死神の旦那様は、花嫁菓子しか食べられない
第十章:死神の旦那様と、私の居場所



 雷が落ちたような轟音に、小春は思わず目を閉じる。
 肌にまとわりついていた冷気が、一瞬で温もりへと変わった。
 同時に、春の木漏れ日に混じる桜の香りが満ちてくる。

 そっと目を開ける。
 すると、目の前には幾重にも重なった桜の花びらが淡い光をまとって広がり、森中へ舞い上がっていた。重く淀む瘴気に桜が触れると、闇が一瞬でふっと消え去る。黒一色の視界が、元の世界へと静かに塗り替わっていく。

 小春はその光景に目を奪われ、息をすることも忘れる。

 桜の花びらが舞うたび、枯れていた木々や草花が息を吹き返していく。その一枚が、小春の肩へ静かに落ちた。

 それを、見覚えのある長い指がそっと摘んだ。

(──っ!)

 小春は視線を跳ね上げる。
 そして、朔夜に触れるその指先が、かすかに震えた。

 そこにいるのは、静かで神々しいほどに穏やかな表情の朔夜だった。

 小春の視線が、朔夜の全身を確かめるように辿る。
 先ほどまで浮かんでいた黒い血管も、闇に染まっていた瞳も、すべて消えていた。
 その時、懐かしい声が響いた。

「──小春」

 その声と同時に、朔夜の腕が小春を抱き寄せた。
 そこには確かな温もりがあった。
 どくんどくんと規則的な鼓動が頬から伝わる。
 朔夜の胸元に耳を当てると、すうっと吸われ吐かれる穏やかな呼吸音が聞こえた。

(──生きている。朔夜様は……死神になっていない!)

 目の奥が熱くなる。涙がこぼれる前に、小春は朔夜の胸元へ顔を押し当てた。それから、ゆっくりと顔を上げた。
 小春を見つめる朔夜は、縁側でいつも見ていた柔らかな目だった。

「朔夜様……よく、お戻りになりました」

 込み上げる嗚咽を抑え込みながら小春は言った。

「御神影! 穢れを封じるぞ!」

 九条の空気を割くような怒号が響き、小春はハッと我に返った。
 奥の院を見れば、穢れは自らの身体から瘴気を吐き出し続けていた。

「浄化する!」

 朔夜は小春を片腕に抱きながら、もう片腕を構えた。
 その呼吸は穏やかだった。目を伏せると、周囲の空気がゆっくりと朔夜へと引き寄せられる。

 地を這うように広がる瘴気が動きを止めた後、自らの意思で細い渦巻きになっていく。その先端は導かれるように、朔夜の目の前へとやってくる。そして、抵抗することなく朔夜へと吸い込まれていく。

 朔夜がそっと目を開く。その瞳には鋭い光が宿っている。
 そして、手刀を振り抜いた。

「……神祓御影流──(のう)!」

 掛け声とともに空気が割れ、榊の枝葉がぱっと浮かび上がる。瘴気の闇の中に、深い緑の光の葉が舞い散ると、瘴気が結界へ押し戻されていく。

 小春はその様子を瞬きもせず見つめる。

「九条!」
 朔夜が叫ぶ。
「任せろ!」
 九条が声を張る。

「──律式結界、絶界固定!」

 九条の咆哮が響く。
 足を踏ん張り顔を歪ませ、両手で押さえ込む。穢れの裂け目が徐々に閉じていく。それは糸で縫い閉じられるように収束していく。
 やがて穢れは完全に動きを止め、徐々に縮んでいった。
 最後に、九条が地面に向かって手を押し出すと、巨大だった穢れが黒曜石のようにゴロンとその場に転がった。

 同時に、その場の空気がふわっと軽くなる。張り詰めていた重さが嘘のように薄れていった。耳鳴りがするほどの静寂の中から、湧水場の流水音が聞こえ始める。
 地を闇に変えていた穢れは散り去り、真っ青な空からは夏の日差しが燦々と差し込んでいた。
 木の枝が揺れる音、草花の葉が擦れる音、空高く飛ぶ燕の羽音。世界に音が戻っている。

「……」

 しばらく誰一人声を漏らさなかった。
 まるで、この世界が本物かを見定めているかのように。

 そして、先に声を上げたのは精霊たちだった。
『やったー。押さえ込んだ!』
 榊が声を震わせ喜ぶ。

 榊の弾んだ声に、張り詰めていた空気がふっと緩む。
「穢れの固定、成功しました!」
 堰を切ったように、鎮定局員が歓喜の声を上げた。周囲の温度がさらに上がるようだった。

 九条は無言で森を見つめる。
「九条管理官! 任務、完遂です!」
 弾む部下の声にも反応しない。ただ一度だけ、大きく息を吐き出す。
「ああ……」
 小さく肩で息を整えながら、腕をゆっくりと下ろした。
 体力は消耗している。だが、不思議なほど視界は澄み渡っていた。

(この高揚感……これがラムネ菓子の効果)

 張り詰めていた身体から、ゆっくり力が抜けた。

(……鎮定局でも至れなかった領域へ、あの少女は一粒の菓子で届いたというのか)

 ポケットの中にある巾着に指が触れた瞬間、口の中に残るかすかな甘酸っぱさと、びりっとした熱を感じた。

「自ら食べて試すとは……な」

 ふっと息を漏らす。そして、そのまま視線を小春と朔夜に向ける。
 その二人をしばらく見つめると軽く肩をすくめた。
 ゆっくり視線を下すと、白制服に土汚れがついていた。
 払おうとするが、その手が止まる。

「引き上げるよ。帰って報告だ」

 部下と共にその場から去っていく。
 変わらず、九条の革靴は高い音を鳴らす。
 そして、自分にしか聞こえない声で呟く。

「不本意だけど……今回は僕の負けだね」

 空を見上げた。眩しい陽光を手で遮り、まっさらな青を目に焼き付けた。九条は背中を向けたまま、ほんの少しだけ口元を緩めていた。



 湿り気のある風が、小春と朔夜の間を吹き抜ける。
 小春の背に触れている朔夜の手が熱い。先ほどまで、手を引くほど冷えていたのに。
 小春は朔夜を見上げたまま、ぐっと泣きたいのを我慢する。

 目の前には、縁側で一緒に並んでラムネを飲んだ朔夜がいる。
 溢れる愛しさに小春の表情は綻んだ。

「朔夜様……おかえりなさい」

 小さく呟くように言う。
 朔夜は少しだけ首を傾げて、微笑む。

「違う。ただいま、だろう?」

 小春は目を見開く。

(──ああ。私が帰るべき場所は、朔夜様……そう言ってくれているのだ)

 そう気付いた瞬間、ついに涙が溢れ出した。

「そうでした……ただいま戻りました」

 眉を下げて精一杯、笑った。

「もう逃げるな。今度は許さない」

 小春を抱きしめる朔夜の腕が、離すまいとするように強くなる。
 吸い込まれそうな透明なその瞳は、小春を捉えて離さない。
 小春はその瞳を見つめる。

「もう、背は向けません」

 二人の視線が絡まる。

「……二度と離さない」

「はい……」

 朔夜の温もりを確かめるように、小春はその背へ腕を回した。
 吹き抜ける夏の風のなか、舞い落ちる桜の花びらが、二人を静かに包み込んでいった。





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