光の中で〜あなたの隣に立つ日まで〜

第33話 日本酒の嫉妬

屋形船の親睦会から、数日後。

屋形船の件を、わざわざこちらから持ち出すつもりはなかった。

けれど、桐谷から「少し飲むか」とだけ連絡が来ていた。

呼び出された店は、病院から少し離れた場所にあった。

個室というほどではないが、席ごとに低い仕切りがあり、通路からは奥の席が一部だけ見える造りだった。

店に入った時、奥の席が少し賑やかなのは分かった。

若い看護師らしい声と、医師たちの笑い声。

病院から少し離れているとはいえ、大学病院の職員が使う店は、どうしても限られる。

知った顔がいてもおかしくはない。

理久は一瞬だけ、そちらを見た。

低い仕切りの向こうに、10Aの若い看護師たちと、外科レジデントが数人。

その中に、見慣れた後ろ姿があった。

髪は仕事中より柔らかく下ろされている。

横顔までは、まだはっきり見えない。

美月は、こちらに気づいていなかった。

それでいい。

気づかれない方がいい。

そう思って、理久はすぐに視線を戻した。

病院の外とはいえ、職場関係者のいる場だ。

ここでは、美月は10Aの看護師で、理久は外科の藤崎先生。

少なくとも、周囲にとっては。

少し離れた席で、桐谷が軽く手を上げた。

名前は呼ばなかった。

理久も、声を返さずにそちらへ向かう。

「遅かったな」

席に着くなり、桐谷が小さく言った。

「呼んだの、そっちでしょ」

「呼んだけど、そんな顔で来いとは言ってない」

「どんな顔」

「見なかったことにした顔」

理久は返事をしなかった。

桐谷は、そういう沈黙を見逃さない。

店員が来る。

桐谷がビールを頼んだので、理久も同じものにした。

普段通り。

最初から崩れるつもりはない。

翌日の予定もある。

飲みすぎるつもりもない。

場に合わせて、適度に。

それくらいは、いつもできる。

料理をいくつか頼み、二人はしばらく仕事の話をした。

病棟の患者の状態。

外科へ相談が回っていた症例の経過。

最近、10Aとの連携で出た細かい確認事項。

桐谷は相変わらず口は悪いが、見るところは見ている。

「この前の件、外科の返事、早かったな」

桐谷が小鉢を取りながら言った。

「珍しく褒めるね」

「褒めてるわけじゃない。助かったと言ってる」

「それを褒めてるって言うんじゃないの」

「調子に乗るな」

理久は少し笑った。

ビールを一口飲む。

冷えた苦みは、いつも通りだった。

店の中は適度に騒がしく、低い仕切りの向こうの会話も、はっきり聞こうとしなければただのざわめきに紛れる。

桐谷はビールを置き、奥の席の方へ一瞬だけ視線を流した。

「今日は、あっちも若いのが多いな」

理久は見なかった。

「みたいだね」

「10Aの若い子たちと、外科のレジデントか」

「知ってるの?」

「何人かはな。病棟で顔を見る」

桐谷は淡々と言った。

「及川もいるだろ」

理久はグラスを置いた。

「見えた?」

「見えた。というか、声で分かる」

「うるさいから?」

「うるさいから」

桐谷は少し笑った。

「場を回すのはうまい。余計なことも言うがな」

「半分褒めてる?」

「半分は」

「残り半分は?」

「調子に乗る」

「だろうね」

奥の席から笑い声が聞こえた。

理久は見なかった。

見ないようにした。

けれど、声は届く。

若い看護師の声。

レジデントの笑い声。

その中に、落ち着いた美月の声が混じった。

「それは確認不足です」

少し笑いが起きる。

そこに、及川の声が重なった。

「あー、出た。綾瀬の正論」

「正論ではなく事実です」

「その言い方がもう正論なんだよ」

周囲がまた笑う。

理久はグラスを持つ手を止めた。

及川。

その名前が、胸の奥で少しだけ引っかかる。

屋形船の夜。

触れるなよ。

自分が言ってしまった声。

あの場では、後輩医師の悪ノリを止めた言葉として収まった。

収めた。

桐谷も、空気を戻してくれた。

けれど、及川は気づいた。

たぶん、美月も分かっていた。

それなのに、今も奥の席では、いつもの距離で会話が続いている。

及川は美月を「綾瀬」と呼ぶ。

美月は及川を「及川くん」と呼ぶ。

病棟では、及川先生。

けれど、こういう場では、及川くん。

その切り替えがあることも、理久には分かっている。

分かっているからこそ、面白くなかった。

それは昔からの距離なのだろう。

理久が入り込む前からある距離。

美月が新人だった頃から、少しずつできた距離。

頭では分かっている。

美月は理久の恋人だ。

でも、それだけではない。

10Aの看護師で、後輩の先輩で、及川とは新人時代からの戦友で、病棟の人たちと関係を積み上げてきた人だ。

その全部が美月だ。

分かっている。

分かっているのに。

面白くない。

本当に、自分でも面倒だと思う。

桐谷が、横から理久を見る。

「見るなよ」

「見てない」

「聞いてる顔してる」

「耳は塞げない」

「面倒だな」

「自覚はある」

「あるならまだましだ」

桐谷はビールを飲んだ。

理久もグラスを傾ける。

ビールの苦みは、いつも通りだった。

それなのに、喉の奥に残るものがある。

奥の席から、また及川の声がした。

「だから、すぐ刺すなって」

「刺してません」

「刺してる。新人の時からそのまま」

新人の時。

その言葉に、理久の指が止まった。

桐谷は、その反応を見逃さなかった。

「綾瀬、あれでも丸くなった方だぞ」

理久は、ゆっくり桐谷を見た。

「知ってるの?」

「そりゃ知ってる。俺も、あいつが新人の頃から10Aには出入りしてたからな」

桐谷はグラスを置いた。

「今よりもう少し尖ってた。正しいんだけど、正しすぎる。必要な確認なんだけど、逃げ道がない」

理久は黙って聞いていた。

「及川が刺されたって言うのも、半分は本当だろうな」

「……そう」

「でも、悪い意味じゃない」

桐谷の声は淡々としていた。

「綾瀬は、最初から患者を見る目は良かった。周りに流されないし、必要なことは言う。ただ、不器用だっただけだ」

理久は奥の席を見なかった。

見なかったけれど、美月の声だけは届いている。

「今も不器用だけどな」

桐谷は少し笑った。

その言い方には、昔から知っている人間の距離があった。

理久の知らない時間を、桐谷も知っている。

その事実が、さらに面白くなかった。

料理は進んでいた。

ビールも一杯目ではない。

酔っているというほどではない。

けれど、いつもより、感情が少しだけ近いところにある。

理久はメニューを手に取った。

「日本酒、ある?」

桐谷の眉が動く。

「今から?」

「料理に合いそうだから」

「さっきからそればっかりだな。まだ刺身も来てないぞ」

「来るでしょ」

「その顔で日本酒はやめろ」

「どんな顔」

「嫉妬してる顔」

理久は返事をしなかった。

桐谷はため息をついた。

「一杯だけにしろ」

「分かってる」

「分かってる奴は、その流れで日本酒を追加しない」

それでも理久は、店員を呼んだ。

運ばれてきた日本酒は、透明な器の中で静かに光っていた。

理久はそれを一口飲む。

喉を通る熱が、思ったよりはっきり残った。

ビールのあとだからか。

それとも、今の自分がそういう状態だからか。

分からない。

ただ、熱だけが残った。

桐谷が横目で見る。

「ペース考えろよ」

「分かってる」

「その分かってるが、一番信用できない」

理久はグラスを置いた。

「診断が雑」

「雑で結構」

桐谷の声は、少しだけ低くなった。

「嫉妬するなとは言わない」

理久は顔を上げた。

「ただ、それを綾瀬の職場に持ち込むな」

理久は黙った。

「お前は外科の助教で、あいつは10Aの看護師だ。お前が少しでも特別な顔をすれば、周りはお前じゃなくて綾瀬を見る」

桐谷はグラスを置いた。

「藤崎先生に何かされた、じゃなくて、綾瀬さんが藤崎先生と何かあるらしい、になる」

その言葉は、静かに刺さった。

理久は奥の席を見なかった。

見なくても、美月のいる位置は分かっていた。

「屋形船の時は、まだ及川の悪ノリを止めた側で済んだ。そう見えたからな」

桐谷は続ける。

「でも、次は分からない」

「……分かってる」

「本当に?」

理久は答えなかった。

言えば言うほど、嘘みたいになる気がした。

桐谷は少しだけ息を吐いた。

「お前が本気なのは分かるよ」

理久は、そこで初めて桐谷を見た。

「だから言ってる」

桐谷の声は軽くなかった。

「本気なら、大事にしろ」

理久は、グラスに添えた指を止めた。

「大事にするって、甘やかすことでも、囲い込むことでも、嫉妬した相手から遠ざけることでもないぞ」

桐谷は、奥の席へ一瞬だけ視線を向けた。

「綾瀬には綾瀬の場所がある。先輩として、看護師として、病棟で積み上げてきた場所がある」

理久は黙って聞いていた。

「お前が隣に立つなら、その場所ごと大事にしろ」

日本酒の熱より、その言葉の方が重かった。

「触れるなよ、って言いたくなる気持ちは分かる。でも、その一言で一番困るのは、及川じゃなくて綾瀬だ」

理久は、ゆっくり息を吐いた。

分かっている。

分かっていたはずだった。

けれど、桐谷に言葉にされると、逃げ場がなかった。

及川に嫉妬している。

それだけなら、まだ分かりやすかった。

でも本当は、それだけではない。

及川が美月を「綾瀬」と呼ぶこと。

美月が及川を「及川くん」と呼ぶこと。

後輩たちが美月を頼ること。

看護師たちが、美月の新人時代を知っていること。

桐谷が、美月の尖っていた頃を知っていること。

その全部が、面白くない。

自分が知らない美月を、周囲が当然のように知っている。

そのことに嫉妬している。

本当に、面倒な男だ。

理久はグラスの中の日本酒を見た。

「綾瀬は、お前の恋人なんだろ」

桐谷が言った。

「でも、それだけじゃない。10Aの看護師で、後輩の先輩で、病棟に必要な人間だ」

その言葉は、淡々としていた。

だからこそ、刺さる。

「お前が好きになったのは、そういう綾瀬だろ」

理久は何も言えなかった。

その通りだった。

病棟で、患者の状態を見落とさない美月。

自分に対しても、必要なことは言う美月。

逃げようとしながら、それでも自分で戻ると決めた美月。

好きと言わされて怒りながらも、ちゃんと自分の言葉で向き合った美月。

理久は、そういう美月を好きになった。

誰かの後ろに隠れる人ではない。

誰かの所有物になる人でもない。

自分の足で立っている人だ。

だからこそ、隣にいてほしいと思った。

なのに。

その場所を、自分の感情で揺らしてどうする。

「……分かってる」

今度の声は、さっきより低かった。

桐谷は理久を見る。

「じゃあ、飲むのはここまで」

理久は少しだけ眉を寄せる。

「そこにつながる?」

「つながる」

桐谷は水のグラスを理久の前に押し出した。

「酔った勢いで連絡するな。呼び出すな。会いに行くな。面倒な男になるな」

理久は小さく笑った。

「もうなってる気がする」

「自覚があるなら止まれる」

桐谷は、短く言った。

「水飲め」

理久はしばらく黙っていた。

それから、日本酒ではなく、水のグラスを取った。

冷たい水が喉を通る。

酒の熱が少しだけ薄まった。

奥の席では、まだ会話が続いている。

外科レジデントの一人が何かを言い、若い看護師が笑う。

及川が場をつなぐ。

美月が、後輩に小さく声をかける。

「大丈夫?」

後輩が頷く。

美月はそれを見て、少しだけ表情を緩めた。

その顔を、理久は見てしまった。

病棟の先輩の顔。

後輩を見守る顔。

恋人としての美月とは、違う顔。

でも、それも美月だった。

理久の知らない時間の中で、美月が積み上げてきた顔だった。

理久は、水のグラスを置いた。

「……悔しいな」

桐谷が少しだけ目を細める。

「何が」

「俺の知らない綾瀬さんを、みんな普通に知ってる」

言ってから、理久は自分で少し笑った。

美月、と呼びたい相手のはずなのに。

今、奥の席にいるのは、病棟の中で時間を積み上げてきた綾瀬さんだった。

桐谷は笑わなかった。

「そりゃそうだろ」

「もう少し慰めるとかないの」

「ない」

桐谷はあっさり言った。

「あいつは、お前に会う前からあそこで働いてる。お前の知らない時間があるのは当たり前だ」

「分かってる」

「その当たり前に嫉妬するくらい本気なら」

桐谷は少しだけ声を落とした。

「これから知ればいい」

理久は黙った。

「ただし、綾瀬の場所を壊さない形でな」

その言葉で、結局そこに戻る。

でも、戻るべきところはそこなのだと思った。

美月を知りたい。

もっと近づきたい。

自分だけに見せる顔を増やしたい。

そう思う。

けれど、そのために美月が立っている場所を壊したら、本末転倒だ。

理久は、もう一度水を飲んだ。

「帰る」

桐谷が少しだけ眉を上げる。

「正解」

「言い方」

「褒めてる」

「褒め方が雑」

「雑でも帰れ」

理久は小さく笑い、会計を済ませるために立ち上がった。

量を飲んだわけではない。

けれど、飲み慣れない日本酒の熱が、思ったより身体に残っている。

たぶん、酒だけのせいではない。

奥の席はまだ賑やかだった。

美月には気づかれない。

その方がいい。

今日ここに来たことも、できれば知られない方がいい。

理久はそのまま店を出た。

外の空気は冷たかった。

店の中から、まだ笑い声が聞こえる。

その中に、美月の声が混じっているのかもしれない。

理久は、聞き分けようとする自分を止めた。

スマートフォンを出す。

美月の名前を表示しかけて、すぐに閉じた。

連絡しない。

呼び出さない。

気づかせない。

嫉妬したからといって、彼女を巻き込まない。

そう決める。

数分後、タクシーが止まった。

乗り込む直前、桐谷からメッセージが入った。

『水飲め。余計なことするな。
本気なら大事にしろ』

理久はしばらく画面を見ていた。

それから、短く返す。

『分かってる』

送ってから、少しだけ苦笑した。

また言っている。

本当に分かっているのか。

自分でも、少し怪しい。

タクシーが走り出す。

窓の外に、夜の街の灯りが流れていく。

理久は背もたれに身体を預けた。

余裕のある外科医でもない。

王子でもない。

何でもない。

好きな相手に嫉妬して、日本酒を飲みすぎかけた、面倒な男。

それが今夜の自分だった。

「……最悪だな」

小さく呟いた声は、夜の車内に消えた。

それでも、ひとつだけはっきりしている。

美月を大事にしたい。

ただ、好きだと言うだけではなく。

抱きしめたいとか、独占したいとか、隣に置きたいとか。

そういう自分の欲より先に。

美月が美月のまま立っていられる場所を、壊さないこと。

桐谷に言われた言葉が、何度も胸の奥で重く響く。

本気なら、大事にしろ。

理久は目を閉じた。

美月には連絡しない。

今日はこのまま帰って、水を飲んで、寝る。

余計なことはしない。

それが今夜、自分にできる一番ましな選択だった。

そう決めた。

けれど、嫉妬は水を飲めば消えるものではない。

その当たり前を、理久はまだ少し、軽く見ていた。
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