光の中で〜あなたの隣に立つ日まで〜

第30話 女ホイホイ

恋人になった。

そう言葉にしてしまえば簡単なのに、翌週の院内では何も変わらなかった。

藤崎先生と、綾瀬さん。

約束通り、必要以上に近づかない。

私語もしない。

仕事中は、仕事の顔をする。

それでよかった。

仕事中は、その線がある方が落ち着く。

先生もそれを分かっているから、院内では何も変えなかった。

だから美月も、何も変えなかった。

電子カルテを開く。

処置を確認する。

患者の訴えを聞く。

ナースコールに対応する。

そこに恋人という言葉は持ち込まない。

持ち込む必要もない。

けれど、廊下の向こうで白衣姿の先生を見かけた時だけ、ふと事実が浮かぶ。

あの人が、自分の恋人。

それは仕事の邪魔をするほどのものではない。

ただ、まだ少しだけ現実味のない事実として、胸の奥に置かれている。

そんな一週間が過ぎた土曜の朝。

先生は「少し先に出る」と言って、車を取りに行ってしまった。

今も美月は、避難の延長で先生の家にいる。

同じ家から出るのだから、一緒に向かえばいい。

そう思わなかったわけではない。

けれど、しばらくして先生からメッセージが届いた。

十時半。

駅のロータリー。

待ち合わせ場所だけが、短く送られてきていた。

恋人らしく待ち合わせをしたいのか。

それとも、何か企んでいるのか。

たぶん、両方だ。

指定された時間にロータリーへ向かうと、黒い車の前に先生が立っていた。

黒い車は、派手ではないのに、一目で高そうだと分かる車だった。

白いシャツに、ネイビーのジャケット。

休日らしい服装なのに、相変わらず隙がない。

ただ立っているだけなのに、妙に絵になる。

美月は一瞬、見なかったことにしたくなった。

何これ。

普通に駅前で待っているだけなのに、なぜこんなに映画のワンシーンみたいになるのか。

先生がこちらに気づいて、少し笑った。

「おはよう」

美月は近づきながら、できるだけ普通の顔を作った。

「おはようございます」

先生の目が少し細くなる。

「病院の外で先生って呼ばれるのも距離あるけど、おはようございますもなかなかだね」

「朝なので」

「理由になってる?」

「善処します」

先生は楽しそうに笑った。

「今日はそれでいいよ」

美月は車を見た。

「……これ、先生の車ですか」

「うん」

「そうですか」

「引いた?」

「少し」

「正直だね」

「褒められても困ります」

先生は助手席のドアを開けた。

「どうぞ」

その仕草があまりにも自然で、美月は少しだけ警戒しながら乗り込んだ。

車内は静かで、ほのかに清潔な香りがした。

先生が運転席に乗り込み、車を発進させる。

運転する横顔まで絵になるのだから、本当に困る。

美月は、窓の外へ視線を逃がした。

高速に乗ると、景色が流れる速度が変わる。

休日の午前。

隣には先生。

目的地は横浜。

デート。

そう思った瞬間だけ、胸の奥が少し落ち着かなくなった。

「今日は、ただ歩くだけだから」

先生が前を向いたまま言った。

「赤レンガですか?」

「うん。雑貨とか、好きそうだから」

「なぜ分かるんですか」

「見てれば分かるよ」

美月は一瞬黙った。

そんなところまで見ているのか。

「……見すぎです」

「好きな人だからね」

美月は窓の外を向いた。

こういうことを、当たり前みたいに言う。

本当に、なんつー男。

少し間があって、先生が言った。

「車を回すついでに、少し待ち合わせっぽくしたかった」

美月は、窓の外を向いたまま固まった。

「……それは」

「恋人っぽいでしょ」

その言い方が、少しだけ照れているように聞こえた。

美月は答えに困った。

企んでいるのかと思った。

実際、少しは企んでいたのだろう。

でも、それだけではなかった。

先生も、恋人らしいことを少しずつ試している。

そう思ったら、胸の奥が妙にくすぐったくなった。

「……そうかもしれませんね」

小さく答えると、先生が少しだけ笑った気配がした。

横浜に着くと、赤レンガ倉庫の周りは休日らしい賑わいだった。

家族連れ。

カップル。

観光客。

海風に髪を押さえながら歩く人たち。

先生は車を停め、自然に助手席側へ回ってきた。

ドアを開けられる前に、美月は慌てて自分で開けた。

「できます」

「知ってる」

「じゃあ、しないでください」

「したかった」

「……そういうところです」

「どういうところ?」

「人を落ち着かなくさせるところです」

先生は少しだけ嬉しそうに笑った。

「それは悪くないね」

「悪いです」

車を降りて歩き出すと、先生の視線が美月の首元に落ちた。

美月は反射的にそこを押さえる。

今日は、表参道で先生が選んだネックレスをつけてきていた。

仕事では無理。

毎回も無理。

そう思っていたのに、休日に出かけるとなると、なぜか手に取ってしまった。

「今日、つけてくれたんだ」

「……休日なので」

「うん」

先生は少しだけ笑った。

「似合ってる」

「それは、もう聞きました」

「今日も言いたかった」

美月は返事をせず、少しだけ歩く速度を上げた。

赤レンガ倉庫の中に入ると、先生は本当に雑貨を見るつもりらしかった。

小さなガラスの置物。

アロマ。

陶器の器。

海を思わせる青い小物。

美月は、思っていたよりも楽しくなってしまった。

「これ、可愛い」

小さく呟いた瞬間、先生が隣で笑った。

「やっぱり好きだと思った」

「別に、買うとは言ってません」

「部屋に置く?」

「どこの部屋にですか」

「リビングとか」

「先生の家基準にしないでください」

「今、美月もいるでしょ」

「避難です」

「まだ?」

「……継続観察です」

先生は楽しそうに笑った。

こういう時間は、不思議だった。

病院でもなく。

先生の家でもなく。

ただ、二人で雑貨を見ている。

普通の恋人みたいだ。

そう思って、美月は慌てて別の棚を見た。

まだ、その言葉に慣れていない。

恋人。

その言葉は、先生の隣で歩くと、急に現実味を持つ。

雑貨店を出て、通路を歩いていると、美月は周囲の視線に気づいた。

正確には、先生に向けられる視線に。

通り過ぎる女性が、ちらりと先生を見る。

店員が、少し声のトーンを上げる。

カップルで歩いている女性まで、一瞬だけ先生を見て、それから隣の男性に話しかける。

あぁ。

この人は、どこにいても目立つのだ。

病院の中だけではない。

白衣を着ていなくても。

藤崎先生という肩書きがなくても。

ただそこにいるだけで、人の目を引く。

そういう人なのだ。

美月は、少しだけ歩く距離を調整した。

近づきすぎず、離れすぎず。

偶然一緒にいるようにも見える距離。

でも、完全な他人には見えない距離。

面倒くさい。

自分でそう思った。

先生はそれに気づいているのかいないのか、穏やかに歩いている。

たぶん、気づいている。

この人が気づいていないわけがない。

「美月?」

「何ですか」

「ぼーっとしてた」

「してません」

そう返したけれど、少しだけ声が硬くなった気がした。

自分でも分かる。

これは嫉妬なのか。

いや、違う。

先生が見られるのは当然だ。

白衣を着ていなくても、この人は目立つ。

そこに腹が立っているわけではない。

ただ、少し面白くない。

あの人たちが見ているのは、綺麗で、余裕があって、外側の整った藤崎理久だけだ。

中身は結構面倒な男なのに。

からかうし、ずるいし、意外と子どもっぽい。

そういうところを知らないくせに。

そう思ってしまった自分に、美月は少しだけ驚いた。

これは、何だろう。

独占欲とは違う気がする。

でも、面白くない。

確かに、面白くない。

「お手洗い、行ってきます」

美月はそう言って、少し離れた。

女子トイレは思ったより混んでいた。

ようやく戻ると、少し先に先生が見えた。

そして、その横に女性が二人立っていた。

道を聞いているようだった。

先生は、いつもの顔で応対している。

感じよく。

でも、入りすぎず。

距離を保って。

それは分かる。

分かるけれど、近づけなかった。

美月は足を止めた。

このまま行けば、先生の隣に立つことになる。

恋人です、という顔になる。

それはまだできない。

病院関係者がいるわけではない。

でも、外で先生の隣に自然に立つことに、まだ慣れていない。

美月は少し離れた場所で、スマホを取り出した。

見ていないふり。

完全に見ているのに。

画面には何も入ってこなかった。

やっぱり先生はモテる。

それはもう、仕方のないことだ。

仕方ない。

仕方ないけれど。

面白くない。

しばらくして、先生が女性たちに軽く会釈し、こちらへ歩いてきた。

美月はスマホの画面を見たまま、気づいていないふりをした。

「美月」

呼ばれて、ようやく顔を上げる。

「待たせた?」

「私が待たせたんです。お手洗い、混んでたので」

「うん」

先生の目が、少しだけ細くなる。

「戻ってきてたのは、見えたけど」

美月は言葉に詰まった。

気づいていた。

やっぱり、この人は気づいていた。

美月は思わず、さっき女性たちがいた方をちらりと見た。

「……相変わらずですね」

先生が少し笑う。

「道を聞かれただけだよ」

「聞きやすいんでしょうね」

「そう?」

「そうです」

「感じよさそうに見えるから?」

「自覚があるんですね」

「少しは」

美月は黙った。

先生は、美月の顔を少し覗き込むように見た。

「もしかして、面白くなかった?」

「別に」

「別に、の顔じゃないけど」

「普通です」

「普通でもないかな」

腹立たしい。

こういう時だけ、観察眼を発揮しないでほしい。

先生は少しだけ笑って、軽い声で言った。

「モテてごめんね」

美月は固まった。

開き直ってる。

開き直ってる、この人。

なんだか嫌な感じ。

美月は返事をせず、先に歩き出した。

「美月」

後ろから楽しそうな声が追ってくる。

「妬いてくれてるんだね」

美月はすぐに振り向いた。

「妬いてないですよ」

「うん」

「本当に妬いてないです」

「そういうことにしておくね」

美月は目を細めた。

「……その言い方、絶対に納得していませんよね」

「してないけど、今日は深追いしない」

「いつもそうしてください」

「それは善処します」

「私の言葉を使わないでください」

先生は笑った。

それがまた、腹立たしい。

少し歩いたところで、美月は小さくぼそっと言った。

「……女ホイホイ」

先生が一瞬黙った。

それから、すぐ隣に並んできて、楽しそうに覗き込む。

「じゃあ、美月も引っかかった?」

美月は足を止めた。

「私は対象外です」

「今、隣にいるのに?」

「不可抗力です」

「便利だね、その言葉」

「先生相手には便利なんです」

「じゃあ、俺は?」

「何がですか」

「美月にとって、俺は不可抗力?」

美月は言葉に詰まった。

そんな聞き方はずるい。

不可抗力。

たしかに、最初はそうだったのかもしれない。

火事。

避難。

同居。

雷。

合鍵。

珈琲。

ネックレス。

気づけば、いろいろなものに押されるようにして、ここまで来ていた。

でも、今ここにいるのは、もう不可抗力だけではない。

レストランで好きだと言ったのは、自分だ。

付き合うと決めたのも、自分だ。

今日、ここに来たのも。

たぶん、自分で選んだ。

「……最初は」

美月は小さく言った。

「最初は、不可抗力だったかもしれません」

先生は何も言わなかった。

ただ、美月を見ている。

「でも、今は」

言いかけて、美月は視線を逸らした。

全部言うのは、まだ少し恥ずかしい。

「……不可抗力だけでは、ないです」

先生の表情が、少しだけ柔らかくなった。

「そっか」

「それ以上、聞かないでください」

「うん。今日は聞かない」

「今日は、ですか」

「いつか聞く」

「……そういうところです」

先生は笑った。

けれど、その笑い方は、さっきより少しだけ優しかった。

赤レンガ倉庫の外へ出ると、海風が強かった。

広場には人が多い。

恋人たちが手を繋いで歩いている。

家族連れが写真を撮っている。

観光客が楽しそうに通り過ぎる。

その中で、美月と先生は、まだ少し距離を空けて歩いていた。

さっきの女性たちのことが、まだ少しだけ胸に残っている。

見られるのが嫌なわけではない。

先生が誰かに親切にするのが嫌なわけでもない。

でも、自分が隣に行けなかったことが、少しだけ悔しかった。

恋人なのに。

自分でそう決めたのに。

まだ、その場所に立つことに慣れていない。

先生が足を止めた。

「美月」

「何ですか」

「手、繋いでいい?」

美月は周囲を見た。

人は多い。

見られるかもしれない。

病院関係者が、絶対にいないとは言い切れない。

でも。

さっき近づけなかった自分が、少しだけ嫌だった。

離れて待つしかなかったことが、少しだけ面白くなかった。

先生の隣に立つことを、自分で避けたことが、少しだけ悔しかった。

美月は小さく息を吐いた。

「……少しだけです」

先生が手を差し出す。

美月は、その手を取った。

先生はからかわなかった。

ただ、嬉しそうに指を絡めた。

その静かな反応に、美月の胸が少し熱くなる。

手を繋いだだけ。

それだけなのに、さっきまで曖昧だった距離が、少しだけ形を持った気がした。

「先生」

「ん?」

「少しだけですから」

「うん」

「人が多いところだけです」

「うん」

「深い意味はありません」

先生が、少しだけ笑った。

「分かった」

本当に分かっているのかは怪しい。

けれど、先生はそれ以上何も言わなかった。

からかわない。

急かさない。

ただ、美月の歩幅に合わせて歩く。

そのことが、かえってずるい。

海風が、二人の間を通り抜ける。

繋いだ手は、思っていたより温かかった。

美月は前を向いたまま、ほんの少しだけ指先に力を込めた。

先生は何も言わなかった。

ただ、同じように少しだけ握り返してくる。

それだけで、十分だった。

女ホイホイ。

そう言ってしまったことを、美月は少しだけ後悔した。

けれど、否定しきれない自分もいる。

たくさんの人が振り返る、この人に。

自分も、たぶん引っかかった。

でも、ただ引っかかっただけではない。

この人の綺麗な外側だけではなく。

面倒で、意地悪で、少し子どもっぽくて。

それでも、ちゃんと自分を見てくれるところに。

気づいたら、逃げられなくなっていた。

それでも。

今、繋いだこの手は、誰かに捕まえられたものではない。

美月が、自分で取った手だった。

赤レンガの広場を、二人はゆっくり歩いていく。

少しだけ。

そう言ったはずの手は、まだ離せないままだった。
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