光の中で〜あなたの隣に立つ日まで〜
第34話 酔った理久
美月が理久のマンションに戻ったのは、日付が変わる少し前だった。
外科レジデントたちとの飲み会は、思っていたより長引いた。
後輩たちは楽しそうだった。
それならよかったと思う。
美月は先輩として同席しただけだ。
危なそうなら話を切る。
後輩が困っていたら助ける。
必要なら、及川くんに場を押しつける。
そのつもりでいた。
実際、及川はうまく場を回していた。
軽い。
うるさい。
余計なことも言う。
けれど、屋形船の夜以降、以前のように不用意に距離を詰めることはなかった。
及川なりに線を引いている。
それが分かったから、美月もいつも通りに返した。
いつも通り。
それが一番安全だから。
玄関の鍵を開ける。
室内は静かだった。
けれど、リビングの灯りがついている。
「……先生?」
声をかけると、少し遅れて返事があった。
「おかえり」
美月は一瞬、足を止めた。
おかえり。
その言葉には、まだ少し慣れない。
ここは理久のマンションだ。
美月は避難の延長でここにいる。
恋人にはなった。
でも、ここを自分の家と言い切るには、まだ少し距離がある。
それなのに理久は、自然に言った。
おかえり、と。
美月は靴を脱ぎながら、小さく返した。
「……戻りました」
リビングへ入ると、理久はソファに座っていた。
外出してきたままのシャツ姿だった。
ジャケットは背もたれに掛けられ、首元のボタンがひとつ外れている。
髪も少し乱れていた。
テーブルには、水の入ったグラス。
その横に、スマートフォン。
帰ってから、あまり動いていないように見えた。
理久は、いつものように整っている。
でも、少しだけ違った。
目元がいつもより柔らかい。
声も低い。
近づくと、微かに日本酒の匂いがした。
美月は眉を寄せた。
「飲んできたんですか」
「少し」
「少し、ですか」
「途中で桐谷に止められた」
美月は鞄を置いた。
「桐谷先生と?」
「うん」
「珍しいですね。日本酒」
「桐谷にも言われた」
「でしょうね」
美月はキッチンへ行き、水をもう一杯入れようとした。
その背中に、理久の声が落ちる。
「同じ店にいた」
美月の手が止まった。
「……同じ店に?」
理久は、ソファに座ったまま頷いた。
顔は穏やかだ。
けれど、目が少しだけ違う。
「声をかけてくれればよかったのに」
言ってから、美月はすぐに、違う、と思った。
声をかけられても困った。
後輩もいた。
外科レジデントもいた。
及川もいた。
そこで理久が現れたら、それこそ不自然になる。
理久は小さく笑った。
「困るでしょ」
「……それは、そうですけど」
「だから、声はかけなかった」
その言い方に、少しだけ引っかかった。
穏やかな声なのに、どこか冷えている。
美月は水の入ったグラスを持って戻った。
「水、飲んでください」
「飲んでる」
「追加です」
「看護師だ」
「通常運転です」
理久は受け取って、素直に水を飲んだ。
酔っている。
ひどく酔っているわけではない。
話も通じるし、座り方も崩れていない。
でも、普段より少しだけ感情が表に近い。
美月はソファの少し離れた位置に座った。
「楽しかった?」
理久が聞いた。
「飲み会ですか?」
「うん」
「後輩たちは、楽しそうでした」
「美月は?」
「私は付き添いです」
「及川もいた」
その名前が出た瞬間、美月は理久を見た。
理久はグラスの水面を見ている。
「及川くんは、場を回していただけです」
「知ってる」
「……本当に?」
「知ってるよ」
知っている。
そう言う声が、少し低かった。
美月は、何かを間違えそうな気がした。
このまま触れない方がいい。
そう思ったのに、落ち着かなさをごまかすように、軽く言ってしまった。
「先生こそ、同じ店にいたなら、相変わらず目立っていたでしょうね」
理久が顔を上げる。
「俺が?」
「はい。酔っていても、そういう雰囲気は消えませんし」
「そういう雰囲気?」
「……色気、というか」
言った瞬間、少し後悔した。
でも、止まらなかった。
「先生は、そういうのも慣れていそうなので」
空気が変わった。
本当に、一瞬だった。
理久の目から、いつもの柔らかさが引いた。
怒ったわけではない。
ただ、温度が消えた。
美月は、そこで初めて、自分が何かを踏んだのだと気づいた。
「……先生?」
理久は静かに言った。
「綾瀬さんも、そう見るんだ」
その呼び方に、美月は一瞬、息を止めた。
美月、ではない。
綾瀬さん。
病院で呼ばれる名前。
距離を置かれた時の名前。
理久の声は静かなのに、その静けさの方が怖かった。
「違います」
「顔とか、雰囲気とか、慣れてるとか」
理久は立ち上がらなかった。
けれど、ソファの上で身体の向きを変え、美月の方へ少しだけ距離を詰めた。
「俺も、君にはそう見えるんだ」
「今のは、そういう意味じゃ」
「同じ家にいて」
理久の声が、少し低くなる。
「俺が何もしてないの、分かってるよね」
美月は息を止めた。
その言葉の意味を、考えたくなかった。
考えたくないのに、分かってしまう。
理久は、何もしていない。
本当に、何もしていない。
その事実が、急に別の重さを持った。
理久の片手が、美月の肩の少し後ろ、ソファの背もたれに置かれる。
触れてはいない。
でも、近い。
近すぎる。
逃げられないわけではない。
立とうと思えば、立てる。
それなのに、理久の声と視線が近くて、すぐには動けなかった。
日本酒の匂いが、微かにした。
「分かっています」
「分かってて、そう言うんだ」
理久は笑った。
けれど、それは美月の知っている笑い方ではなかった。
少しだけ投げやりで、少しだけ冷たくて。
知らない男の人みたいだった。
「色気があるって言うなら」
理久の目が、少しだけ冷えた。
「慣れていそうだって、そう思うなら」
低い声が落ちる。
「俺も、君が思う通りの男みたいに振る舞えばいい?」
美月の指先が、ソファの端を掴んだ。
理久は触れていない。
触れていないのに、距離だけが近い。
「綾瀬さんも、そういう目で見てるんでしょ」
「違います」
「じゃあ、どう見てるの」
「先生」
「好きって言ってよ」
その声だけ、少し揺れた。
胸の奥が、ぎゅっと縮む。
怒っているのではない。
煽っている。
でも、それだけではない。
美月は、そこでようやく分かった。
自分は、踏んだのだ。
踏んではいけないところを、軽い言葉で踏んだ。
「先生」
理久は、答えない。
距離が近い。
近すぎる。
このまま少しでも動けば、触れてしまう。
美月は息を吸った。
心臓がうるさい。
でも、ここで流されたら駄目だと思った。
理久が酔っているからではない。
自分が、何も分からないまま、この空気だけに持っていかれそうだったから。
「……勤務」
理久の目が、わずかに動いた。
「……勤務?」
「明日、勤務です」
一瞬、空気が止まった。
理久が瞬きをする。
「……そこで勤務?」
何かおかしなことを言ったのだろうか。
美月は一拍遅れて、自分がこの状況でかなり現実的なことを口にしたのだと気づいた。
一気に恥ずかしくなる。
「……笑うところですか」
「いや、ごめん」
理久は片手で口元を押さえた。
肩が小さく揺れている。
さっきまでの危うい空気が、少しずつほどけていく。
「ごめん、ごめん」
「笑いすぎでは?」
「だって、美月が」
「私が何ですか」
「ほんとに美月だなと思って」
そう言われて、美月は急に気まずくなった。
心臓はまだ速い。
頬も熱い。
拒んだのか。
拒んでいないのか。
色気にやられたのか。
やられていないのか。
自分でも、もうよく分からなかった。
ただ、理久の顔が少しだけ戻ったことに、ほっとしていた。
理久はソファの背から手を離し、少しだけ身体を戻した。
たったそれだけで、息ができるようになる。
美月は視線を落とした。
「嫌な思いをさせたのなら、すみません」
理久の笑いが、少しだけ止まる。
美月は続けた。
「さっきの言い方は、よくありませんでした」
「……俺も悪い」
「はい。今の先生もよくありません」
「そこは否定しないんだ」
「しません」
理久はまた少し笑った。
今度は、さっきよりいつもの理久に近かった。
それから、ゆっくり元の位置へ座り直す。
美月はテーブルの水を理久の方へ押した。
「酔っているなら、お水を飲んで、早く寝てください」
「うん」
「スマートフォンも見ないでください」
「監視されてる」
「酔った人は信用できません」
「本日の評価?」
「はい」
「厳しいな」
「通常運転です」
理久は水を飲んだ。
美月はその姿を見て、少しだけ落ち着く。
立ち上がろうとした、その時だった。
「でも」
理久が言った。
美月は動きを止める。
「明日勤務じゃなかったら、どうなったの?」
美月は固まった。
「そ、それは」
理久の目元が、少し楽しそうに緩む。
「そこは答えないんだ」
「そこは突っ込むところじゃないです」
「うん」
「うん、じゃありません」
「じゃあ、聞かなかったことにする」
「してください」
美月は急いで立ち上がった。
理久がまた笑う。
今度は、いつもの理久にかなり近い笑い方だった。
腹立たしい。
でも、ほっとする。
「おやすみ、美月」
ニコリと笑顔を向けられた。
ずるい。
さっきまであんな空気にしておいて、最後にそんな顔をするなんて、本当にずるい。
美月は、少しだけ目を逸らした。
「……おやすみなさい」
それだけ言って、逃げるようにリビングを出た。
寝室に入ってドアを閉める。
背中をドアにつけた瞬間、心臓の音が一気に大きくなった。
危なかった。
何が危なかったのか、うまく言えない。
理久が何かをすると思ったわけではない。
でも、いつもの理久ではなかった。
美月の知らない理久が、確かにそこにいた。
綺麗で。
危うくて。
こちらの逃げ道を塞ぐことを知っている男の人。
それでも、最後の線は越えない男の人。
美月は、自分の言葉がそこに触れてしまったことを、ようやく実感した。
「……最悪」
小さく呟いて、顔を両手で覆う。
色気があるなどと言うべきではなかった。
慣れていそう、なんて言うべきではなかった。
でも。
色気がないとも、思っていない。
美月は、さらに顔を熱くした。
本当に、最悪だ。
明日が勤務でよかった。
たぶん、本当に。
* * *
リビングに残された理久は、しばらく閉じた扉を見ていた。
それから、ゆっくり息を吐く。
「……敵わないな」
小さく呟いて、額に手を当てた。
美月は、やっぱり今までの誰とも違った。
こちらが作った空気に、都合よく流されない。
酔った男を前にして、勤務を理由に線を引く。
謝るところは謝る。
止めるところは止める。
それなのに最後に、答えは置いていかない。
明日勤務じゃなかったら、どうなったのか。
きっと美月自身にも分かっていない。
そこが、美月だった。
理久は低く笑った。
自嘲もある。
拍子抜けもある。
でも、それ以上に、救われた気がした。
自分は、たぶんかなり危なかった。
美月にまで、顔や雰囲気だけで慣れている男のように見られた気がして。
酔っていた。
だから、普段なら笑って流せたはずの言葉に引っかかった。
勝手に傷ついて。
見せたくない顔で、煽った。
最低だ。
本当は、触れたかった。
もっと近づきたかった。
及川の名前に反応した自分を、美月に分からせたかった。
それでも、美月は止めた。
拒絶ではなく。
説教でもなく。
ただ、まっすぐ線を引いてくれた。
その線に、理久は救われた。
理久は水を飲み干した。
今日はもう、何もしない。
余計なことをしない。
ただ、寝る。
その前に一度だけ、寝室の扉の方を見る。
本当に、敵わない。
美月は、甘やかしてくれない。
流されてもくれない。
都合よく慰めてもくれない。
だから、欲しくなる。
だから、危ない。
だから、ちゃんと止まらないといけない。
理久は空になったグラスをテーブルに置いた。
それが今夜、自分にできる一番ましな選択だった。
外科レジデントたちとの飲み会は、思っていたより長引いた。
後輩たちは楽しそうだった。
それならよかったと思う。
美月は先輩として同席しただけだ。
危なそうなら話を切る。
後輩が困っていたら助ける。
必要なら、及川くんに場を押しつける。
そのつもりでいた。
実際、及川はうまく場を回していた。
軽い。
うるさい。
余計なことも言う。
けれど、屋形船の夜以降、以前のように不用意に距離を詰めることはなかった。
及川なりに線を引いている。
それが分かったから、美月もいつも通りに返した。
いつも通り。
それが一番安全だから。
玄関の鍵を開ける。
室内は静かだった。
けれど、リビングの灯りがついている。
「……先生?」
声をかけると、少し遅れて返事があった。
「おかえり」
美月は一瞬、足を止めた。
おかえり。
その言葉には、まだ少し慣れない。
ここは理久のマンションだ。
美月は避難の延長でここにいる。
恋人にはなった。
でも、ここを自分の家と言い切るには、まだ少し距離がある。
それなのに理久は、自然に言った。
おかえり、と。
美月は靴を脱ぎながら、小さく返した。
「……戻りました」
リビングへ入ると、理久はソファに座っていた。
外出してきたままのシャツ姿だった。
ジャケットは背もたれに掛けられ、首元のボタンがひとつ外れている。
髪も少し乱れていた。
テーブルには、水の入ったグラス。
その横に、スマートフォン。
帰ってから、あまり動いていないように見えた。
理久は、いつものように整っている。
でも、少しだけ違った。
目元がいつもより柔らかい。
声も低い。
近づくと、微かに日本酒の匂いがした。
美月は眉を寄せた。
「飲んできたんですか」
「少し」
「少し、ですか」
「途中で桐谷に止められた」
美月は鞄を置いた。
「桐谷先生と?」
「うん」
「珍しいですね。日本酒」
「桐谷にも言われた」
「でしょうね」
美月はキッチンへ行き、水をもう一杯入れようとした。
その背中に、理久の声が落ちる。
「同じ店にいた」
美月の手が止まった。
「……同じ店に?」
理久は、ソファに座ったまま頷いた。
顔は穏やかだ。
けれど、目が少しだけ違う。
「声をかけてくれればよかったのに」
言ってから、美月はすぐに、違う、と思った。
声をかけられても困った。
後輩もいた。
外科レジデントもいた。
及川もいた。
そこで理久が現れたら、それこそ不自然になる。
理久は小さく笑った。
「困るでしょ」
「……それは、そうですけど」
「だから、声はかけなかった」
その言い方に、少しだけ引っかかった。
穏やかな声なのに、どこか冷えている。
美月は水の入ったグラスを持って戻った。
「水、飲んでください」
「飲んでる」
「追加です」
「看護師だ」
「通常運転です」
理久は受け取って、素直に水を飲んだ。
酔っている。
ひどく酔っているわけではない。
話も通じるし、座り方も崩れていない。
でも、普段より少しだけ感情が表に近い。
美月はソファの少し離れた位置に座った。
「楽しかった?」
理久が聞いた。
「飲み会ですか?」
「うん」
「後輩たちは、楽しそうでした」
「美月は?」
「私は付き添いです」
「及川もいた」
その名前が出た瞬間、美月は理久を見た。
理久はグラスの水面を見ている。
「及川くんは、場を回していただけです」
「知ってる」
「……本当に?」
「知ってるよ」
知っている。
そう言う声が、少し低かった。
美月は、何かを間違えそうな気がした。
このまま触れない方がいい。
そう思ったのに、落ち着かなさをごまかすように、軽く言ってしまった。
「先生こそ、同じ店にいたなら、相変わらず目立っていたでしょうね」
理久が顔を上げる。
「俺が?」
「はい。酔っていても、そういう雰囲気は消えませんし」
「そういう雰囲気?」
「……色気、というか」
言った瞬間、少し後悔した。
でも、止まらなかった。
「先生は、そういうのも慣れていそうなので」
空気が変わった。
本当に、一瞬だった。
理久の目から、いつもの柔らかさが引いた。
怒ったわけではない。
ただ、温度が消えた。
美月は、そこで初めて、自分が何かを踏んだのだと気づいた。
「……先生?」
理久は静かに言った。
「綾瀬さんも、そう見るんだ」
その呼び方に、美月は一瞬、息を止めた。
美月、ではない。
綾瀬さん。
病院で呼ばれる名前。
距離を置かれた時の名前。
理久の声は静かなのに、その静けさの方が怖かった。
「違います」
「顔とか、雰囲気とか、慣れてるとか」
理久は立ち上がらなかった。
けれど、ソファの上で身体の向きを変え、美月の方へ少しだけ距離を詰めた。
「俺も、君にはそう見えるんだ」
「今のは、そういう意味じゃ」
「同じ家にいて」
理久の声が、少し低くなる。
「俺が何もしてないの、分かってるよね」
美月は息を止めた。
その言葉の意味を、考えたくなかった。
考えたくないのに、分かってしまう。
理久は、何もしていない。
本当に、何もしていない。
その事実が、急に別の重さを持った。
理久の片手が、美月の肩の少し後ろ、ソファの背もたれに置かれる。
触れてはいない。
でも、近い。
近すぎる。
逃げられないわけではない。
立とうと思えば、立てる。
それなのに、理久の声と視線が近くて、すぐには動けなかった。
日本酒の匂いが、微かにした。
「分かっています」
「分かってて、そう言うんだ」
理久は笑った。
けれど、それは美月の知っている笑い方ではなかった。
少しだけ投げやりで、少しだけ冷たくて。
知らない男の人みたいだった。
「色気があるって言うなら」
理久の目が、少しだけ冷えた。
「慣れていそうだって、そう思うなら」
低い声が落ちる。
「俺も、君が思う通りの男みたいに振る舞えばいい?」
美月の指先が、ソファの端を掴んだ。
理久は触れていない。
触れていないのに、距離だけが近い。
「綾瀬さんも、そういう目で見てるんでしょ」
「違います」
「じゃあ、どう見てるの」
「先生」
「好きって言ってよ」
その声だけ、少し揺れた。
胸の奥が、ぎゅっと縮む。
怒っているのではない。
煽っている。
でも、それだけではない。
美月は、そこでようやく分かった。
自分は、踏んだのだ。
踏んではいけないところを、軽い言葉で踏んだ。
「先生」
理久は、答えない。
距離が近い。
近すぎる。
このまま少しでも動けば、触れてしまう。
美月は息を吸った。
心臓がうるさい。
でも、ここで流されたら駄目だと思った。
理久が酔っているからではない。
自分が、何も分からないまま、この空気だけに持っていかれそうだったから。
「……勤務」
理久の目が、わずかに動いた。
「……勤務?」
「明日、勤務です」
一瞬、空気が止まった。
理久が瞬きをする。
「……そこで勤務?」
何かおかしなことを言ったのだろうか。
美月は一拍遅れて、自分がこの状況でかなり現実的なことを口にしたのだと気づいた。
一気に恥ずかしくなる。
「……笑うところですか」
「いや、ごめん」
理久は片手で口元を押さえた。
肩が小さく揺れている。
さっきまでの危うい空気が、少しずつほどけていく。
「ごめん、ごめん」
「笑いすぎでは?」
「だって、美月が」
「私が何ですか」
「ほんとに美月だなと思って」
そう言われて、美月は急に気まずくなった。
心臓はまだ速い。
頬も熱い。
拒んだのか。
拒んでいないのか。
色気にやられたのか。
やられていないのか。
自分でも、もうよく分からなかった。
ただ、理久の顔が少しだけ戻ったことに、ほっとしていた。
理久はソファの背から手を離し、少しだけ身体を戻した。
たったそれだけで、息ができるようになる。
美月は視線を落とした。
「嫌な思いをさせたのなら、すみません」
理久の笑いが、少しだけ止まる。
美月は続けた。
「さっきの言い方は、よくありませんでした」
「……俺も悪い」
「はい。今の先生もよくありません」
「そこは否定しないんだ」
「しません」
理久はまた少し笑った。
今度は、さっきよりいつもの理久に近かった。
それから、ゆっくり元の位置へ座り直す。
美月はテーブルの水を理久の方へ押した。
「酔っているなら、お水を飲んで、早く寝てください」
「うん」
「スマートフォンも見ないでください」
「監視されてる」
「酔った人は信用できません」
「本日の評価?」
「はい」
「厳しいな」
「通常運転です」
理久は水を飲んだ。
美月はその姿を見て、少しだけ落ち着く。
立ち上がろうとした、その時だった。
「でも」
理久が言った。
美月は動きを止める。
「明日勤務じゃなかったら、どうなったの?」
美月は固まった。
「そ、それは」
理久の目元が、少し楽しそうに緩む。
「そこは答えないんだ」
「そこは突っ込むところじゃないです」
「うん」
「うん、じゃありません」
「じゃあ、聞かなかったことにする」
「してください」
美月は急いで立ち上がった。
理久がまた笑う。
今度は、いつもの理久にかなり近い笑い方だった。
腹立たしい。
でも、ほっとする。
「おやすみ、美月」
ニコリと笑顔を向けられた。
ずるい。
さっきまであんな空気にしておいて、最後にそんな顔をするなんて、本当にずるい。
美月は、少しだけ目を逸らした。
「……おやすみなさい」
それだけ言って、逃げるようにリビングを出た。
寝室に入ってドアを閉める。
背中をドアにつけた瞬間、心臓の音が一気に大きくなった。
危なかった。
何が危なかったのか、うまく言えない。
理久が何かをすると思ったわけではない。
でも、いつもの理久ではなかった。
美月の知らない理久が、確かにそこにいた。
綺麗で。
危うくて。
こちらの逃げ道を塞ぐことを知っている男の人。
それでも、最後の線は越えない男の人。
美月は、自分の言葉がそこに触れてしまったことを、ようやく実感した。
「……最悪」
小さく呟いて、顔を両手で覆う。
色気があるなどと言うべきではなかった。
慣れていそう、なんて言うべきではなかった。
でも。
色気がないとも、思っていない。
美月は、さらに顔を熱くした。
本当に、最悪だ。
明日が勤務でよかった。
たぶん、本当に。
* * *
リビングに残された理久は、しばらく閉じた扉を見ていた。
それから、ゆっくり息を吐く。
「……敵わないな」
小さく呟いて、額に手を当てた。
美月は、やっぱり今までの誰とも違った。
こちらが作った空気に、都合よく流されない。
酔った男を前にして、勤務を理由に線を引く。
謝るところは謝る。
止めるところは止める。
それなのに最後に、答えは置いていかない。
明日勤務じゃなかったら、どうなったのか。
きっと美月自身にも分かっていない。
そこが、美月だった。
理久は低く笑った。
自嘲もある。
拍子抜けもある。
でも、それ以上に、救われた気がした。
自分は、たぶんかなり危なかった。
美月にまで、顔や雰囲気だけで慣れている男のように見られた気がして。
酔っていた。
だから、普段なら笑って流せたはずの言葉に引っかかった。
勝手に傷ついて。
見せたくない顔で、煽った。
最低だ。
本当は、触れたかった。
もっと近づきたかった。
及川の名前に反応した自分を、美月に分からせたかった。
それでも、美月は止めた。
拒絶ではなく。
説教でもなく。
ただ、まっすぐ線を引いてくれた。
その線に、理久は救われた。
理久は水を飲み干した。
今日はもう、何もしない。
余計なことをしない。
ただ、寝る。
その前に一度だけ、寝室の扉の方を見る。
本当に、敵わない。
美月は、甘やかしてくれない。
流されてもくれない。
都合よく慰めてもくれない。
だから、欲しくなる。
だから、危ない。
だから、ちゃんと止まらないといけない。
理久は空になったグラスをテーブルに置いた。
それが今夜、自分にできる一番ましな選択だった。