泡沫の月に幽玄の狼
すると、廊下の先にあるリビングへ繋がる扉が開き、薄暗い廊下にリビングの光が差し込む。
「おかえり、都子···」
その扉の先には、貴博が立っていた。
冷たい眼差しにビクリともしない無表情の顔。
わたしはそんな貴博に恐怖を感じながらも「た、ただいま。遅くなってごめん···」と言った。
「何してたんだ?」
「···ちょっと、仕事で遅くなっちゃって」
「じゃあ、なぜ連絡しなかった?」
「ごめんなさい、忙しくて···」
「忙しくて?嘘つくなよ」
その会話をする度に一歩一歩わたしへ近付いて来る貴博―――
「本当は、誰かと会ってたんじゃないか?」
その言葉を口から発する時には、貴博はわたしの目の前まで来ていた。
わたしを見下ろし、不敵な笑みを浮かべる貴博に恐怖を感じる。
(逃げなくちゃ···)
不意にわたしはそう思ったが、驚怖で足が動かなかった。
すると、貴博の手が伸びてきてわたしの首を掴み、わたしは玄関のドアに押し付けられた。
「うっっ···!」
貴博の手のひらには力が籠る。
(く、苦しいっ···)
自分の身の危険にわたしは(逃げなきゃ!)と思った。
しかし、男性の力には抗えない。
そしてわたしは、玄関の扉に背をつけたままドアノブに手をかけ、それを下に下ろした。
―――途端に勢い良く開く扉。
その勢いでわたしは貴博の手から解放され、尻餅をついた。
(逃げなきゃ!今しかない!)
わたしは慌てて立ち上がると、エレベーターではなく階段がある方向に向かって走り出した。