中にいると落ち着かない。
リビングに先生がいるだけで、洗面所のことを思い出す。
廊下ですれ違うだけで、距離を測ってしまう。
洗面所のドアが閉まっているだけで、妙に意識してしまう。
よくない。
非常によくない。
そんな美月の様子を見ていたのか、先生はその日の朝、珈琲を飲みながら何でもない顔で言った。
「今日、少し外に出ない?」
美月はカップを持つ手を止めた。
「外、ですか」
「うん」
「どこへ」
「表参道」
即答だった。
美月は眉を寄せる。
「なぜ急に表参道」
「外の空気を吸うため」
「表参道である必要がありますか」
「ある」
「何の必要ですか」
「俺が行きたい」
美月は黙った。
理由になっているようで、なっていない。
けれど、先生は続けた。
「家の中にいると、考えすぎるでしょ」
美月は視線を逸らした。
図星だった。
かなり図星だった。
「考えすぎていません」
「二回言う?」
「言いません」
「じゃあ、少し考えてる」
「少しだけです」
「うん。じゃあ、少し外に出よう」
うまい。
本当に、うまい。
少しだけ、という言葉を勝手に拾って、外出の理由に変えてくる。
美月はカップを置いた。
「買い物ですか」
「散歩でもいい」
「曖昧ですね」
「美月が逃げやすいように」
美月は先生を見た。
先生は、いつものように穏やかな顔をしている。
けれど、その目は少しだけ楽しそうだった。
逃げ道は残す。
でも、確実に逃げ道の前に立つ。
この人は本当に、そういうことをする。
美月は小さくため息をついた。
「少しだけです」
「うん。少しだけ」
「雑貨を見るだけです」
「うん」
「変なところには行きません」
「変なところって?」
「先生が選ぶ場所全般です」
先生が笑った。
「信用ないな」
「積み重ねの結果です」
「それ、気に入った?」
「便利なので」
先生は楽しそうに笑って、珈琲を飲んだ。
その顔を見て、美月は少しだけ後悔した。
行くと言ってしまった。
少しだけ。
本当に、少しだけのつもりだった。
* * *
表参道は、相変わらず眩しかった。
街路樹の緑。
ガラス張りの店。
綺麗な服を着た人たち。
休日の午後らしい、少し浮き立った空気。
病院の白い廊下とは、まったく違う世界だった。
美月は先生の隣を歩きながら、少しだけ落ち着かなかった。
先生は、休日の服を着ている。
黒のジャケットに、淡い色のシャツ。
仕事中の整った外科医ではなく、休日の男の顔をしている。
それなのに、目立つ。
普通に歩いているだけなのに、目立つ。
すれ違う女性が、一瞬だけ先生を見る。
カフェの前で並んでいる人も、ショーウィンドウを見ている人も、視線がほんの少しだけ引っかかる。
本人は気づいていないのか。
気づいていて気にしていないのか。
たぶん、後者だ。
慣れている顔をしている。
それが少しだけ面白くない。
いや。
面白くないと思う資格はない。
好きとは言っていない。
恋人でもない。
ただ、同じ家にいるだけ。
……ただ、ではない気もするけれど。
美月は首を横に振りそうになった。
考えない。
外の空気を吸いに来ただけ。
「美月」
隣から呼ばれて、美月は顔を上げた。
「何ですか」
「ぼーっとしてた」
「していません」
「じゃあ、少ししてた」
「表参道が眩しいだけです」
「表参道が?」
「はい」
「俺じゃなくて?」
美月は一瞬、言葉を失った。
先生が少しだけ笑う。
腹立たしい。
本当に腹立たしい。
「先生は、自覚があるんですね」
「何の?」
「目立つことです」
「そう?」
「そうです」
「美月がそう思ってくれてるなら、嬉しいけど」
「そういう意味ではありません」
「じゃあ、どういう意味?」
美月は答えなかった。
答えたら負ける気がした。
先生はそれ以上追わず、自然に歩く速度を少し落とした。
美月の歩幅に合わせている。
道路側を先生が歩き、人とすれ違う時には、ほんの少しだけ美月を内側へ入れる。
触れない。
手も取らない。
でも、守る位置にいる。
そういうところがまた、ずるい。
美月がそう考えていた時だった。
少し先の横断歩道の向こうから、見覚えのある女性が歩いてくるのが見えた。
美月の背中が、一瞬で固まる。
病院で見たことがある。
たぶん、薬剤部か、外来か。
どこかで何度かすれ違っている人。
確信はない。
けれど、病院関係者かもしれない。
その人は、友人らしき女性と話しながら、こちらへ向かってくる。
信号が変われば、すぐこちら側へ渡ってくる距離だった。
まだ気づかれていない。
でも、このまま進めば、正面からすれ違う。
先生と二人で表参道を歩いているところを見られる。
別に悪いことはしていない。
休日に外を歩いているだけ。
同じ病院の医師と看護師が、たまたま一緒にいるだけ。
いや、たまたまではない。
一緒に来ている。
しかも、今は同じ家にいる。
そこまで考えた瞬間、美月の身体が先に動いた。
「先生」
「ん?」
「こっちです」
「え?」
「いいから、こっちです」
美月は先生の手を取った。
自分でも、ほとんど無意識だった。
見つかる前に、視線から外れなければ。
ただ、それだけだった。
先生の返事を待たずに、美月はすぐ横にあったガラスの扉へ逃げ込んだ。
扉が静かに閉まる。
外のざわめきが遠くなる。
店内は、落ち着いた照明に包まれていた。
一瞬、空気が変わった。
静か。
高そう。
とても高そう。
空気まで高い。
美月は顔を上げた。
そして、固まった。
ガラスケースの中で、指輪やネックレスがきらきらと光っている。
細いチェーン。
小さな石。
繊細なピアス。
上品なリング。
間違えた。
完全に、逃げ込む場所を間違えた。
そこは、高級ジュエリー店だった。
美月はようやく、自分の手元に気づいた。
先生の手を、しっかり握っていた。
「……っ」
慌てて離す。
先生はその手を見て、それから美月を見た。
少しだけ笑っている。
非常に楽しそうだった。
「意外と積極的だね」
「違います」
即答した。
「避難です」
「また避難?」
「今のは本当に避難です」
「知り合いでもいた?」
美月は小さく頷いた。
「病院関係者かもしれない人がいました」
「なるほど」
「見つかる前に逃げました」
「判断が早いね」
「職業柄です」
「それで俺の手を引いたんだ」
美月は一瞬黙った。
「……不可抗力です」
「うん」
先生は楽しそうに頷いた。
「良い避難先だね」
「最悪の避難先です」
美月は店内を見回した。
出たい。
すぐに出たい。
けれど、店員はすでに品のいい笑顔でこちらを見ている。
入ったばかりで何も見ずに出る方が、かえって目立つ。
逃げ場がない。
美月は目だけで先生に訴えた。
出たいです。
こんな高いものを見に来たわけではありません。
知り合いから隠れるために入っただけです。
先生はその視線を受けて、楽しそうに微笑んだ。
「なかなか良い店選びをするんだね」
「選んでません」
「美月が連れてきた」
「逃げ込んだだけです」
「でも、手を引いて」
「それは不可抗力です」
「すぐ出る方が不自然だよ」
美月は固まった。
たしかに。
「……先生」
「見るだけ」
「本当ですか」
「たぶん」
「その“たぶん”が一番信用できません」
先生は笑いながら、自然にショーケースの方へ進んだ。
美月は仕方なくついて行く。
ショーケースの中のジュエリーは、どれも眩しかった。
華奢なリング。
小さな石のネックレス。
シンプルなのに、明らかに上質だと分かるピアス。
ふと、値札が目に入る。
美月は、思わず視線を外した。
買えない額ではない。
けれど、気軽に試していい額でもない。
少なくとも、知り合いから隠れるために逃げ込んだ店で、流れのまま眺めるものではなかった。
店員が、品のいい笑顔で近づいてくる。
「いらっしゃいませ。何かお探しでしょうか」
美月は心の中で悲鳴を上げた。
探していません。
隠れに来ました。
もちろん、そんなことは言えない。
美月が固まっていると、先生が自然に返した。
「彼女に似合いそうなものを見せてもらえますか」
美月の心臓が止まりそうになった。
彼女。
今、彼女って言った?
恋人の意味なのか。
女性の意味なのか。
店員への自然な表現なのか。
分からない。
分からないけれど、耳が熱い。
店員は何の違和感もない様子で微笑んだ。
「かしこまりました。普段使いしやすいものですと、こちらなどいかがでしょうか」
美月は先生を睨む。
先生は涼しい顔をしている。
「先生」
「見るだけ」
「今、見るだけの範囲を超えました」
「まだ見てるだけ」
「店員さんを巻き込みました」
「仕事の邪魔はしてない」
「そういう問題ではありません」
先生は楽しそうだった。
美月は逃げるタイミングを完全に失っていた。
店員がいくつかネックレスを並べてくれる。
細いチェーン。
小さな石。
月のような曲線のトップ。
肌に馴染みそうな淡い光。
どれも綺麗だった。
綺麗すぎて、困る。
美月は見ないようにしようとして、結局見てしまった。
その中のひとつに、目が止まる。
小さな石が一粒だけついたネックレス。
派手ではない。
主張も強くない。
でも、光を受けると静かに揺れる。
美月が見てしまったことに、先生はすぐ気づいた。
「それ、いいね」
「何も言っていません」
「見てた」
美月は唇を結んだ。
言い返せなかった。
見ていた。
確かに、見てしまった。
店員が穏やかに言った。
「よろしければ、ご試着だけでも」
美月は反射的に断ろうとした。
「いえ、私は——」
「お願いします」
先生が、静かに言った。
美月は先生を見る。
「先生」
「試すだけ」
その言い方は穏やかだった。
けれど、ここでこれ以上言い募れば、店員を困らせる。
美月は小さく息を吸って、諦めたように鏡の前へ立った。
店員が後ろに回り、ネックレスを首元に合わせる。
細いチェーンが肌に触れた。
冷たい。
一瞬、身体がこわばる。
留め具が留まる、小さな音がした。
鏡の中に、自分が映った。
首元に、小さな光。
美月は、言葉を失った。
似合わないと思っていた。
こういうものは、自分には関係ないと思っていた。
病棟では髪をまとめ、スクラブを着て、動きやすさを優先する。
患者の邪魔にならないもの。
洗いやすいもの。
現実的なもの。
自分を飾るものは、いつも後回しだった。
なのに、鏡の中の自分は、少し違って見えた。
首元の小さな光が、やけに静かに馴染んでいる。
派手ではない。
でも、確かにそこにある。
美月は、思わず黙り込んだ。
先生が鏡越しに見ている。
近づかない。
触れない。
ただ、見ている。
その目が、少しだけ優しくなった。
「似合ってる」
たったそれだけ。
それだけなのに、美月の胸が少し熱くなる。
店員も微笑んだ。
「とてもお似合いです。華奢なので、休日にも使いやすいかと思います」
休日。
病院ではない日。
先生と並んで歩く日。
そんな想像をしかけて、美月は慌てて顔を上げた。
だめ。
危険。
非常に危険。
「外します」
美月は小さく言った。
その瞬間、先生が店員に向き直った。
「こちらをお願いします」
美月は固まった。
「先生っ」
「俺の買い物」
その一言で、美月は何も言えなくなった。
美月が欲しいと言ったわけではない。
美月が選んだわけでもない。
けれど、先生はもう決めている顔をしていた。
店員は、完璧に品のいい笑顔を保っている。
すごい。
この空気の中で笑顔を崩さない。
プロだ。
あれよあれよという間に会計が進む。
先生は当然のようにカードを出し、店員が丁寧に包みを用意してくれる。
美月はその間、首元のネックレスを意識し続けていた。
外しますと言えばいい。
そう思う。
けれど、言い切れなかった。
そこが一番まずい。
包みを用意しながら、店員が穏やかに聞いた。
「よろしければ、このままお着けになられますか」
美月は一瞬、先生を見た。
先生は静かに答えた。
「お願いします」
それは、彼の買い物だった。
彼が選び、彼が支払ったもの。
美月が口を挟む隙は、もうなかった。
けれど、それを嫌だと思えない自分がいた。
店員は、変わらない笑顔で頷いた。
「かしこまりました」
先生は何も言わなかった。
ただ、ほんの少しだけ目元を緩めた。
それが見えて、美月はすぐに視線を逸らした。
店員が丁寧に頭を下げる。
「またぜひお立ち寄りくださいませ」
美月は、胸元に小さく光るネックレスを意識しながら、店を出た。
外に出た瞬間、ようやく息を吸う。
表参道の空気が、やけに現実的に感じた。
さっきまでの静かな店内。
眩しいショーケース。
首元に触れる小さな光。
全部、夢みたいだった。
でも、これは現実だ。
本当に買われてしまった。
そして、そのまま着けることになってしまった。
美月は先生に向き直る。
「先生」
「ん?」
「これは……」
言いかけて、言葉が止まった。
受け取れません。
そう言うべきなのかもしれない。
けれど、店に戻って返すのも違う気がした。
自分がお金を払うのも、違う。
そもそも、先生は美月に買わせたわけではない。
欲しいと言わせたわけでもない。
ただ、自分の買い物だと言って、選んだ。
それをどう受け取ればいいのか、美月には分からなかった。
「……こんな展開になるなんて、不本意です」
「不本意?」
先生が楽しそうな顔を向けてくる。
その表情が、また腹立たしい。
「結構お高いので……気が引けるというか」
「なら、飼い猫に首輪くらいに思って」
美月は、じっと先生に視線を向けた。
先生はすぐに笑った。
「はいはい。冗談。ごめんごめん」
「全然、冗談に聞こえません」
「言い方が悪かった」
「悪すぎます」
美月は首元にそっと手を添えた。
細いチェーンは、もう肌の温度に少し馴染み始めている。
先生の自宅に住まわせてもらっている。
食事も、生活も、ずいぶん助けてもらっている。
そう考えると、あながち間違っていないような気もしてしまう。
いや。
違う。
流されてはいけない。
美月は顔を上げた。
「飼われた覚えはありません」
そう言って、ふいっとそっぽを向く。
先生が、ふっと笑った。
小さく、こぼすような笑いだった。
「そういうところが猫っぽい」
「なっ……」
顔が熱くなった。
恥ずかしくて、もう先生の顔が見られない。
なんか、ずるい。
やっぱり、ずるい。
「美月」
「何ですか」
「こっち見ないの?」
「見ません」
先生が立ち止まった。
「今度は、あっち」
「え?」
思わず振り向くと、先生は美月が進んでいる方向とは別の道を指差していた。
「あ、振り向いた」
「……っ」
本当に、調子が狂う。
院内の態度と全然違う。
あのきらきらとした王子は、どこへ行ったのだろう。
「どこに行くんですか」
「食べるところ」
「食事……ですか?」
「そう」
「行きません」
「もう予約した。行かない?」
まただ。
先手必勝なのだろうか。
美月は首元に指先を添えた。
小さな光が、指先に触れる。
まだ帰るには、少し早い気がした。
「……行きます」
先生の目元が、やわらかく緩んだ。
「良かった」
その笑い方は、さっきまでのからかうような顔とは違っていた。
温かくて、静かで、どこか安心させるような微笑み。
その姿は、紛れもなく王子そのものだった。
一体、この人はどんな人なんだろう。
考えれば考えるほど、分からなくなっていった。
事故。
美月は、何度もそう言い聞かせていた。
濡れた髪。
前を留めていないパジャマ。
鎖骨。
胸元。
少し低い声。
「……覗き?」
それから。
おやすみ、美月。
あれは事故だった。
でも、自分の反応までは、事故では片づけられなかった。
そのせいで、家の中にいると落ち着かない。
リビングに先生がいるだけで、洗面所のことを思い出す。
廊下ですれ違うだけで、距離を測ってしまう。
洗面所のドアが閉まっているだけで、妙に意識してしまう。
よくない。
非常によくない。
そんな美月の様子を見ていたのか、先生はその日の朝、珈琲を飲みながら何でもない顔で言った。
「今日、少し外に出ない?」
美月はカップを持つ手を止めた。
「外、ですか」
「うん」
「どこへ」
「表参道」
即答だった。
美月は眉を寄せる。
「なぜ急に表参道」
「外の空気を吸うため」
「表参道である必要がありますか」
「ある」
「何の必要ですか」
「俺が行きたい」
美月は黙った。
理由になっているようで、なっていない。
けれど、先生は続けた。
「家の中にいると、考えすぎるでしょ」
美月は視線を逸らした。
図星だった。
かなり図星だった。
「考えすぎていません」
「二回言う?」
「言いません」
「じゃあ、少し考えてる」
「少しだけです」
「うん。じゃあ、少し外に出よう」
うまい。
本当に、うまい。
少しだけ、という言葉を勝手に拾って、外出の理由に変えてくる。
美月はカップを置いた。
「買い物ですか」
「散歩でもいい」
「曖昧ですね」
「美月が逃げやすいように」
美月は先生を見た。
先生は、いつものように穏やかな顔をしている。
けれど、その目は少しだけ楽しそうだった。
逃げ道は残す。
でも、確実に逃げ道の前に立つ。
この人は本当に、そういうことをする。
美月は小さくため息をついた。
「少しだけです」
「うん。少しだけ」
「雑貨を見るだけです」
「うん」
「変なところには行きません」
「変なところって?」
「先生が選ぶ場所全般です」
先生が笑った。
「信用ないな」
「積み重ねの結果です」
「それ、気に入った?」
「便利なので」
先生は楽しそうに笑って、珈琲を飲んだ。
その顔を見て、美月は少しだけ後悔した。
行くと言ってしまった。
少しだけ。
本当に、少しだけのつもりだった。
* * *
表参道は、相変わらず眩しかった。
街路樹の緑。
ガラス張りの店。
綺麗な服を着た人たち。
休日の午後らしい、少し浮き立った空気。
病院の白い廊下とは、まったく違う世界だった。
美月は先生の隣を歩きながら、少しだけ落ち着かなかった。
先生は、休日の服を着ている。
黒のジャケットに、淡い色のシャツ。
仕事中の整った外科医ではなく、休日の男の顔をしている。
それなのに、目立つ。
普通に歩いているだけなのに、目立つ。
すれ違う女性が、一瞬だけ先生を見る。
カフェの前で並んでいる人も、ショーウィンドウを見ている人も、視線がほんの少しだけ引っかかる。
本人は気づいていないのか。
気づいていて気にしていないのか。
たぶん、後者だ。
慣れている顔をしている。
それが少しだけ面白くない。
いや。
面白くないと思う資格はない。
好きとは言っていない。
恋人でもない。
ただ、同じ家にいるだけ。
……ただ、ではない気もするけれど。
美月は首を横に振りそうになった。
考えない。
外の空気を吸いに来ただけ。
「美月」
隣から呼ばれて、美月は顔を上げた。
「何ですか」
「ぼーっとしてた」
「していません」
「じゃあ、少ししてた」
「表参道が眩しいだけです」
「表参道が?」
「はい」
「俺じゃなくて?」
美月は一瞬、言葉を失った。
先生が少しだけ笑う。
腹立たしい。
本当に腹立たしい。
「先生は、自覚があるんですね」
「何の?」
「目立つことです」
「そう?」
「そうです」
「美月がそう思ってくれてるなら、嬉しいけど」
「そういう意味ではありません」
「じゃあ、どういう意味?」
美月は答えなかった。
答えたら負ける気がした。
先生はそれ以上追わず、自然に歩く速度を少し落とした。
美月の歩幅に合わせている。
道路側を先生が歩き、人とすれ違う時には、ほんの少しだけ美月を内側へ入れる。
触れない。
手も取らない。
でも、守る位置にいる。
そういうところがまた、ずるい。
美月がそう考えていた時だった。
少し先の横断歩道の向こうから、見覚えのある女性が歩いてくるのが見えた。
美月の背中が、一瞬で固まる。
病院で見たことがある。
たぶん、薬剤部か、外来か。
どこかで何度かすれ違っている人。
確信はない。
けれど、病院関係者かもしれない。
その人は、友人らしき女性と話しながら、こちらへ向かってくる。
信号が変われば、すぐこちら側へ渡ってくる距離だった。
まだ気づかれていない。
でも、このまま進めば、正面からすれ違う。
先生と二人で表参道を歩いているところを見られる。
別に悪いことはしていない。
休日に外を歩いているだけ。
同じ病院の医師と看護師が、たまたま一緒にいるだけ。
いや、たまたまではない。
一緒に来ている。
しかも、今は同じ家にいる。
そこまで考えた瞬間、美月の身体が先に動いた。
「先生」
「ん?」
「こっちです」
「え?」
「いいから、こっちです」
美月は先生の手を取った。
自分でも、ほとんど無意識だった。
見つかる前に、視線から外れなければ。
ただ、それだけだった。
先生の返事を待たずに、美月はすぐ横にあったガラスの扉へ逃げ込んだ。
扉が静かに閉まる。
外のざわめきが遠くなる。
店内は、落ち着いた照明に包まれていた。
一瞬、空気が変わった。
静か。
高そう。
とても高そう。
空気まで高い。
美月は顔を上げた。
そして、固まった。
ガラスケースの中で、指輪やネックレスがきらきらと光っている。
細いチェーン。
小さな石。
繊細なピアス。
上品なリング。
間違えた。
完全に、逃げ込む場所を間違えた。
そこは、高級ジュエリー店だった。
美月はようやく、自分の手元に気づいた。
先生の手を、しっかり握っていた。
「……っ」
慌てて離す。
先生はその手を見て、それから美月を見た。
少しだけ笑っている。
非常に楽しそうだった。
「意外と積極的だね」
「違います」
即答した。
「避難です」
「また避難?」
「今のは本当に避難です」
「知り合いでもいた?」
美月は小さく頷いた。
「病院関係者かもしれない人がいました」
「なるほど」
「見つかる前に逃げました」
「判断が早いね」
「職業柄です」
「それで俺の手を引いたんだ」
美月は一瞬黙った。
「……不可抗力です」
「うん」
先生は楽しそうに頷いた。
「良い避難先だね」
「最悪の避難先です」
美月は店内を見回した。
出たい。
すぐに出たい。
けれど、店員はすでに品のいい笑顔でこちらを見ている。
入ったばかりで何も見ずに出る方が、かえって目立つ。
逃げ場がない。
美月は目だけで先生に訴えた。
出たいです。
こんな高いものを見に来たわけではありません。
知り合いから隠れるために入っただけです。
先生はその視線を受けて、楽しそうに微笑んだ。
「なかなか良い店選びをするんだね」
「選んでません」
「美月が連れてきた」
「逃げ込んだだけです」
「でも、手を引いて」
「それは不可抗力です」
「すぐ出る方が不自然だよ」
美月は固まった。
たしかに。
「……先生」
「見るだけ」
「本当ですか」
「たぶん」
「その“たぶん”が一番信用できません」
先生は笑いながら、自然にショーケースの方へ進んだ。
美月は仕方なくついて行く。
ショーケースの中のジュエリーは、どれも眩しかった。
華奢なリング。
小さな石のネックレス。
シンプルなのに、明らかに上質だと分かるピアス。
ふと、値札が目に入る。
美月は、思わず視線を外した。
買えない額ではない。
けれど、気軽に試していい額でもない。
少なくとも、知り合いから隠れるために逃げ込んだ店で、流れのまま眺めるものではなかった。
店員が、品のいい笑顔で近づいてくる。
「いらっしゃいませ。何かお探しでしょうか」
美月は心の中で悲鳴を上げた。
探していません。
隠れに来ました。
もちろん、そんなことは言えない。
美月が固まっていると、先生が自然に返した。
「彼女に似合いそうなものを見せてもらえますか」
美月の心臓が止まりそうになった。
彼女。
今、彼女って言った?
恋人の意味なのか。
女性の意味なのか。
店員への自然な表現なのか。
分からない。
分からないけれど、耳が熱い。
店員は何の違和感もない様子で微笑んだ。
「かしこまりました。普段使いしやすいものですと、こちらなどいかがでしょうか」
美月は先生を睨む。
先生は涼しい顔をしている。
「先生」
「見るだけ」
「今、見るだけの範囲を超えました」
「まだ見てるだけ」
「店員さんを巻き込みました」
「仕事の邪魔はしてない」
「そういう問題ではありません」
先生は楽しそうだった。
美月は逃げるタイミングを完全に失っていた。
店員がいくつかネックレスを並べてくれる。
細いチェーン。
小さな石。
月のような曲線のトップ。
肌に馴染みそうな淡い光。
どれも綺麗だった。
綺麗すぎて、困る。
美月は見ないようにしようとして、結局見てしまった。
その中のひとつに、目が止まる。
小さな石が一粒だけついたネックレス。
派手ではない。
主張も強くない。
でも、光を受けると静かに揺れる。
美月が見てしまったことに、先生はすぐ気づいた。
「それ、いいね」
「何も言っていません」
「見てた」
美月は唇を結んだ。
言い返せなかった。
見ていた。
確かに、見てしまった。
店員が穏やかに言った。
「よろしければ、ご試着だけでも」
美月は反射的に断ろうとした。
「いえ、私は——」
「お願いします」
先生が、静かに言った。
美月は先生を見る。
「先生」
「試すだけ」
その言い方は穏やかだった。
けれど、ここでこれ以上言い募れば、店員を困らせる。
美月は小さく息を吸って、諦めたように鏡の前へ立った。
店員が後ろに回り、ネックレスを首元に合わせる。
細いチェーンが肌に触れた。
冷たい。
一瞬、身体がこわばる。
留め具が留まる、小さな音がした。
鏡の中に、自分が映った。
首元に、小さな光。
美月は、言葉を失った。
似合わないと思っていた。
こういうものは、自分には関係ないと思っていた。
病棟では髪をまとめ、スクラブを着て、動きやすさを優先する。
患者の邪魔にならないもの。
洗いやすいもの。
現実的なもの。
自分を飾るものは、いつも後回しだった。
なのに、鏡の中の自分は、少し違って見えた。
首元の小さな光が、やけに静かに馴染んでいる。
派手ではない。
でも、確かにそこにある。
美月は、思わず黙り込んだ。
先生が鏡越しに見ている。
近づかない。
触れない。
ただ、見ている。
その目が、少しだけ優しくなった。
「似合ってる」
たったそれだけ。
それだけなのに、美月の胸が少し熱くなる。
店員も微笑んだ。
「とてもお似合いです。華奢なので、休日にも使いやすいかと思います」
休日。
病院ではない日。
先生と並んで歩く日。
そんな想像をしかけて、美月は慌てて顔を上げた。
だめ。
危険。
非常に危険。
「外します」
美月は小さく言った。
その瞬間、先生が店員に向き直った。
「こちらをお願いします」
美月は固まった。
「先生っ」
「俺の買い物」
その一言で、美月は何も言えなくなった。
美月が欲しいと言ったわけではない。
美月が選んだわけでもない。
けれど、先生はもう決めている顔をしていた。
店員は、完璧に品のいい笑顔を保っている。
すごい。
この空気の中で笑顔を崩さない。
プロだ。
あれよあれよという間に会計が進む。
先生は当然のようにカードを出し、店員が丁寧に包みを用意してくれる。
美月はその間、首元のネックレスを意識し続けていた。
外しますと言えばいい。
そう思う。
けれど、言い切れなかった。
そこが一番まずい。
包みを用意しながら、店員が穏やかに聞いた。
「よろしければ、このままお着けになられますか」
美月は一瞬、先生を見た。
先生は静かに答えた。
「お願いします」
それは、彼の買い物だった。
彼が選び、彼が支払ったもの。
美月が口を挟む隙は、もうなかった。
けれど、それを嫌だと思えない自分がいた。
店員は、変わらない笑顔で頷いた。
「かしこまりました」
先生は何も言わなかった。
ただ、ほんの少しだけ目元を緩めた。
それが見えて、美月はすぐに視線を逸らした。
店員が丁寧に頭を下げる。
「またぜひお立ち寄りくださいませ」
美月は、胸元に小さく光るネックレスを意識しながら、店を出た。
外に出た瞬間、ようやく息を吸う。
表参道の空気が、やけに現実的に感じた。
さっきまでの静かな店内。
眩しいショーケース。
首元に触れる小さな光。
全部、夢みたいだった。
でも、これは現実だ。
本当に買われてしまった。
そして、そのまま着けることになってしまった。
美月は先生に向き直る。
「先生」
「ん?」
「これは……」
言いかけて、言葉が止まった。
受け取れません。
そう言うべきなのかもしれない。
けれど、店に戻って返すのも違う気がした。
自分がお金を払うのも、違う。
そもそも、先生は美月に買わせたわけではない。
欲しいと言わせたわけでもない。
ただ、自分の買い物だと言って、選んだ。
それをどう受け取ればいいのか、美月には分からなかった。
「……こんな展開になるなんて、不本意です」
「不本意?」
先生が楽しそうな顔を向けてくる。
その表情が、また腹立たしい。
「結構お高いので……気が引けるというか」
「なら、飼い猫に首輪くらいに思って」
美月は、じっと先生に視線を向けた。
先生はすぐに笑った。
「はいはい。冗談。ごめんごめん」
「全然、冗談に聞こえません」
「言い方が悪かった」
「悪すぎます」
美月は首元にそっと手を添えた。
細いチェーンは、もう肌の温度に少し馴染み始めている。
先生の自宅に住まわせてもらっている。
食事も、生活も、ずいぶん助けてもらっている。
そう考えると、あながち間違っていないような気もしてしまう。
いや。
違う。
流されてはいけない。
美月は顔を上げた。
「飼われた覚えはありません」
そう言って、ふいっとそっぽを向く。
先生が、ふっと笑った。
小さく、こぼすような笑いだった。
「そういうところが猫っぽい」
「なっ……」
顔が熱くなった。
恥ずかしくて、もう先生の顔が見られない。
なんか、ずるい。
やっぱり、ずるい。
「美月」
「何ですか」
「こっち見ないの?」
「見ません」
先生が立ち止まった。
「今度は、あっち」
「え?」
思わず振り向くと、先生は美月が進んでいる方向とは別の道を指差していた。
「あ、振り向いた」
「……っ」
本当に、調子が狂う。
院内の態度と全然違う。
あのきらきらとした王子は、どこへ行ったのだろう。
「どこに行くんですか」
「食べるところ」
「食事……ですか?」
「そう」
「行きません」
「もう予約した。行かない?」
まただ。
先手必勝なのだろうか。
美月は首元に指先を添えた。
小さな光が、指先に触れる。
まだ帰るには、少し早い気がした。
「……行きます」
先生の目元が、やわらかく緩んだ。
「良かった」
その笑い方は、さっきまでのからかうような顔とは違っていた。
温かくて、静かで、どこか安心させるような微笑み。
その姿は、紛れもなく王子そのものだった。
一体、この人はどんな人なんだろう。
考えれば考えるほど、分からなくなっていった。