初めて聞いた音
第8話 「新しい音」
ガラガラ。
私は信先輩を見送ると、教室へ入った。
自分の席へ向かうと、腕を組んだ悠がじーっと私を見ている。
「悠、おはよう。」
「朝はごめんね。」
「……。」
悠はぷいっと顔を逸らした。
「すーの馬鹿。」
「えぇ……。」
思わず苦笑する。
「やっぱり怒ってる?」
「当たり前やん!」
悠は頬を膨らませる。
「すー、いつの間にか信先輩と仲良うなっとるし!」
「昨日、色々あったの。」
「だから、ごめんね。」
今日だけで何回「ごめんね」って言ったんだろう。
そんなことを思いながら苦笑する。
「しかも!」
悠は机をバンッと軽く叩いた。
「信先輩に教室まで送ってもらっとるし!」
「なんなん、それ!」
「それは……。」
私は少し照れ笑いを浮かべる。
「教室の場所が分からなくて。」
「……。」
悠はしばらく黙り込む。
そして、大きくため息をついた。
「すー。」
「方向音痴すぎや。」
「うっ……。」
図星だった。
「そこは否定してよ。」
「できない……。」
私が小さく肩を落とすと、悠は吹き出した。
「ぷっ。」
「ははは!」
「やっぱり、すーはすーやな。」
私もつられて笑ってしまった。
「どこ行ってたん?」
「え?」
「朝からおらんかったやん。」
悠はじっと私を見る。
「……あー。」
「信先輩のとこ?」
「それは……。」
私は一瞬言葉に詰まる。
軽音部にいたことは、まだ言いたくなかった。
「ちょっと教室の場所が分からなくて。」
「信先輩に案内してもらってたの。」
「それだけ?」
悠はじーっと疑うような目で見てくる。
「う、うん。」
「それだけ。」
「ふーん……。」
どこか納得していない様子だった。
その時。
「あ、黒川さん、藤原くん、おはよう。」
隣から声が聞こえた。
振り向くと、早乙女くんが笑顔で立っていた。
「おー、茜!おはようさん。」
「おはようございます。」
私は軽く頭を下げる。
「黒川さん。」
「敬語いらないよ?」
「え?」
「は、うん。」
「そうそう、それでええねん。」
悠は笑いながら頷く。
そして、すぐに私の方へ向き直った。
「そんなことより!」
「すーは結局、どこ行ってたん?」
その時だった。
キーンコーンカーンコーン。
始業を知らせるチャイムが校内に響く。
「あっ。」
悠は少し不満そうにため息をついた。
「また後で話すからな!」
そう言うと、自分の席へ戻っていく。
私も慌てて席に着いた。
授業はいつも通り始まった。
先生が何を話しているのかも、今日はあまり頭に入ってこない。
朝、信先輩が弾いてくれたギター。
部室で交わした会話。
放課後、また軽音部へ行けること。
そのことばかり考えてしまう。
(早く放課後にならないかな。)
時計を見るたび、まだこんな時間。
今日一日が、いつもよりずっと長く感じた。
キーンコーンカーンコーン。
終業を知らせるチャイムが鳴り響く。
「終わったぁー!」
教室が一気に賑やかになる。
「すー!」
悠が勢いよく私の席までやって来た。
「俺、今日は部活ないから一緒に帰るで!」
「あ……。」
私は少しだけ申し訳なさそうに笑う。
「ごめん。」
「今日は約束があるから。」
「先に帰ってて。」
「はぁー!?」
悠は大げさに肩を落とした。
「なんでなん!」
「もぉー!」
その様子を見ていた早乙女くんが小さく笑う。
「藤原くん。」
「今日も振られちゃったね。」
「茜ぇー!」
悠は両手で頭を抱えた。
「そんな切ないこと言わんでよぉー!」
思わず笑みがこぼれる。
「じゃあ!」
私はカバンを持って立ち上がる。
「早乙女くん、悠、またね!」
「また明日。」
二人に手を振ると、私は教室を飛び出した。
向かう先は、一つ。
軽音部の部室だった。
部室へ着いた。
(信先輩……居るかな。)
そんなことを思いながら、私は扉へ手をかける。
ガラガラ。
「おっ!」
「鈴ちゃん!来たねぇ!」
真っ先に晴先輩が大きく手を振ってくれた。
「は、はい!」
私は部屋の中を見渡し、軽く頭を下げる。
「あの……。」
「昨日はすみませんでした。」
「空気、重くしちゃって。」
「そんなこと気にしなくていいって!」
晴先輩は笑いながら親指を立てる。
「鈴ちゃんは何も悪くない!」
「無問題!」
その一言に、思わず笑みがこぼれた。
すると、一人の先輩が私の前へ歩いてくる。
肩まで伸びた明るい茶色の髪を耳にかけ、どこか大人っぽい雰囲気をまとった女の人だった。
笑うと少しお姉さんらしい優しい表情になる。
「あっ、昨日ちゃんと自己紹介できなかったよね。」
「私、天野美月。」
「軽音部の副部長で、ボーカル担当!」
「よろしくね。」
「よろしくお願いします!」
私も慌てて頭を下げる。
美月先輩はにこっと笑うと、部屋の隅へ視線を向けた。
「それで。」
「あそこでチューニングしながら全然喋らないのが。」
私はその視線を追う。
窓際には、黒髪を短く整えた男の人が静かにベースを調整していた。
無駄な動きは一つもなく、どこか落ち着いた空気をまとっている。
私たちの会話は聞こえているはずなのに、一言も口を開かない。
「如月透。」
「ベース担当。」
その紹介に合わせるように、透先輩は顔だけこちらへ向けた。
「……よろしく。」
短く一言だけそう言うと、また静かにベースへ視線を戻した。
「透!」
晴先輩は透先輩の後ろへ回ると、頭をぽんっと軽く叩いた。
「ちゃんと挨拶しなさい!」
透先輩は小さくため息をつく。
「……。」
そして私の方へ向き直った。
「如月透です。」
「よろしく。」
短くそう言うと、またベースへ視線を戻す。
「よ、よろしくです……。」
私は思わず苦笑いを浮かべた。
「ほらー!」
晴先輩は大げさに両手を広げる。
「鈴ちゃん困ってるじゃん!」
「これでもちゃんと挨拶した。」
透先輩は淡々と答える。
「もう!」
「ほんと愛想ないんだから!」
部室に小さな笑い声が広がる。
その時だった。
ガラガラ。
部室の扉が開く。
振り返ると、そこには信先輩が立っていた。
「おっ!」
「来たな、信!」
晴先輩が嬉しそうに声を上げる。
「信先輩!」
私は思わず笑顔になる。
「来ないかと思いました。」
信先輩は私を見て、小さく笑った。
「お前。」
「今、ちょっと調子乗っただろ。」
「……バレました?」
「バレバレ。」
二人で顔を見合わせ、小さく笑う。
「ちょっとぉー!」
晴先輩はわざとらしく頬を膨らませた。
「何その空気!」
「二人だけの世界入っちゃってるじゃん!」
「晴先輩、寂しい!」
両手で胸を押さえながら大げさに肩を落とく姿に、部室はまた笑い声に包まれた。
「そうだ。」
信先輩がふと思い出したように口を開く。
「あ、こいつ。」
「歌、上手いっすよ。」
「え?」
私は思わず信先輩を見る。
「ちょ、ちょっと!」
「変なこと言わないでください!」
「えっ?」
晴先輩は目を輝かせた。
「なになに!」
「鈴ちゃん、歌上手いの!?」
「い、いや!」
「そんなことないです!」
私は慌てて首を横に振る。
「ちょっと歌ってみてよ!」
「む、無理です!」
「私、上手くないので……。」
そう言って一歩下がる。
すると。
「なら。」
信先輩がギターを手に取った。
「俺が弾いたら歌うか?」
「えっ?」
思わず信先輩を見つめる。
「……。」
信先輩は少しだけ口元を緩める。
「朝みたいに。」
「自然に歌えばいい。」
その一言に、部室が静かになった。
「え?」
美月先輩は目を丸くした。
「信。」
「ギター弾いたの?」
「そうなんだよ!」
晴先輩が嬉しそうに頷く。
「朝、鈴ちゃんのために弾いたんだよ」
「へぇ……。」
美月先輩は驚いたまま信先輩を見つめる。
その時だった。
静かに立ち上がった透先輩が、信先輩の前まで歩いてくる。
「……。」
信先輩の顔をじっと見つめると、一言。
「熱、出たか?」
「おい。」
晴先輩が思わず笑う。
「透までそれ言うなって!」
「出てねぇよ。」
信先輩は呆れたようにため息をついた。
「俺のことはいい。」
そう言うと、ギターを構える。
「それより。」
「こいつの歌、聴けよ。」
部室が静かになる。
私は思わず目を丸くした。
「え……。」
信先輩は私を見て、小さく頷く。
「ほら。」
「歌え。」
信先輩の指が弦を優しく弾く。
部室に、ギターの音が響いた。
私はゆっくり息を吸う。
目を閉じると、不思議と緊張はなかった。
朝、この音を聴いた時と同じだった。
自然と口が開く。
私は信先輩のギターに合わせて歌い始めた。
上手く歌おうなんて考えていない。
ただ、この音が楽しくて。
この時間が心地よくて。
気づけば笑いながら歌っていた。
一曲が終わる。
最後の音が静かに部室へ溶けていく。
「……。」
誰も何も言わなかった。
その静けさが、少しだけ怖かった。
「……え。」
晴先輩がぽつりと呟く。
「やば。」
三人は私を見たまま固まっていた。
「あ、あの……。」
「なんか言ってください。」
その一言で、晴先輩が我に返る。
「いや!」
「めっちゃ上手いじゃん!」
「美月と肩並ぶんじゃない?」
「えぇー?」
美月先輩は苦笑しながら私を見る。
「肩並ぶどころか。」
「本当に私より上手いかも。」
「えっ!?」
私は慌てて首を横に振る。
「そんなことないです!」
その時。
「……すごいな。」
透先輩が静かに口を開く。
「黒川。」
たった一言。
でも、その言葉が一番胸に響いた。
「え、あの……。」
「そんなに褒められ慣れてないので、その……。」
「恥ずかしいです。」
顔が熱くなる。
その時だった。
ぽん、ぽん。
信先輩が私の頭を優しく撫でた。
「緊張せずに歌えるの。」
「すごいなお前。」
「し、信先輩まで!」
私は顔を真っ赤にして信先輩を見上げる。
「やめてください!」
その様子を見て。
「はいはい!」
晴先輩がニヤニヤしながら二人の間へ割って入る。
「また二人の世界入ってる!」
「部長、寂しいんですけどー!」
部室は今日一番の笑い声に包まれた。
「そしたらさ。」
晴先輩はいつもの笑顔を少しだけ真剣な表情に変えた。
「鈴ちゃんが良ければ、軽音部入らない?」
「え?」
私は目を丸くする。
「いいんですか?」
「もっちのろーん!」
晴先輩は親指を立てて笑った。
「大歓迎!」
私はみんなの顔を見渡す。
信先輩も。
美月先輩も。
透先輩も。
誰も反対していなかった。
自然と笑顔になる。
「じゃあ……!」
「入りたいです!」
「決まり!」
晴先輩は机の引き出しから一枚の紙を取り出し、私へ差し出した。
「これ書いてきてね。」
私は紙を受け取る。
『入部届』
名前。
学年。
担任の印。
そして。
保護者印。
「……。」
思わずその欄で手が止まる。
「あの。」
私は信先輩を見る。
「信先輩、この保護者印って誰に押してもらいました?」
「俺?」
信先輩は少し考えて答えた。
「母さん。」
「でも、お前は蓮先輩いるだろ。」
「蓮先輩に頼めばいい。」
「……。」
胸がドクンと鳴る。
私はまだ、お兄ちゃんに軽音部へ来ていることを話していない。
それに。
家では音楽の話も、ギターも、ずっと禁止だった。
頭の中で、いろんなことがぐるぐる回り始める。
「あの……。」
私は小さな声で尋ねた。
「これ……。」
「佳代さんじゃ、だめなんですか?」
晴先輩は少し困ったように笑う。
「佳代さんは保護者みたいな存在だけど。」
「親じゃないからね。」
「学校の決まりなんだ。」
「……。」
どうしよう。
嬉しかったはずなのに。
入部届を見つめる手が、少しだけ震えていた。
ガラガラ。
私は信先輩を見送ると、教室へ入った。
自分の席へ向かうと、腕を組んだ悠がじーっと私を見ている。
「悠、おはよう。」
「朝はごめんね。」
「……。」
悠はぷいっと顔を逸らした。
「すーの馬鹿。」
「えぇ……。」
思わず苦笑する。
「やっぱり怒ってる?」
「当たり前やん!」
悠は頬を膨らませる。
「すー、いつの間にか信先輩と仲良うなっとるし!」
「昨日、色々あったの。」
「だから、ごめんね。」
今日だけで何回「ごめんね」って言ったんだろう。
そんなことを思いながら苦笑する。
「しかも!」
悠は机をバンッと軽く叩いた。
「信先輩に教室まで送ってもらっとるし!」
「なんなん、それ!」
「それは……。」
私は少し照れ笑いを浮かべる。
「教室の場所が分からなくて。」
「……。」
悠はしばらく黙り込む。
そして、大きくため息をついた。
「すー。」
「方向音痴すぎや。」
「うっ……。」
図星だった。
「そこは否定してよ。」
「できない……。」
私が小さく肩を落とすと、悠は吹き出した。
「ぷっ。」
「ははは!」
「やっぱり、すーはすーやな。」
私もつられて笑ってしまった。
「どこ行ってたん?」
「え?」
「朝からおらんかったやん。」
悠はじっと私を見る。
「……あー。」
「信先輩のとこ?」
「それは……。」
私は一瞬言葉に詰まる。
軽音部にいたことは、まだ言いたくなかった。
「ちょっと教室の場所が分からなくて。」
「信先輩に案内してもらってたの。」
「それだけ?」
悠はじーっと疑うような目で見てくる。
「う、うん。」
「それだけ。」
「ふーん……。」
どこか納得していない様子だった。
その時。
「あ、黒川さん、藤原くん、おはよう。」
隣から声が聞こえた。
振り向くと、早乙女くんが笑顔で立っていた。
「おー、茜!おはようさん。」
「おはようございます。」
私は軽く頭を下げる。
「黒川さん。」
「敬語いらないよ?」
「え?」
「は、うん。」
「そうそう、それでええねん。」
悠は笑いながら頷く。
そして、すぐに私の方へ向き直った。
「そんなことより!」
「すーは結局、どこ行ってたん?」
その時だった。
キーンコーンカーンコーン。
始業を知らせるチャイムが校内に響く。
「あっ。」
悠は少し不満そうにため息をついた。
「また後で話すからな!」
そう言うと、自分の席へ戻っていく。
私も慌てて席に着いた。
授業はいつも通り始まった。
先生が何を話しているのかも、今日はあまり頭に入ってこない。
朝、信先輩が弾いてくれたギター。
部室で交わした会話。
放課後、また軽音部へ行けること。
そのことばかり考えてしまう。
(早く放課後にならないかな。)
時計を見るたび、まだこんな時間。
今日一日が、いつもよりずっと長く感じた。
キーンコーンカーンコーン。
終業を知らせるチャイムが鳴り響く。
「終わったぁー!」
教室が一気に賑やかになる。
「すー!」
悠が勢いよく私の席までやって来た。
「俺、今日は部活ないから一緒に帰るで!」
「あ……。」
私は少しだけ申し訳なさそうに笑う。
「ごめん。」
「今日は約束があるから。」
「先に帰ってて。」
「はぁー!?」
悠は大げさに肩を落とした。
「なんでなん!」
「もぉー!」
その様子を見ていた早乙女くんが小さく笑う。
「藤原くん。」
「今日も振られちゃったね。」
「茜ぇー!」
悠は両手で頭を抱えた。
「そんな切ないこと言わんでよぉー!」
思わず笑みがこぼれる。
「じゃあ!」
私はカバンを持って立ち上がる。
「早乙女くん、悠、またね!」
「また明日。」
二人に手を振ると、私は教室を飛び出した。
向かう先は、一つ。
軽音部の部室だった。
部室へ着いた。
(信先輩……居るかな。)
そんなことを思いながら、私は扉へ手をかける。
ガラガラ。
「おっ!」
「鈴ちゃん!来たねぇ!」
真っ先に晴先輩が大きく手を振ってくれた。
「は、はい!」
私は部屋の中を見渡し、軽く頭を下げる。
「あの……。」
「昨日はすみませんでした。」
「空気、重くしちゃって。」
「そんなこと気にしなくていいって!」
晴先輩は笑いながら親指を立てる。
「鈴ちゃんは何も悪くない!」
「無問題!」
その一言に、思わず笑みがこぼれた。
すると、一人の先輩が私の前へ歩いてくる。
肩まで伸びた明るい茶色の髪を耳にかけ、どこか大人っぽい雰囲気をまとった女の人だった。
笑うと少しお姉さんらしい優しい表情になる。
「あっ、昨日ちゃんと自己紹介できなかったよね。」
「私、天野美月。」
「軽音部の副部長で、ボーカル担当!」
「よろしくね。」
「よろしくお願いします!」
私も慌てて頭を下げる。
美月先輩はにこっと笑うと、部屋の隅へ視線を向けた。
「それで。」
「あそこでチューニングしながら全然喋らないのが。」
私はその視線を追う。
窓際には、黒髪を短く整えた男の人が静かにベースを調整していた。
無駄な動きは一つもなく、どこか落ち着いた空気をまとっている。
私たちの会話は聞こえているはずなのに、一言も口を開かない。
「如月透。」
「ベース担当。」
その紹介に合わせるように、透先輩は顔だけこちらへ向けた。
「……よろしく。」
短く一言だけそう言うと、また静かにベースへ視線を戻した。
「透!」
晴先輩は透先輩の後ろへ回ると、頭をぽんっと軽く叩いた。
「ちゃんと挨拶しなさい!」
透先輩は小さくため息をつく。
「……。」
そして私の方へ向き直った。
「如月透です。」
「よろしく。」
短くそう言うと、またベースへ視線を戻す。
「よ、よろしくです……。」
私は思わず苦笑いを浮かべた。
「ほらー!」
晴先輩は大げさに両手を広げる。
「鈴ちゃん困ってるじゃん!」
「これでもちゃんと挨拶した。」
透先輩は淡々と答える。
「もう!」
「ほんと愛想ないんだから!」
部室に小さな笑い声が広がる。
その時だった。
ガラガラ。
部室の扉が開く。
振り返ると、そこには信先輩が立っていた。
「おっ!」
「来たな、信!」
晴先輩が嬉しそうに声を上げる。
「信先輩!」
私は思わず笑顔になる。
「来ないかと思いました。」
信先輩は私を見て、小さく笑った。
「お前。」
「今、ちょっと調子乗っただろ。」
「……バレました?」
「バレバレ。」
二人で顔を見合わせ、小さく笑う。
「ちょっとぉー!」
晴先輩はわざとらしく頬を膨らませた。
「何その空気!」
「二人だけの世界入っちゃってるじゃん!」
「晴先輩、寂しい!」
両手で胸を押さえながら大げさに肩を落とく姿に、部室はまた笑い声に包まれた。
「そうだ。」
信先輩がふと思い出したように口を開く。
「あ、こいつ。」
「歌、上手いっすよ。」
「え?」
私は思わず信先輩を見る。
「ちょ、ちょっと!」
「変なこと言わないでください!」
「えっ?」
晴先輩は目を輝かせた。
「なになに!」
「鈴ちゃん、歌上手いの!?」
「い、いや!」
「そんなことないです!」
私は慌てて首を横に振る。
「ちょっと歌ってみてよ!」
「む、無理です!」
「私、上手くないので……。」
そう言って一歩下がる。
すると。
「なら。」
信先輩がギターを手に取った。
「俺が弾いたら歌うか?」
「えっ?」
思わず信先輩を見つめる。
「……。」
信先輩は少しだけ口元を緩める。
「朝みたいに。」
「自然に歌えばいい。」
その一言に、部室が静かになった。
「え?」
美月先輩は目を丸くした。
「信。」
「ギター弾いたの?」
「そうなんだよ!」
晴先輩が嬉しそうに頷く。
「朝、鈴ちゃんのために弾いたんだよ」
「へぇ……。」
美月先輩は驚いたまま信先輩を見つめる。
その時だった。
静かに立ち上がった透先輩が、信先輩の前まで歩いてくる。
「……。」
信先輩の顔をじっと見つめると、一言。
「熱、出たか?」
「おい。」
晴先輩が思わず笑う。
「透までそれ言うなって!」
「出てねぇよ。」
信先輩は呆れたようにため息をついた。
「俺のことはいい。」
そう言うと、ギターを構える。
「それより。」
「こいつの歌、聴けよ。」
部室が静かになる。
私は思わず目を丸くした。
「え……。」
信先輩は私を見て、小さく頷く。
「ほら。」
「歌え。」
信先輩の指が弦を優しく弾く。
部室に、ギターの音が響いた。
私はゆっくり息を吸う。
目を閉じると、不思議と緊張はなかった。
朝、この音を聴いた時と同じだった。
自然と口が開く。
私は信先輩のギターに合わせて歌い始めた。
上手く歌おうなんて考えていない。
ただ、この音が楽しくて。
この時間が心地よくて。
気づけば笑いながら歌っていた。
一曲が終わる。
最後の音が静かに部室へ溶けていく。
「……。」
誰も何も言わなかった。
その静けさが、少しだけ怖かった。
「……え。」
晴先輩がぽつりと呟く。
「やば。」
三人は私を見たまま固まっていた。
「あ、あの……。」
「なんか言ってください。」
その一言で、晴先輩が我に返る。
「いや!」
「めっちゃ上手いじゃん!」
「美月と肩並ぶんじゃない?」
「えぇー?」
美月先輩は苦笑しながら私を見る。
「肩並ぶどころか。」
「本当に私より上手いかも。」
「えっ!?」
私は慌てて首を横に振る。
「そんなことないです!」
その時。
「……すごいな。」
透先輩が静かに口を開く。
「黒川。」
たった一言。
でも、その言葉が一番胸に響いた。
「え、あの……。」
「そんなに褒められ慣れてないので、その……。」
「恥ずかしいです。」
顔が熱くなる。
その時だった。
ぽん、ぽん。
信先輩が私の頭を優しく撫でた。
「緊張せずに歌えるの。」
「すごいなお前。」
「し、信先輩まで!」
私は顔を真っ赤にして信先輩を見上げる。
「やめてください!」
その様子を見て。
「はいはい!」
晴先輩がニヤニヤしながら二人の間へ割って入る。
「また二人の世界入ってる!」
「部長、寂しいんですけどー!」
部室は今日一番の笑い声に包まれた。
「そしたらさ。」
晴先輩はいつもの笑顔を少しだけ真剣な表情に変えた。
「鈴ちゃんが良ければ、軽音部入らない?」
「え?」
私は目を丸くする。
「いいんですか?」
「もっちのろーん!」
晴先輩は親指を立てて笑った。
「大歓迎!」
私はみんなの顔を見渡す。
信先輩も。
美月先輩も。
透先輩も。
誰も反対していなかった。
自然と笑顔になる。
「じゃあ……!」
「入りたいです!」
「決まり!」
晴先輩は机の引き出しから一枚の紙を取り出し、私へ差し出した。
「これ書いてきてね。」
私は紙を受け取る。
『入部届』
名前。
学年。
担任の印。
そして。
保護者印。
「……。」
思わずその欄で手が止まる。
「あの。」
私は信先輩を見る。
「信先輩、この保護者印って誰に押してもらいました?」
「俺?」
信先輩は少し考えて答えた。
「母さん。」
「でも、お前は蓮先輩いるだろ。」
「蓮先輩に頼めばいい。」
「……。」
胸がドクンと鳴る。
私はまだ、お兄ちゃんに軽音部へ来ていることを話していない。
それに。
家では音楽の話も、ギターも、ずっと禁止だった。
頭の中で、いろんなことがぐるぐる回り始める。
「あの……。」
私は小さな声で尋ねた。
「これ……。」
「佳代さんじゃ、だめなんですか?」
晴先輩は少し困ったように笑う。
「佳代さんは保護者みたいな存在だけど。」
「親じゃないからね。」
「学校の決まりなんだ。」
「……。」
どうしよう。
嬉しかったはずなのに。
入部届を見つめる手が、少しだけ震えていた。