死神の旦那様は、花嫁菓子しか食べられない
夕暮れのやわらかな光が、台所の窓から斜めに差し込んでいた。
作業台には重曹、砂糖、そして小皿に注いだ酢が並んでいた。
割烹着を着た小春は、腕を組みながら真剣な顔で唸っていた。
「膨らまし粉と酸……」
薬種屋の主人の言葉を何度も頭の中で反芻する。
「酸っぱいものといえば……お酢、よね」
そう呟きながら小皿の酢を見つめた。料理にも使う身近な酸味だ。
小春は椀に入れた粉糖と重曹に、慎重に酢を数滴落とした。その瞬間、ぷくぷくと白い泡が勢いよく膨らみ、椀の中で弾けた。
「あっ……!」
小春は慌てて蓋を押さえる。しかし発泡は止まらず、炭酸の気配はあっという間に消えていく。台所には酸っぱい匂いだけが残った。
「だめだわ……」
肩を落とし、小春は椀を見つめた。
酸っぱいものなら何でもよいと思った。しかし、お酢は液体だ。重曹と合わせた瞬間に反応してしまい、炭酸を『閉じ込める』ことができない。
(これでは口に入れる前に全部終わってしまう)
水を使わずに『酸』を閉じ込める方法を探さなければならない。
目の前の、酢で湿って発泡の終わった塊を見つめながら、小春は額に指を当て考え込む。
「ずいぶん熱心だな」
低く穏やかな声が背後から落ちてくる。
「ひゃっ」
驚いて振り返ると、仕事から戻った朔夜が台所の入口に立っていた。
「朔夜様……! お帰りなさいませ」
「ああ」
彼は小春の前まで来ると、卓に並ぶ失敗作を見下ろした。
「試作品か」
「はい……。大失敗ですけれど」
小春は気まずそうに笑う。
「味見をしてみよう」
朔夜は自然な動作で小春の隣に立った。
「えっ? 待ってください。美味しい保証はできません!」
「構わない」
朔夜は静かに答える。
「お前が作ったものなら、何であっても食べる」
さらりと言われ、小春の胸がどくりと鳴った。
(そんなこと、平然と言うんだから……)
熱くなる頬を誤魔化すように、小春は慌てて試作品を差し出した。
「……で、では。こちらを」
朔夜は小さな塊をひと摘みし、躊躇いなく口へ放る。
数秒後、ぴしりと彼の表情が固まった。
「…………」
「ど、どうですか?」
朔夜は無言のまま口元を押さえる。
「……まずい」
低く漏れた声に小春は吹き出した。
「ですよね……」
「酢を飲んでいるようだ」
眉間に深い皺を刻み、必死に飲み込もうとする。
「……おかげで目が覚めた」
小春は急いで口直しの水を差し出した。
「すみません、そんな気はしてました」
二人で顔を見合わせた瞬間、堪えきれず笑い声が重なった。
「あははっ」
「ふっ……くくっ」
あの日、初めて二人でラムネを飲んだ時のように、肩の力が抜けた笑いだった。
不意に静寂が戻り、二人の距離が近いことに気づく。
朔夜の深紫の瞳が真剣な光を湛えて小春を見つめていた。吸い寄せられるように、彼の手がゆっくりと持ち上がる。細く長い指先が、小春の頬に触れようと宙を動く。
(ああ……)
小春は無意識に、その指を待って目を閉じかけた。
しかし、触れる直前で朔夜の指がぴたりと止まった。
触れれば、もっと欲しくなる──
かすかに震えたあと、朔夜のその手は力なく引き戻された。
「……すまない。その菓子、完成するといいな」
突き放すような声ではなかった。むしろ、自分自身を強く律するような、苦渋の滲む声だった。朔夜はそのまま、一度も振り返ることなく台所から去っていった。
一人残された小春は自分の頬に手を当てた。彼の手が近づいた場所だけが、じりじりと熱を持っている。
(私……触れてほしかった)
触れられなかったはずなのに、頬にはまだ朔夜の熱が残っていた。