光の中で〜あなたの隣に立つ日まで〜

第31話 赤レンガの距離

美月の手は、思っていたより少し冷たかった。

海風のせいかもしれない。

緊張しているせいかもしれない。

それとも、外で恋人として手を繋ぐことに、まだ慣れていないせいかもしれない。

理久は、絡めた指にほんの少しだけ力を込めた。

強くはしない。

引っ張らない。

逃げられないようにする必要はない。

ただ、ここにいると分かるくらいに。

隣を見ると、美月は前を向いたまま歩いていた。

顔は少し赤い。

けれど、手は離さない。

少しだけです。

人が多いところだけです。

深い意味はありません。

そう言い訳を重ねていたくせに、繋いだ手はそのままだった。

からかいたくなる。

今、ものすごく。

でも、今日はやめておいた。

美月が自分で取った手だったから。

赤レンガの広場には、人が多かった。

家族連れ。

観光客。

手を繋いで歩く恋人たち。

写真を撮る人。

海の方へ向かう人。

その中を、美月と並んで歩く。

繋いだ手は、最初より少しだけ自然になっていた。

理久は、さっきのことを思い出していた。

美月がトイレから戻ってきた時、彼女は近づいてこなかった。

少し離れた場所でスマホを見るふりをして、こちらを見ていた。

画面なんて、たぶん何も見ていなかったと思う。

そのくせ、こちらが戻ると何でもない顔をしようとした。

相変わらずですね。

そう言った声には、ほんの少しだけ棘があった。

妬いている、というほど素直ではない。

怒っている、というほど強くもない。

ただ、少し面白くない。

そのくらいの感情を、本人だけが必死に隠そうとしていた。

美月らしいと思った。

恋人になったからといって、急に当然のように隣に立つ人ではない。

自分の場所だと主張する人でもない。

でも、完全に平気な顔もできない。

近づかない。

けれど、離れきるわけでもない。

線を引く。

でも、その線の向こう側から、ちゃんと見ている。

分かりにくいようで、分かりやすい。

美月の気持ちは、いつも少し遅れて表に出る。

言葉ではなく、視線や沈黙や、ほんの少し硬くなる声に出る。

理久は、それを見落としたくなかった。

女ホイホイ。

美月はそう言った。

ひどい言い方だと思う。

でも、少しだけ嬉しかった。

見られることには慣れている。

声をかけられることも、特別なことではない。

それ自体に、もう大した感情は動かない。

けれど、美月がそれを面白くないと思ってくれたことは、少し違った。

もちろん、嫉妬してほしいわけではない。

不安にさせたいわけでもない。

それでも、美月の中に自分がちゃんといるのだと分かるのは、どうしようもなく嬉しかった。

隣を見る。

美月の首元には、表参道で選んだネックレスが小さく光っていた。

飼い猫に首輪。

そう言ったら、予想通り怒られた。

あれは、言い方が悪かった。

悪かったけれど、似合っていると思ったのは本当だった。

今日、美月はそれをつけてきた。

仕事では着けられないだろうし、毎回着けるものでもない。

それでも、休日に出かける今日、それを着けることを美月が選んだ。

そのことに気づいた時、理久は少し浮かれた。

たぶん、かなり。

顔には出していないつもりだった。

でも、美月には少し伝わっていたかもしれない。

美月は、自分に向けられる視線には鈍いくせに、こちらの変化には妙に鋭い。

「先生」

ふいに、美月が言った。

「何?」

「見すぎです」

理久は少し笑った。

「ばれた?」

「ばれます」

「似合ってるから」

美月はすぐに視線を逸らした。

「……それは、もう聞きました」

「今日も言いたかった」

「毎回言うつもりですか」

「たぶん」

「その“たぶん”は信用できません」

「じゃあ、言う」

美月は黙った。

耳が少し赤くなっている。

その横顔を見ていると、また余計なことを言いたくなる。

けれど、やっぱり今日は少しだけ我慢した。

からかうのは楽しい。

美月が困る顔は、かなり好きだ。

でも、今はそれだけにしたくなかった。

美月は、まだ自分の気持ちの置き場所を探している。

病院では藤崎先生と綾瀬さん。

外では恋人。

家では、まだ仮住まいの延長。

そのどれもが本当で、そのどれもが少し不安定だ。

理久は、それを急かしたくなかった。

急かしたい気持ちなら、ある。

理久と呼んでほしい。

隣に立ってほしい。

手も、できれば離したくない。

でも、それを理久が奪うように決めてしまったら、意味がない。

美月は、誰かのものになるために隣にいる人ではない。

仕事をして。

患者を見て。

必要なことは医師にも言って。

自分で考えて、自分で線を引いて、自分で選ぶ人だ。

その人が、自分でこちらに来てくれる。

それがいい。

美月が美月のまま、隣にいること。

その距離を、大切にしたいと思った。

「美月」

「何ですか」

「今日、来てくれてありがとう」

美月が、少しだけこちらを見る。

「急に何ですか」

「言いたくなった」

「先生らしくないです」

「そう?」

「少し」

理久は笑った。

「じゃあ、今日は少しだけそういう日」

美月は何か言いたそうにした。

けれど、結局何も言わなかった。

その代わり、繋いだ手にほんの少しだけ力が入った。

理久は、それで十分だった。

言葉より分かりやすい時がある。

美月は、言葉にするのが苦手だ。

でも、手は離さなかった。

それが、今日の答えだった。

赤レンガの広場を抜ける頃、繋いだ手はまだそのままだった。

少しだけ。

そう言ったのは美月だった。

けれど、その少しだけは、思っていたより長く続いている。

理久は、その温度を覚えておこうと思った。

外で恋人として歩いた、最初の休日。

美月が少しだけ嫉妬して。

それを必死に隠して。

それでも最後には、自分で手を取ってくれた日。

離したくないと思った。

けれど、強く握ることとは違う。

捕まえることとも違う。

美月が自分で取ってくれたこの手を、ちゃんと受け取ること。

急かさずに。

からかいすぎずに。

美月が逃げないくらいに。

でも、ちゃんと隣にいると分かるくらいに。

海風が、二人の間を通り抜けた。

理久は、絡めた指をほんの少しだけ握り返す。

美月は何も言わなかった。

けれど、その手は離れなかった。
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