光の中で〜あなたの隣に立つ日まで〜
第29話 好きと言わされる夜
美月は席に着いたまま、しばらく言葉を失っていた。
窓の外には、夜景が広がっている。
表参道を歩いていたはずだった。
少し外の空気を吸って、雑貨を見るくらいのつもりだった。
それなのに、病院関係者らしき人から逃げるために先生の手を引き、飛び込んだ先は高級ジュエリー店。
あれよあれよという間に、先生の買い物として、ネックレスが美月の首元に残った。
飼い猫に首輪くらいに思って、なんて言われた。
そして今。
なぜか、夜景の見えるレストランにいる。
照明は落ち着いていて、テーブルの上のグラスは薄く光っている。
周囲の声は静かで、運ばれてくる料理も、何もかもが綺麗だった。
一体、どうして。
藤崎理久、どんだけ王子様なの。
美月は胸元にそっと意識を向けた。
小さなネックレスが、さっきからずっと肌に触れている。
さっき、そのまま着けることになった。
けれど、店を出たあとも、外そうとはしなかった。
それなのに、こうしてレストランの席に座ると、その意味が急に重くなる。
こんなプレゼントをされて。
こんな素敵なレストランに連れてこられて。
恋人と、恋人ではない境界は、一体どこにあるのだろう。
美月はグラスを見つめながら、小さく息を吐いた。
「……先ほどは、ありがとうございました」
ようやく、それだけ言えた。
先生は、少しだけ目元を緩める。
「うん」
それ以上、先生は何も言わなかった。
その静けさが、かえって困った。
分かっている。
これは嬉しい。
こんなことをされたら、普通は心が動く。
いや、もうかなり揺さぶられている。
ちらっと先生を見る。
夜景を背にして、先生は相変わらず絵になる。
こういう場が似合いすぎる。
何もかもが自然で、スマートで、ずるい。
美月は、つい可愛くないことを言ってしまった。
「……もっと、素直に喜んでくれる女性にしてあげた方が、嬉しい反応がもらえると思いますが」
言った瞬間、少しだけ後悔した。
先生が、ほんの少しだけ寂しそうな顔をしたから。
それは、いつものからかう顔ではなかった。
表面だけなら、まだ笑っている。
でも、その奥に一瞬、違うものが見えた気がした。
先生はグラスに視線を落とした。
「そうだね」
静かな声だった。
「顔とか、ステータスとか、バックグラウンドとか。そういうのを好む人は、多いと思う」
美月は、言葉を返せなかった。
「自分で言うのも変だけど、俺はたぶん、世の中では恵まれている方なんだと思う」
先生は、少しだけ笑った。
「だから、人が求めているものを差し出すのは、わりと簡単なんだよ」
「……先生、それ、世界中の人を敵に回す発言ですね」
「だよね」
先生は笑った。
けれど、その笑みはすぐに薄くなる。
「でも、それって俺を見てるのかな」
その言葉が、美月の胸に刺さった。
俺を見てるのかな。
その響きは、思った以上に深いところへ落ちてきた。
綺麗なレストラン。
完璧な所作。
誰にでも向けられるような余裕のある微笑み。
その奥に、少しだけ寂しさが見える。
たぶん、この人はずっと見られてきた。
顔も。
肩書きも。
育ちも。
医師という立場も。
でも、その奥にいる藤崎理久本人まで、ちゃんと見ようとする人がどれだけいたのだろう。
そう思った瞬間、美月の胸の奥にも、似たような痛みがかすかに触れた。
見られているのに、見られていない。
求められているのに、自分ではないものを求められている。
その感覚を、美月は知らないわけではなかった。
自分の前に置かれるもの。
自分より先に見られるもの。
そこから逃げるように、美月はここまで来た。
けれど、今はまだ、そのことを言葉にはできない。
美月はグラスに視線を落とした。
先生は、少しだけ息を吐く。
「人の心って、そんなに簡単じゃないことも知ってる。自分では満足してもらえていると思っていても、相手はそうじゃないこともある」
その声は、どこか遠くを見ているようだった。
「多少のことでは困らないと思ってたんだけどね」
先生は、そこで美月を見た。
「自分でも驚くくらい、美月に困ってる」
「……わ、私にですか?」
「うん」
先生は少し笑う。
「前にも言ったよね。器用にできないって」
美月は、その言葉を思い出した。
器用にできない。
あの時も、先生はそう言った。
「……十分、器用に見えますけど」
「器用に見せるのは得意だからね」
「そうですね。みんな、騙されていますよね」
先生が目を細める。
「言うね」
「本当はエセ王子なのに」
「ひどいな」
「ひどくありません。そうやって感じの良さそうにしているけれど、本当は結構面倒な人です」
「面倒?」
「はい」
「じゃあ、美月は」
先生が、少しだけ声を落とした。
「その面倒な俺を見てるの?」
美月は、言葉に詰まった。
からかわれているのではない。
今の問いは、いつもの軽い調子ではなかった。
さっき先生が言った言葉が、もう一度胸の奥で響く。
でも、それって俺を見てるのかな。
美月は、自分の指先を見た。
見ている。
たぶん、見てしまっている。
病棟で見せる整った顔だけではなく。
誰にでも向ける王子の笑顔だけではなく。
意地悪で。
少し子どもっぽくて。
ずるくて。
でも、踏み込みすぎた時にはちゃんと止まる人。
美月が黙っていると、先生が少しだけ笑った。
「困る質問だった?」
「……困ります」
「俺も困ってる」
その声が、思ったよりやわらかかった。
「美月に、どう見られているのかが気になる」
美月は顔を上げた。
先生は、まっすぐにこちらを見ている。
逃げ道を塞ぐようでいて、でも、答えを奪う目ではなかった。
ただ、待っている。
美月が自分で言葉を選ぶのを。
「……感じよく見せている先生より」
声が、思ったより小さくなった。
「そのままの先生の方が、私は好っ……」
そこで、声が止まった。
しまった。
美月は息を呑んだ。
言いかけた。
今、確かに言いかけた。
先生も、少しだけ意外そうな顔をしていた。
からかわれると思った。
いつものように、笑って逃げ道を塞がれると思った。
でも、先生は何も言わなかった。
ただ、少し困ったような、祈るような顔で、美月を見ている。
一層、からかってくれたらよかった。
その方が、ずっと楽だった。
でも。
美月は、ゆっくりと息を吸った。
もう、自分の気持ちを認めるしかない。
騙されないと思っていた。
王子になんて落ちないと思っていた。
でも、先生は美月を騙す気なんて、たぶんなかった。
美月に見せている顔は、きっと本質そのものだった。
少し面倒で。
少し意地悪で。
逃げ道を上手に塞いで。
でも、優しくて。
温かくて。
ちゃんと、美月自身を見てくれる人。
あの日、帰りたくないと思ってしまった。
みんなに見せる顔で見られたくないと思ってしまった。
その時点で、もう分かっていたのかもしれない。
ただ、自分で認めるのが怖かっただけで。
「先生」
声が、少し震えた。
先生は何も言わずに待っている。
「先生のことが」
一度、言葉が詰まる。
でも、今度は逃げなかった。
「好きです」
言ってしまった。
その瞬間、胸の奥にあったものが、ようやく形を持った気がした。
この感情に名前をつけるなら、それはきっと恋だ。
「ちょっと面倒で、ちょっと意地悪で、すぐ揶揄ってきて、逃げ道を塞ぐのが上手で」
美月は、少しだけ視線を落とした。
「でも、優しくて、温かくて、ちゃんと私を見てくれる先生のことが……私は、好きです」
言葉にしたら、もう戻れない。
そう思っていた。
でも、戻れない場所まで来ていたのは、本当はずっと前からだったのかもしれない。
あの日、帰らないと決めた時。
合鍵をもう一度受け取った時。
首元のネックレスを外さなかった時。
答えは、少しずつ積み重なっていた。
今、ようやくそれを言葉にしただけだった。
先生は、しばらく黙っていた。
あれだけ好きと言わせようとしていたのに。
すぐに笑うことも、からかうこともしなかった。
困ったような表情にも見える。
でも、それ以上に、どこか安心したようにも見えた。
「……ありがとう」
低い声だった。
美月は瞬きをする。
感謝。
何に対する感謝なのだろう。
告白に対してなのか。
見つけたことに対してなのか。
それとも、先生自身を見たことに対してなのか。
先生は、ゆっくり息を吐いた。
「うん」
何かを確かめるような声だった。
「嬉しい。すごく嬉しい」
その言葉は、どこか遠くを見つめているようにも聞こえた。
でも同時に、何かをひとつずつ噛みしめているようにも見えた。
やがて、先生は美月を見た。
いつもの完璧な微笑みではなかった。
病棟で見せる穏やかな顔でもなかった。
藤崎理久自身の顔だった。
「俺も好きだよ、美月」
美月は息を止めた。
ああ、やっぱり綺麗だ。
この微笑みに、ときめかないわけがない。
こんなふうに見つめられて、心を奪われない人はいないだろう。
でも、それだけではない。
この人の面倒なところも。
意地悪なところも。
少し子どもっぽいところも。
寂しそうに笑うところも。
その全部を知って、それでも抗えないほど惹かれている。
先生は、まっすぐに美月を見た。
「俺と、付き合ってください」
その言葉で、美月は初めて現実に戻った。
付き合う。
恋人。
こんな王子と呼ばれている人に、好きだと言われている。
恋人になってほしいと言われている。
それがどれだけ幸せなことなのか、分からないはずがない。
でも、同時に。
色々なものが浮かんでくる。
職場。
院内で顔を合わせる場面。
藤崎先生のファン。
噂。
医局。
周囲の目。
先生は外科医で、自分は看護師。
同じ病院。
院内で関わることもある。
現実は、そんなにうまくはいかない。
「また、色々考えてる」
先生の声で、美月は顔を上げた。
「……」
「なんとなく、思考は読めるよ」
先生は、からかうようには笑わなかった。
「職場のこと。院内で顔を合わせること。噂になること。俺の立場と、美月の立場」
美月は、何も言えなかった。
全部、当たっていた。
「それは、ちゃんと守る」
先生の声は、静かだった。
「職場では、今まで通りにする。藤崎先生と綾瀬さん。必要以上に近づかないし、噂になるようなこともしない」
美月は、息を止めた。
「美月が働きにくくなるようなことは、絶対にしない」
その言葉に、胸の奥が少し緩んだ。
「それでも不安なことがあったら、その都度ちゃんと話す。俺が勝手に決めない」
先生は、まっすぐに美月を見ていた。
「美月の仕事も、立場も、ちゃんと大事にしたい」
ずるいのに。
からかうのに。
逃げ道を塞ぐのに。
一番大事なところは、いつもちゃんと守ってくれる。
恋人になりたいと言われているのに。
その先に、ちゃんと自分の仕事がある。
生活がある。
立場がある。
それを壊さないようにすると、先生は言ってくれている。
そのことが、思っていた以上に嬉しかった。
美月は、少しだけ姿勢を正した。
「では、改めまして」
先生が見ている。
美月は小さく息を吸った。
「お付き合い、よろしくお願いします」
言った瞬間、先生の顔が今までで一番自然にほどけた。
「うん。よろしく」
その笑顔を見て、美月は少しだけ胸が熱くなった。
この人は、本当に嬉しそうに笑うのだ。
いつもの完璧な微笑みではなく。
病棟で見せる穏やかな顔でもなく。
藤崎理久自身の顔で。
少し間があって、先生がグラスを持つ。
「じゃあ、恋人記念に」
美月も、少し遅れてグラスを持つ。
「……はい」
グラスが軽く触れた。
小さな音がして、夜景の光が揺れる。
それだけで十分だったはずなのに、先生がふいに言った。
「あと、美月が好きって言ってくれた記念」
美月はすぐに顔を上げた。
「それは忘れてください」
「無理」
「忘れてください」
「絶対覚えておく」
「最低です」
「うん。でも、かなり嬉しい」
その声があまりに素直で、美月は言い返せなくなった。
呆れたように息を吐く。
でも、少しだけ笑ってしまった。
この夜から、二人はようやく恋人になった。
ただし職場では、これまで通り。
藤崎先生と、綾瀬さん。
秘密の仮住まい。
そして、秘密の恋人関係。
その始まりは、思っていたよりずっと甘くて、ずっと厄介で。
そして、少しだけ怖かった。
けれど美月は、首元のネックレスにそっと触れた。
冷たいはずの小さな光は、肌に馴染んで、もう温かかった。
「美月」
先生が呼ぶ。
「何ですか」
「今、ネックレス触った」
「触ってません」
「触ったよ」
「確認です」
「何の?」
「……ちゃんと、現実かどうかの」
言ってから、美月は少しだけ恥ずかしくなった。
先生は静かに笑った。
からかわれるかと思った。
でも、からかわなかった。
「現実だよ」
その声は優しかった。
美月は、目を伏せる。
「……はい」
夜景の光が、グラスに映る。
首元のネックレスが、小さく揺れる。
恋人。
まだ、その言葉は少し落ち着かない。
でも、首元の小さな光は、もう肌に馴染んでいる。
それが怖くて。
それでも、嬉しかった。
窓の外には、夜景が広がっている。
表参道を歩いていたはずだった。
少し外の空気を吸って、雑貨を見るくらいのつもりだった。
それなのに、病院関係者らしき人から逃げるために先生の手を引き、飛び込んだ先は高級ジュエリー店。
あれよあれよという間に、先生の買い物として、ネックレスが美月の首元に残った。
飼い猫に首輪くらいに思って、なんて言われた。
そして今。
なぜか、夜景の見えるレストランにいる。
照明は落ち着いていて、テーブルの上のグラスは薄く光っている。
周囲の声は静かで、運ばれてくる料理も、何もかもが綺麗だった。
一体、どうして。
藤崎理久、どんだけ王子様なの。
美月は胸元にそっと意識を向けた。
小さなネックレスが、さっきからずっと肌に触れている。
さっき、そのまま着けることになった。
けれど、店を出たあとも、外そうとはしなかった。
それなのに、こうしてレストランの席に座ると、その意味が急に重くなる。
こんなプレゼントをされて。
こんな素敵なレストランに連れてこられて。
恋人と、恋人ではない境界は、一体どこにあるのだろう。
美月はグラスを見つめながら、小さく息を吐いた。
「……先ほどは、ありがとうございました」
ようやく、それだけ言えた。
先生は、少しだけ目元を緩める。
「うん」
それ以上、先生は何も言わなかった。
その静けさが、かえって困った。
分かっている。
これは嬉しい。
こんなことをされたら、普通は心が動く。
いや、もうかなり揺さぶられている。
ちらっと先生を見る。
夜景を背にして、先生は相変わらず絵になる。
こういう場が似合いすぎる。
何もかもが自然で、スマートで、ずるい。
美月は、つい可愛くないことを言ってしまった。
「……もっと、素直に喜んでくれる女性にしてあげた方が、嬉しい反応がもらえると思いますが」
言った瞬間、少しだけ後悔した。
先生が、ほんの少しだけ寂しそうな顔をしたから。
それは、いつものからかう顔ではなかった。
表面だけなら、まだ笑っている。
でも、その奥に一瞬、違うものが見えた気がした。
先生はグラスに視線を落とした。
「そうだね」
静かな声だった。
「顔とか、ステータスとか、バックグラウンドとか。そういうのを好む人は、多いと思う」
美月は、言葉を返せなかった。
「自分で言うのも変だけど、俺はたぶん、世の中では恵まれている方なんだと思う」
先生は、少しだけ笑った。
「だから、人が求めているものを差し出すのは、わりと簡単なんだよ」
「……先生、それ、世界中の人を敵に回す発言ですね」
「だよね」
先生は笑った。
けれど、その笑みはすぐに薄くなる。
「でも、それって俺を見てるのかな」
その言葉が、美月の胸に刺さった。
俺を見てるのかな。
その響きは、思った以上に深いところへ落ちてきた。
綺麗なレストラン。
完璧な所作。
誰にでも向けられるような余裕のある微笑み。
その奥に、少しだけ寂しさが見える。
たぶん、この人はずっと見られてきた。
顔も。
肩書きも。
育ちも。
医師という立場も。
でも、その奥にいる藤崎理久本人まで、ちゃんと見ようとする人がどれだけいたのだろう。
そう思った瞬間、美月の胸の奥にも、似たような痛みがかすかに触れた。
見られているのに、見られていない。
求められているのに、自分ではないものを求められている。
その感覚を、美月は知らないわけではなかった。
自分の前に置かれるもの。
自分より先に見られるもの。
そこから逃げるように、美月はここまで来た。
けれど、今はまだ、そのことを言葉にはできない。
美月はグラスに視線を落とした。
先生は、少しだけ息を吐く。
「人の心って、そんなに簡単じゃないことも知ってる。自分では満足してもらえていると思っていても、相手はそうじゃないこともある」
その声は、どこか遠くを見ているようだった。
「多少のことでは困らないと思ってたんだけどね」
先生は、そこで美月を見た。
「自分でも驚くくらい、美月に困ってる」
「……わ、私にですか?」
「うん」
先生は少し笑う。
「前にも言ったよね。器用にできないって」
美月は、その言葉を思い出した。
器用にできない。
あの時も、先生はそう言った。
「……十分、器用に見えますけど」
「器用に見せるのは得意だからね」
「そうですね。みんな、騙されていますよね」
先生が目を細める。
「言うね」
「本当はエセ王子なのに」
「ひどいな」
「ひどくありません。そうやって感じの良さそうにしているけれど、本当は結構面倒な人です」
「面倒?」
「はい」
「じゃあ、美月は」
先生が、少しだけ声を落とした。
「その面倒な俺を見てるの?」
美月は、言葉に詰まった。
からかわれているのではない。
今の問いは、いつもの軽い調子ではなかった。
さっき先生が言った言葉が、もう一度胸の奥で響く。
でも、それって俺を見てるのかな。
美月は、自分の指先を見た。
見ている。
たぶん、見てしまっている。
病棟で見せる整った顔だけではなく。
誰にでも向ける王子の笑顔だけではなく。
意地悪で。
少し子どもっぽくて。
ずるくて。
でも、踏み込みすぎた時にはちゃんと止まる人。
美月が黙っていると、先生が少しだけ笑った。
「困る質問だった?」
「……困ります」
「俺も困ってる」
その声が、思ったよりやわらかかった。
「美月に、どう見られているのかが気になる」
美月は顔を上げた。
先生は、まっすぐにこちらを見ている。
逃げ道を塞ぐようでいて、でも、答えを奪う目ではなかった。
ただ、待っている。
美月が自分で言葉を選ぶのを。
「……感じよく見せている先生より」
声が、思ったより小さくなった。
「そのままの先生の方が、私は好っ……」
そこで、声が止まった。
しまった。
美月は息を呑んだ。
言いかけた。
今、確かに言いかけた。
先生も、少しだけ意外そうな顔をしていた。
からかわれると思った。
いつものように、笑って逃げ道を塞がれると思った。
でも、先生は何も言わなかった。
ただ、少し困ったような、祈るような顔で、美月を見ている。
一層、からかってくれたらよかった。
その方が、ずっと楽だった。
でも。
美月は、ゆっくりと息を吸った。
もう、自分の気持ちを認めるしかない。
騙されないと思っていた。
王子になんて落ちないと思っていた。
でも、先生は美月を騙す気なんて、たぶんなかった。
美月に見せている顔は、きっと本質そのものだった。
少し面倒で。
少し意地悪で。
逃げ道を上手に塞いで。
でも、優しくて。
温かくて。
ちゃんと、美月自身を見てくれる人。
あの日、帰りたくないと思ってしまった。
みんなに見せる顔で見られたくないと思ってしまった。
その時点で、もう分かっていたのかもしれない。
ただ、自分で認めるのが怖かっただけで。
「先生」
声が、少し震えた。
先生は何も言わずに待っている。
「先生のことが」
一度、言葉が詰まる。
でも、今度は逃げなかった。
「好きです」
言ってしまった。
その瞬間、胸の奥にあったものが、ようやく形を持った気がした。
この感情に名前をつけるなら、それはきっと恋だ。
「ちょっと面倒で、ちょっと意地悪で、すぐ揶揄ってきて、逃げ道を塞ぐのが上手で」
美月は、少しだけ視線を落とした。
「でも、優しくて、温かくて、ちゃんと私を見てくれる先生のことが……私は、好きです」
言葉にしたら、もう戻れない。
そう思っていた。
でも、戻れない場所まで来ていたのは、本当はずっと前からだったのかもしれない。
あの日、帰らないと決めた時。
合鍵をもう一度受け取った時。
首元のネックレスを外さなかった時。
答えは、少しずつ積み重なっていた。
今、ようやくそれを言葉にしただけだった。
先生は、しばらく黙っていた。
あれだけ好きと言わせようとしていたのに。
すぐに笑うことも、からかうこともしなかった。
困ったような表情にも見える。
でも、それ以上に、どこか安心したようにも見えた。
「……ありがとう」
低い声だった。
美月は瞬きをする。
感謝。
何に対する感謝なのだろう。
告白に対してなのか。
見つけたことに対してなのか。
それとも、先生自身を見たことに対してなのか。
先生は、ゆっくり息を吐いた。
「うん」
何かを確かめるような声だった。
「嬉しい。すごく嬉しい」
その言葉は、どこか遠くを見つめているようにも聞こえた。
でも同時に、何かをひとつずつ噛みしめているようにも見えた。
やがて、先生は美月を見た。
いつもの完璧な微笑みではなかった。
病棟で見せる穏やかな顔でもなかった。
藤崎理久自身の顔だった。
「俺も好きだよ、美月」
美月は息を止めた。
ああ、やっぱり綺麗だ。
この微笑みに、ときめかないわけがない。
こんなふうに見つめられて、心を奪われない人はいないだろう。
でも、それだけではない。
この人の面倒なところも。
意地悪なところも。
少し子どもっぽいところも。
寂しそうに笑うところも。
その全部を知って、それでも抗えないほど惹かれている。
先生は、まっすぐに美月を見た。
「俺と、付き合ってください」
その言葉で、美月は初めて現実に戻った。
付き合う。
恋人。
こんな王子と呼ばれている人に、好きだと言われている。
恋人になってほしいと言われている。
それがどれだけ幸せなことなのか、分からないはずがない。
でも、同時に。
色々なものが浮かんでくる。
職場。
院内で顔を合わせる場面。
藤崎先生のファン。
噂。
医局。
周囲の目。
先生は外科医で、自分は看護師。
同じ病院。
院内で関わることもある。
現実は、そんなにうまくはいかない。
「また、色々考えてる」
先生の声で、美月は顔を上げた。
「……」
「なんとなく、思考は読めるよ」
先生は、からかうようには笑わなかった。
「職場のこと。院内で顔を合わせること。噂になること。俺の立場と、美月の立場」
美月は、何も言えなかった。
全部、当たっていた。
「それは、ちゃんと守る」
先生の声は、静かだった。
「職場では、今まで通りにする。藤崎先生と綾瀬さん。必要以上に近づかないし、噂になるようなこともしない」
美月は、息を止めた。
「美月が働きにくくなるようなことは、絶対にしない」
その言葉に、胸の奥が少し緩んだ。
「それでも不安なことがあったら、その都度ちゃんと話す。俺が勝手に決めない」
先生は、まっすぐに美月を見ていた。
「美月の仕事も、立場も、ちゃんと大事にしたい」
ずるいのに。
からかうのに。
逃げ道を塞ぐのに。
一番大事なところは、いつもちゃんと守ってくれる。
恋人になりたいと言われているのに。
その先に、ちゃんと自分の仕事がある。
生活がある。
立場がある。
それを壊さないようにすると、先生は言ってくれている。
そのことが、思っていた以上に嬉しかった。
美月は、少しだけ姿勢を正した。
「では、改めまして」
先生が見ている。
美月は小さく息を吸った。
「お付き合い、よろしくお願いします」
言った瞬間、先生の顔が今までで一番自然にほどけた。
「うん。よろしく」
その笑顔を見て、美月は少しだけ胸が熱くなった。
この人は、本当に嬉しそうに笑うのだ。
いつもの完璧な微笑みではなく。
病棟で見せる穏やかな顔でもなく。
藤崎理久自身の顔で。
少し間があって、先生がグラスを持つ。
「じゃあ、恋人記念に」
美月も、少し遅れてグラスを持つ。
「……はい」
グラスが軽く触れた。
小さな音がして、夜景の光が揺れる。
それだけで十分だったはずなのに、先生がふいに言った。
「あと、美月が好きって言ってくれた記念」
美月はすぐに顔を上げた。
「それは忘れてください」
「無理」
「忘れてください」
「絶対覚えておく」
「最低です」
「うん。でも、かなり嬉しい」
その声があまりに素直で、美月は言い返せなくなった。
呆れたように息を吐く。
でも、少しだけ笑ってしまった。
この夜から、二人はようやく恋人になった。
ただし職場では、これまで通り。
藤崎先生と、綾瀬さん。
秘密の仮住まい。
そして、秘密の恋人関係。
その始まりは、思っていたよりずっと甘くて、ずっと厄介で。
そして、少しだけ怖かった。
けれど美月は、首元のネックレスにそっと触れた。
冷たいはずの小さな光は、肌に馴染んで、もう温かかった。
「美月」
先生が呼ぶ。
「何ですか」
「今、ネックレス触った」
「触ってません」
「触ったよ」
「確認です」
「何の?」
「……ちゃんと、現実かどうかの」
言ってから、美月は少しだけ恥ずかしくなった。
先生は静かに笑った。
からかわれるかと思った。
でも、からかわなかった。
「現実だよ」
その声は優しかった。
美月は、目を伏せる。
「……はい」
夜景の光が、グラスに映る。
首元のネックレスが、小さく揺れる。
恋人。
まだ、その言葉は少し落ち着かない。
でも、首元の小さな光は、もう肌に馴染んでいる。
それが怖くて。
それでも、嬉しかった。