光の中で〜あなたの隣に立つ日まで〜
第32話 屋形船と触れるなよ
屋形船の中は、思っていたよりも賑やかだった。
座敷席には料理が並び、窓の外では夜の水面が揺れている。
少し遠くに見える街の灯りが、水に滲んでいた。
病棟スタッフに、普段関わりのある医師たちも交じった親睦会。
少し気を遣う飲み会だった。
美月は端の席で、烏龍茶のグラスを持っていた。
こういう場では、飲みすぎない。
場を壊さない程度には笑う。
必要な会話はする。
でも、線は越えない。
それは昔からの習慣だった。
特に今日は、理久もいる。
いや。
ここでは、藤崎先生だ。
少し離れた席で、桐谷や他の医師たちと話している。
病院の外でも、職場関係者がいれば、理久は藤崎先生だった。
穏やかで、品があって、余裕がある。
誰に話しかけられても、ちょうどいい距離で返す。
笑う。
聞く。
流す。
踏み込みすぎない。
そのすべてが自然で、周囲には完璧に見える。
美月は、あまり見ないようにしていた。
見てしまうと、目が合うかもしれない。
目が合ったら、何かが出てしまうかもしれない。
だから、見ない。
見るとしても、偶然。
見えてしまっただけ。
そういうことにする。
病院の人たちがいる場所では、藤崎先生と綾瀬さん。
それは、もう決めたことだった。
それでも、少し離れたところで藤崎先生として振る舞う理久を見ると、不思議な感覚になる。
自分だけが、別の顔を知っている。
その事実だけが、胸の奥で静かに存在していた。
「綾瀬、顔が仕事中」
隣から及川が言った。
美月はグラスを置く。
「通常運転です」
「屋形船で通常運転すんなよ」
「こういう場こそ通常運転が大事です」
「出た。真面目」
及川は呆れたように笑った。
及川颯真。
今は外科レジデントとして病院に戻ってきているが、10Aの人たちにとっては、昔から知っている後輩医師でもある。
研修医時代から、先輩たちに可愛がられ、叱られても最後には笑わせてしまうような人だった。
美月にも昔から遠慮がなかった。
必要以上に踏み込むようでいて、ぎりぎりのところでは踏み込みすぎない。
だから今でも、及川相手だと少しだけ雑になる。
同僚というより、戦友に近い。
病棟の人たちも、その距離感を知っていた。
「おー、また綾瀬さんと及川先生がセットになってる」
向かいの席から、先輩看護師が笑いながら言った。
「懐かしいね。研修医時代からその感じ」
「及川先生、昔から綾瀬さんに強かったもんね」
「いや、俺が強いんじゃなくて、綾瀬が強すぎたんですよ」
及川がすぐに乗る。
「俺、何回オーダー確認で刺されたか」
「刺してません」
美月は即答した。
「刺してた。言葉で」
「必要な確認です」
「ほら、この感じ」
周囲が笑う。
美月はため息をついた。
本当に面倒くさい。
でも、こういうからかいは、病棟の中では昔からあるものだった。
本気ではない。
分かっている。
及川も、調子に乗っているだけだ。
分かっている。
だから美月は、いつも通り流そうとした。
「でもさ、及川先生って、10Aに馴染むの早かったよね」
別の先輩が言った。
「それは綾瀬さんのおかげじゃない?」
「え、そうなんですか?」
後輩看護師が興味を示す。
美月は嫌な予感がした。
及川が、ここぞとばかりに胸を張る。
「まあ、俺が10Aに馴染めたのは、綾瀬のおかげでもあるんで」
「何それ」
美月は眉を寄せた。
「同期愛?」
「違います」
「戦友愛?」
「それならまだ」
「お、許可出た」
また周囲が笑う。
及川は、場の空気に合わせるのがうまい。
病棟の先輩たちも、そういう及川をよく知っている。
だから、多少の悪ノリも笑いになる。
その流れの中で、及川がいつもの調子で、軽く美月の肩へ手を置こうとした。
本当に、深い意味はなかったのだと思う。
昔からの距離感。
場に合わせた悪ノリ。
周りに茶化された延長。
美月も、一瞬だけ眉を寄せただけだった。
けれど、その手が美月の肩に触れる前に。
低い声が落ちた。
「触れるなよ」
空気が止まった。
美月の指先が、グラスに触れたまま固まる。
声の方を見る。
理久だった。
少し離れた席から、こちらを見ている。
表情は、大きく崩れていない。
けれど、目が違った。
病棟で見る藤崎先生の目ではない。
誰にでも穏やかな、余裕のある外科医の目でもない。
静かで、冷たい。
その視線は、まっすぐ及川に向いていた。
及川の手は、美月の肩に触れる手前で止まっている。
一瞬だけ、船の中の笑い声が遠のいた。
まずい。
美月は思った。
これは、まずい。
理久の言葉自体はおかしくない。
酔った場の悪ノリで女性に触れようとするのを、立場が上の医師が止める。
それは、むしろ正しい。
でも、声の温度が違った。
ただの注意ではない。
もっと個人的なものが、一瞬だけ混じった。
美月は、顔には出さなかった。
通常運転。
そう自分に言い聞かせる。
ここで焦ったら終わる。
及川も、場に合わせるようにすぐ手を引いた。
「すみません、調子乗りました」
軽い声。
でも、いつもの軽さより少しだけ硬い。
そこへ、桐谷がすぐに入った。
「及川、後輩の悪ノリは藤崎が止めるしかないだろ」
わざと明るい声だった。
「さすが藤崎。王子はこういうところも抜かりない」
その一言で、止まりかけた空気がまた動き出す。
「確かに」
「藤崎先生、さすが」
「及川先生、王子に怒られてる」
「やっぱり王子はナイトですね」
笑いが戻る。
理久は、すぐにいつもの顔に戻った。
穏やかで、少し困ったような微笑み。
「酔った場でも、そういうのは良くないから」
声も、もう普段の藤崎先生だった。
周囲は、それで納得した。
後輩医師の悪ノリを、立場が上の藤崎先生が止めた。
藤崎先生が女性を守った。
桐谷がうまく流した。
それだけの話になった。
美月も、何事もなかったようにグラスを持ち直した。
「及川くん、そういうところです」
「はい、すみません」
「反省してください」
「反省します」
周囲がまた笑う。
及川も笑った。
美月も、軽く流した。
場は戻った。
けれど、及川だけは気づいたように見えた。
あの一瞬の理久の目。
普段の藤崎先生からは想像できない目だった。
後輩医師の悪ノリを止める、立場が上の医師の目ではない。
少なくとも、美月にはそう見えた。
触るな、ではなく。
触れるなよ。
その言い方に混じったものを、及川はたぶん聞き逃さなかった。
美月も、それに気づいた。
及川が気づいてしまったことに。
美月は烏龍茶を一口飲んだ。
冷たいはずなのに、喉が乾いている気がした。
理久はもうこちらを見ていない。
桐谷と話している。
いつもの藤崎先生の顔で。
けれど、美月には分かっていた。
あれは、戻した顔だ。
一度出てしまったものを、すぐにしまった顔。
そして及川も、たぶん分かってしまった。
そのことだけが、少しだけ胸に残った。
その後、屋形船の会は何事もなかったように続いた。
病棟の先輩たちは、研修医時代の及川の失敗談で盛り上がり、医師たちは桐谷に突っ込まれ、看護師たちは料理や景色の話で笑っていた。
及川も、いつもの調子に戻った。
戻ったように見えた。
けれど、美月には分かる。
及川は時々、理久の方を見ていた。
探るような目ではない。
でも、何かを確認するような目だった。
美月はできるだけ普通に過ごした。
笑うところでは笑い、返すところでは返す。
理久の方は見ない。
及川の視線にも気づかないふりをする。
やがて会が終わり、船を降りる頃には、夜風が少し冷たくなっていた。
川沿いの灯りが揺れている。
参加者たちは駅へ向かう組、二次会へ行く組、タクシーを拾う組に分かれていった。
「綾瀬」
後ろから及川に声をかけられた。
美月は振り向く。
「何?」
及川は、いつもの軽い顔に戻りきれていなかった。
少しだけ気まずそうに、頭をかく。
「さっきの、悪かった」
「肩の?」
「うん。場に乗った。調子乗った」
「触られてないし」
「触る前に止められたからな」
及川は、少し苦笑した。
「でも、触ろうとしたのは事実だから。ごめん」
意外と真面目な謝り方だった。
美月は小さく息を吐いた。
「分かった。もういいよ」
「怒ってない?」
「怒ってない」
「ほんとに?」
「しつこい」
及川は一瞬だけ黙り、それから少し笑った。
「怒ってないならいい」
美月は何も言わなかった。
及川は、そこで終わらせようとしたようにも見えた。
けれど、少しだけ間を置いてから、声を落とした。
「綾瀬」
「何」
「もしかして、綾瀬と藤崎先生って……」
そこで、及川は言葉を止めた。
最後までは言わなかった。
付き合ってるのか、と聞くこともできた。
でも、聞かなかった。
美月は及川を見た。
表情は変えなかった。
肯定もしない。
否定もしない。
ただ、黙って及川を見ていた。
その沈黙だけで、十分だった。
及川は、それ以上踏み込まなかった。
「……いや、何でもない」
軽く笑う。
でも、その笑いはいつもより少しだけ控えめだった。
美月も何も言わなかった。
言えなかったのではない。
言わなかった。
及川は、たぶん気づいた。
けれど、それ以上は踏み込まなかった。
軽く見えるし、余計なことも言う。
それでも、本当に触れられたくないところには踏み込まない。
そういう男だということを、美月は知っていた。
及川は、少し遠くを見るようにして言った。
「俺、刺されるかな?」
美月は一拍置いて答えた。
「……刺されるわけないでしょ」
「いや、一旦刺された気分」
「ご愁傷様です」
「冷たいな」
「通常運転です」
及川は苦笑した。
その会話で、少しだけ空気が戻った。
及川はそれ以上、藤崎先生の話をしなかった。
何を聞くこともない。
誰にも言わないとも言わない。
守るとも言わない。
けれど、それで十分だった。
及川が何も言わないこと。
それ自体が、返事だった。
その時、少し離れた場所で声が上がった。
「二次会どうする?」
「近くに店あるらしいよ」
「綾瀬さんも行く?」
看護師の一人に声をかけられた。
美月はすぐに断ろうとした。
明日も勤務がある。
それで十分だった。
でも、二次会に行かない理由としては少し弱い。
そこで美月は、隣の及川を見た。
及川が嫌な予感を察した顔をする。
美月は、いつもの落ち着いた声で言った。
「私は遠慮しておきます。及川くん、もうすぐ結婚する彼女がいるそうなので、今日はその話を聞いてあげてください」
一瞬、及川が固まった。
「は?」
周囲が一気に反応する。
「え、及川先生、彼女いるの?」
「しかも結婚?」
「初耳!」
「いつから?」
「相手どんな人?」
病棟の先輩たちの目が一斉に及川へ向く。
及川は、美月を見た。
「お前、売りやがったな」
美月は涼しい顔で返す。
「必要な処置です」
「処置って言うな!」
周囲はもう完全に及川へ食いついている。
「及川先生、詳しく」
「二次会で聞こう」
「逃げられないよ」
「いや、ちょっと待ってくださいって」
及川は慌てている。
美月はその隙に、バッグを持った。
「では、私はこれで失礼します」
「綾瀬!」
及川が叫ぶ。
美月は振り返らず、軽く手だけ上げた。
「ご武運を」
「最悪だ!」
及川の声が夜風に流れる。
美月は少しだけ笑いそうになった。
これでいい。
及川は、さっき少し踏み込みかけた。
それは調子に乗っただけだったのかもしれない。
悪気はなかったのかもしれない。
でも、美月にとっては少し危うかった。
理久にとっても、きっとそうだった。
だから、及川には少しだけ犠牲になってもらう。
二次会の話題としては十分すぎる。
及川はきっと文句を言うだろう。
でも、たぶん分かっている。
あれくらいの話題提供で済ませてもらえるなら、安いものだと。
美月は夜風の中を歩き出した。
少し離れたところで、藤崎先生が桐谷と話しているのが見えた。
理久はこちらを見ていない。
見ていないふりをしている。
美月も、声はかけなかった。
病院の人たちがいる場所では、藤崎先生と綾瀬さん。
その約束は変わらない。
けれど今夜、その約束の表面が、ほんの少しだけ揺れた。
理久が一瞬だけ見せた、普段とは違う目。
及川が、それに気づいてしまったこと。
そして、それでも何も聞かなかったこと。
美月は駅へ向かう道で、首元に手をやりかけて、途中で止めた。
今日は職場の親睦会だったから、ネックレスは着けていない。
それでも、そこに小さな光があるような気がした。
秘密はまだ、秘密のまま。
ただ、その輪郭を、誰かが一瞬だけ見てしまった夜だった。