初めて聞いた音
第9話 「届かない音」
「ちょっとだけ……。」
私は入部届を握りしめたまま口を開く。
「部活届、少し待ってもらってもいいですか?」
「え?」
晴先輩は少し驚いた表情を浮かべる。
「うん、もちろん。」
「なんかあった?」
「……いいえ。」
私は小さく首を横に振った。
だけど、その先の言葉は出てこなかった。
部室に静かな時間が流れる。
私の視線は、入部届の一点に止まっていた。
保護者印。
その四文字だけが、やけに大きく見える。
(どうしよう……。)
きっと、お兄ちゃんに話さなきゃいけない。
でも。
家では音楽の話はずっと避けてきた。
ギターも。
軽音部も。
お母さんは嫌っていた。
お兄ちゃんは……。
どう思うんだろう。
お母さんと同じように反対するかもしれない。
そう思うと、胸がぎゅっと苦しくなった。
「おーい。」
「……おいって。」
「黒川。」
「えっ?」
はっと我に返る。
目の前には、心配そうに私を見つめる信先輩がいた。
「なんですか?」
「大丈夫かよ?」
その一言に、私は作り笑いを浮かべることしかできなかった。
その後の部活は、どこか上の空だった。
晴先輩たちが何を話していたのかも、あまり覚えていない。
気づけば練習は終わっていた。
(帰りたくない……。)
お兄ちゃんに会いたくない。
入部届を見るたび、不安ばかりが大きくなる。
横目で見ると、先輩たちは帰る準備を始めていた。
(まだ帰らないで……。)
そんなことばかり考えてしまう。
「おい。」
不意に声がした。
「……え?」
信先輩が心配そうに私を見ていた。
「お前、本当に大丈夫かよ。」
「だい……じょうぶ……です。」
自分でも分かるくらい、声に元気がなかった。
「……。」
信先輩は少し黙る。
「大丈夫じゃねぇな。」
図星だった。
何も言い返せない。
「大丈夫になるまで。」
信先輩はギターケースへ目を向ける。
「弾いてやろうか?」
私は小さく首を横に振った。
「……。」
部室が静かになる。
しばらく沈黙が続いたあと、信先輩がぽつりと口を開いた。
「俺さ。」
「好きだったやつ、いたんだよ。」
「……え?」
思わず顔を上げる。
信先輩は窓の外を見たまま、小さく笑った。
「そいつ。」
「何も言わねぇで、一人で全部抱え込んでさ。」
「俺には最後まで、本音を見せなかった。」
ゆっくりと語られる言葉。
詩音という先輩のこと。
軽音部で過ごした日々。
病気が見つかったこと。
最後の喧嘩。
そして。
ギターを弾けなくなった理由。
私はただ黙って聞いていた。
聞いていい話なのかも分からない。
それでも、信先輩は少しずつ胸の内を話してくれた。
気づけば、頬を涙が伝っていた。
「……あ。」
慌てて拭おうとする。
その時だった。
震える手が、そっと私の手に触れた。
信先輩だった。
先輩の手も、小さく震えていた。
本当は。
先輩の方がずっと苦しいはずなのに。
声だって震えているのに。
それでも先輩は、私の涙を止めようとしてくれていた。
信先輩の話が終わる頃には、外はすっかり真っ暗になっていた。
部室には静かな空気が流れる。
「なんで、お前が泣くんだよ。」
信先輩は少し困ったように笑った。
「だって……。」
それ以上、言葉にならなかった。
信先輩は小さく息を吐くと、ギターケースのポケットへ手を伸ばした。
取り出したのは、何度も持ち歩いたのだろう。
少しくしゃくしゃになった一通の封筒だった。
「これ。」
「まだ読めてねぇーんだよな。」
封筒の表には、優しい字でこう書かれていた。
『信へ』
知らない人の字なのに、不思議と温かさを感じる文字だった。
その時だった。
プルルルル。
静かな部室にスマホの着信音が響く。
「あっ。」
私は慌ててスマホを取り出す。
画面には、
『悠』
と表示されていた。
涙を急いで拭き、電話へ出る。
「もしもし?」
『すー!?』
『何してるん!?』
『もう外真っ暗やし、佳代さんめっちゃ怒っとるで!』
「えっ!?」
「佳代さん怒ってるの!?」
思わず信先輩と顔を見合わせる。
『とにかく早よ帰ってきぃ!』
「い、今から帰る!」
「そう言っといて!」
そう言って電話を切る。
私は慌ててカバンを持った。
「やべぇ……。」
信先輩もスマホを取り出し、画面を見て苦笑する。
「俺のスマホにも。」
「佳代さんから着信めっちゃ来てるじゃん。」
「黒川。」
信先輩はギターケースを肩に掛ける。
「早く帰るぞ。」
「は、はい!」
私たちは急いで部室を飛び出し、暁寮へ向かった。
暁寮へ戻ると、玄関には佳代さんとお兄ちゃんが腕を組んで立っていた。
「……。」
思わず足が止まる。
「鈴!」
「信!」
佳代さんの声が玄関中に響いた。
「今、何時だと思ってるんだい!」
「「はい……。」」
私と信先輩は同時に頭を下げる。
「すみません。」
佳代さんは大きくため息をつく。
「心配したんだからね。」
「電話くらい一本入れな!」
「ごめんなさい……。」
私が小さく呟くと、佳代さんは私と信先輩を交互に見た。
「鈴。」
「蓮に叱られてきな。」
「……はい。」
私は恐る恐るお兄ちゃんを見る。
怒ってる。
絶対怒ってる。
胸がぎゅっと締めつけられた。
その時。
「大丈夫だから。」
信先輩が私にだけ聞こえるくらいの小さな声で言った。
私は思わず信先輩を見る。
少しだけ優しく笑っていた。
その笑顔に、ほんの少しだけ肩の力が抜ける。
「信!」
佳代さんが鋭い声を飛ばした。
「何が『大丈夫』だってぇ?」
「ひっ……。」
信先輩は思わず肩をすくめる。
「いや、その……。」
「言い訳は後!」
佳代さんはびしっと指をさした。
「鈴!」
「さっさと蓮と部屋へ行きな!」
「は、はい!」
私は小さく返事をすると、お兄ちゃんの後ろを静かについて歩き出した。
部屋へ入ると、お兄ちゃんは静かに椅子へ腰を下ろした。
私は反射的にその場で正座する。
部屋には重たい沈黙が流れた。
「はぁ……。」
お兄ちゃんが大きく息を吐く。
「お兄ちゃん。」
「ごめんなさい……。」
私が頭を下げると、お兄ちゃんは少し困ったように笑った。
「鈴。」
「お前、俺に隠してることあるだろ。」
「……。」
胸がドキッと鳴る。
思い当たることは、一つしかなかった。
だけど、自分から切り出すことができない。
「晴から聞いた。」
「……。」
「晴先輩から?」
「お前。」
「軽音部、出入りしてるんだってな。」
私は何も言えなかった。
否定もできない。
俯いたまま、小さく手を握りしめる。
「入りたいのか?」
その一言に、胸がまた大きく鳴った。
私はお兄ちゃんの顔を見ることができない。
「鈴。」
「家のルール、覚えてるよな。」
「……はい。」
小さく頷く。
「だよな。」
少しの沈黙。
「それでも入りたいのか?」
私は唇をぎゅっと噛む。
怖い。
でも。
嘘だけはつきたくなかった。
「……うん。」
その返事を聞いたお兄ちゃんは、天井を見上げるように大きくため息をついた。
「はぁー……。」
呆れたような声だった。
「だよな。」
「信と仲良くなってるって聞いた時から、そんな気はしてたんだ。」
お兄ちゃんは苦笑する。
「それに。」
「鈴のことだから。」
「俺が何言ったって、結局は入るんだろ。」
私は何も言い返せなかった。
「でも。」
お兄ちゃんは真っ直ぐ私を見た。
「一つだけ約束しろ。」
「……はい。」
「今日みたいに夜遅くなるなら、ちゃんと連絡しろ。」
「心配する。」
「……ごめんなさい。」
私は小さく頭を下げた。
「よし。」
お兄ちゃんは一つ頷くと、今度は私の顔をじっと見つめた。
「それから。」
「これは質問な。」
「お前、泣いたか?」
「……え?」
思わず目を見開く。
「目、腫れてる。」
「帰って来た時、信もだけど、お前も目腫れてた。」
私は思わず目元へ手を当てた。
「あ……。」
「これは、その……。」
信先輩の話を思い出す。
詩音先輩のこと。
最後の約束。
読めないままの手紙。
思い出しただけで、また涙がこみ上げてきた。
「お、おい!」
お兄ちゃんは慌てて立ち上がる。
「大丈夫か?」
「信になんかされたのか?」
「ち、違う!」
私は慌てて首を横に振る。
「そうじゃなくて……。」
「ただ。」
「信先輩の方が辛いはずなのにって思ったら……。」
言葉が詰まる。
「……。」
お兄ちゃんは静かに私を見つめた。
「お前。」
「信から聞いたのか?」
「え?」
「詩音先輩の話。」
私は小さく頷く。
「……うん。」
その返事を聞いたお兄ちゃんは、少し驚いたように目を細めた。
「あいつが……。」
小さく息を吐く。
「誰かに話すなんてな。」
その横顔は、どこか安心したようにも見えた。
「俺も。」
お兄ちゃんは少しだけ笑った。
「信本人からじゃない。」
「晴から聞いたんだ。」
「晴先輩が?」
「うん。」
「『信のこと、少し気にかけてやってくれ』って。」
私は少し驚いた。
「そうだったんだ……。」
「でも。」
お兄ちゃんは優しく笑う。
「自分から誰かに話したんだろ?」
「それだけでも、あいつは前に進めたってことだ。」
私は小さく頷く。
「……うん。」
「まっ。」
お兄ちゃんは立ち上がる。
「俺からは以上。」
「あと怒るなら、悠に任せるかな。」
「えっ!?」
私は勢いよく顔を上げた。
「ちょ、ちょっと待って!」
「悠が一番怖いのに!」
「それは知らん。」
お兄ちゃんは肩をすくめて笑った。
その後。
案の定、悠にこっぴどく怒られた。
「もー!」
「すーのばーか!」
バタンッ!
勢いよく扉が閉まる。
「はぁ……。」
私は大きくため息をついた。
少し気持ちを落ち着かせようと、部屋を出て食堂へ向かう。
食堂には。
テーブルへ突っ伏した信先輩がいた。
「先輩?」
声をかけると、信先輩はゆっくり顔を上げる。
「……終わった。」
どこか疲れ切った表情だった。
「先輩も終わりました?」
「あぁ。」
信先輩は苦笑する。
「佳代さん、怖かった。」
思わず笑ってしまう。
「お前は?」
信先輩が聞いてくる。
「蓮先輩より、悠の方だったか?」
「はい。」
私は苦笑しながら頷いた。
「悠、たまにお兄ちゃんより怖いので。」
「ははっ。」
信先輩は久しぶりに声を出して笑った。
その笑い声につられて、私も笑ってしまった。
その後は、信先輩と二人で楽しくご飯を食べた。
今日あった出来事。
軽音部のこと。
悠に怒られたこと。
他愛もない話をしながら、笑っていた。
それからお互いにお風呂へ入り、それぞれ自分の部屋へ戻る。
不思議だった。
部室で聞いた話には、一度も触れなかった。
信先輩も。
私も。
何も言わなかった。
きっと、お互いにまだ整理できていなかったんだと思う。
ベッドへ横になる。
部屋は静かだった。
目を閉じると、今日の出来事がゆっくりと浮かんでくる。
詩音先輩。
信先輩の震える声。
『信へ』
と書かれた、まだ開かれていない手紙。
「……。」
胸がぎゅっと締めつけられる。
「先輩……。」
小さく名前を呟いた瞬間。
また涙が溢れてきた。
止めようと思っても、止まらなかった。
「ちょっとだけ……。」
私は入部届を握りしめたまま口を開く。
「部活届、少し待ってもらってもいいですか?」
「え?」
晴先輩は少し驚いた表情を浮かべる。
「うん、もちろん。」
「なんかあった?」
「……いいえ。」
私は小さく首を横に振った。
だけど、その先の言葉は出てこなかった。
部室に静かな時間が流れる。
私の視線は、入部届の一点に止まっていた。
保護者印。
その四文字だけが、やけに大きく見える。
(どうしよう……。)
きっと、お兄ちゃんに話さなきゃいけない。
でも。
家では音楽の話はずっと避けてきた。
ギターも。
軽音部も。
お母さんは嫌っていた。
お兄ちゃんは……。
どう思うんだろう。
お母さんと同じように反対するかもしれない。
そう思うと、胸がぎゅっと苦しくなった。
「おーい。」
「……おいって。」
「黒川。」
「えっ?」
はっと我に返る。
目の前には、心配そうに私を見つめる信先輩がいた。
「なんですか?」
「大丈夫かよ?」
その一言に、私は作り笑いを浮かべることしかできなかった。
その後の部活は、どこか上の空だった。
晴先輩たちが何を話していたのかも、あまり覚えていない。
気づけば練習は終わっていた。
(帰りたくない……。)
お兄ちゃんに会いたくない。
入部届を見るたび、不安ばかりが大きくなる。
横目で見ると、先輩たちは帰る準備を始めていた。
(まだ帰らないで……。)
そんなことばかり考えてしまう。
「おい。」
不意に声がした。
「……え?」
信先輩が心配そうに私を見ていた。
「お前、本当に大丈夫かよ。」
「だい……じょうぶ……です。」
自分でも分かるくらい、声に元気がなかった。
「……。」
信先輩は少し黙る。
「大丈夫じゃねぇな。」
図星だった。
何も言い返せない。
「大丈夫になるまで。」
信先輩はギターケースへ目を向ける。
「弾いてやろうか?」
私は小さく首を横に振った。
「……。」
部室が静かになる。
しばらく沈黙が続いたあと、信先輩がぽつりと口を開いた。
「俺さ。」
「好きだったやつ、いたんだよ。」
「……え?」
思わず顔を上げる。
信先輩は窓の外を見たまま、小さく笑った。
「そいつ。」
「何も言わねぇで、一人で全部抱え込んでさ。」
「俺には最後まで、本音を見せなかった。」
ゆっくりと語られる言葉。
詩音という先輩のこと。
軽音部で過ごした日々。
病気が見つかったこと。
最後の喧嘩。
そして。
ギターを弾けなくなった理由。
私はただ黙って聞いていた。
聞いていい話なのかも分からない。
それでも、信先輩は少しずつ胸の内を話してくれた。
気づけば、頬を涙が伝っていた。
「……あ。」
慌てて拭おうとする。
その時だった。
震える手が、そっと私の手に触れた。
信先輩だった。
先輩の手も、小さく震えていた。
本当は。
先輩の方がずっと苦しいはずなのに。
声だって震えているのに。
それでも先輩は、私の涙を止めようとしてくれていた。
信先輩の話が終わる頃には、外はすっかり真っ暗になっていた。
部室には静かな空気が流れる。
「なんで、お前が泣くんだよ。」
信先輩は少し困ったように笑った。
「だって……。」
それ以上、言葉にならなかった。
信先輩は小さく息を吐くと、ギターケースのポケットへ手を伸ばした。
取り出したのは、何度も持ち歩いたのだろう。
少しくしゃくしゃになった一通の封筒だった。
「これ。」
「まだ読めてねぇーんだよな。」
封筒の表には、優しい字でこう書かれていた。
『信へ』
知らない人の字なのに、不思議と温かさを感じる文字だった。
その時だった。
プルルルル。
静かな部室にスマホの着信音が響く。
「あっ。」
私は慌ててスマホを取り出す。
画面には、
『悠』
と表示されていた。
涙を急いで拭き、電話へ出る。
「もしもし?」
『すー!?』
『何してるん!?』
『もう外真っ暗やし、佳代さんめっちゃ怒っとるで!』
「えっ!?」
「佳代さん怒ってるの!?」
思わず信先輩と顔を見合わせる。
『とにかく早よ帰ってきぃ!』
「い、今から帰る!」
「そう言っといて!」
そう言って電話を切る。
私は慌ててカバンを持った。
「やべぇ……。」
信先輩もスマホを取り出し、画面を見て苦笑する。
「俺のスマホにも。」
「佳代さんから着信めっちゃ来てるじゃん。」
「黒川。」
信先輩はギターケースを肩に掛ける。
「早く帰るぞ。」
「は、はい!」
私たちは急いで部室を飛び出し、暁寮へ向かった。
暁寮へ戻ると、玄関には佳代さんとお兄ちゃんが腕を組んで立っていた。
「……。」
思わず足が止まる。
「鈴!」
「信!」
佳代さんの声が玄関中に響いた。
「今、何時だと思ってるんだい!」
「「はい……。」」
私と信先輩は同時に頭を下げる。
「すみません。」
佳代さんは大きくため息をつく。
「心配したんだからね。」
「電話くらい一本入れな!」
「ごめんなさい……。」
私が小さく呟くと、佳代さんは私と信先輩を交互に見た。
「鈴。」
「蓮に叱られてきな。」
「……はい。」
私は恐る恐るお兄ちゃんを見る。
怒ってる。
絶対怒ってる。
胸がぎゅっと締めつけられた。
その時。
「大丈夫だから。」
信先輩が私にだけ聞こえるくらいの小さな声で言った。
私は思わず信先輩を見る。
少しだけ優しく笑っていた。
その笑顔に、ほんの少しだけ肩の力が抜ける。
「信!」
佳代さんが鋭い声を飛ばした。
「何が『大丈夫』だってぇ?」
「ひっ……。」
信先輩は思わず肩をすくめる。
「いや、その……。」
「言い訳は後!」
佳代さんはびしっと指をさした。
「鈴!」
「さっさと蓮と部屋へ行きな!」
「は、はい!」
私は小さく返事をすると、お兄ちゃんの後ろを静かについて歩き出した。
部屋へ入ると、お兄ちゃんは静かに椅子へ腰を下ろした。
私は反射的にその場で正座する。
部屋には重たい沈黙が流れた。
「はぁ……。」
お兄ちゃんが大きく息を吐く。
「お兄ちゃん。」
「ごめんなさい……。」
私が頭を下げると、お兄ちゃんは少し困ったように笑った。
「鈴。」
「お前、俺に隠してることあるだろ。」
「……。」
胸がドキッと鳴る。
思い当たることは、一つしかなかった。
だけど、自分から切り出すことができない。
「晴から聞いた。」
「……。」
「晴先輩から?」
「お前。」
「軽音部、出入りしてるんだってな。」
私は何も言えなかった。
否定もできない。
俯いたまま、小さく手を握りしめる。
「入りたいのか?」
その一言に、胸がまた大きく鳴った。
私はお兄ちゃんの顔を見ることができない。
「鈴。」
「家のルール、覚えてるよな。」
「……はい。」
小さく頷く。
「だよな。」
少しの沈黙。
「それでも入りたいのか?」
私は唇をぎゅっと噛む。
怖い。
でも。
嘘だけはつきたくなかった。
「……うん。」
その返事を聞いたお兄ちゃんは、天井を見上げるように大きくため息をついた。
「はぁー……。」
呆れたような声だった。
「だよな。」
「信と仲良くなってるって聞いた時から、そんな気はしてたんだ。」
お兄ちゃんは苦笑する。
「それに。」
「鈴のことだから。」
「俺が何言ったって、結局は入るんだろ。」
私は何も言い返せなかった。
「でも。」
お兄ちゃんは真っ直ぐ私を見た。
「一つだけ約束しろ。」
「……はい。」
「今日みたいに夜遅くなるなら、ちゃんと連絡しろ。」
「心配する。」
「……ごめんなさい。」
私は小さく頭を下げた。
「よし。」
お兄ちゃんは一つ頷くと、今度は私の顔をじっと見つめた。
「それから。」
「これは質問な。」
「お前、泣いたか?」
「……え?」
思わず目を見開く。
「目、腫れてる。」
「帰って来た時、信もだけど、お前も目腫れてた。」
私は思わず目元へ手を当てた。
「あ……。」
「これは、その……。」
信先輩の話を思い出す。
詩音先輩のこと。
最後の約束。
読めないままの手紙。
思い出しただけで、また涙がこみ上げてきた。
「お、おい!」
お兄ちゃんは慌てて立ち上がる。
「大丈夫か?」
「信になんかされたのか?」
「ち、違う!」
私は慌てて首を横に振る。
「そうじゃなくて……。」
「ただ。」
「信先輩の方が辛いはずなのにって思ったら……。」
言葉が詰まる。
「……。」
お兄ちゃんは静かに私を見つめた。
「お前。」
「信から聞いたのか?」
「え?」
「詩音先輩の話。」
私は小さく頷く。
「……うん。」
その返事を聞いたお兄ちゃんは、少し驚いたように目を細めた。
「あいつが……。」
小さく息を吐く。
「誰かに話すなんてな。」
その横顔は、どこか安心したようにも見えた。
「俺も。」
お兄ちゃんは少しだけ笑った。
「信本人からじゃない。」
「晴から聞いたんだ。」
「晴先輩が?」
「うん。」
「『信のこと、少し気にかけてやってくれ』って。」
私は少し驚いた。
「そうだったんだ……。」
「でも。」
お兄ちゃんは優しく笑う。
「自分から誰かに話したんだろ?」
「それだけでも、あいつは前に進めたってことだ。」
私は小さく頷く。
「……うん。」
「まっ。」
お兄ちゃんは立ち上がる。
「俺からは以上。」
「あと怒るなら、悠に任せるかな。」
「えっ!?」
私は勢いよく顔を上げた。
「ちょ、ちょっと待って!」
「悠が一番怖いのに!」
「それは知らん。」
お兄ちゃんは肩をすくめて笑った。
その後。
案の定、悠にこっぴどく怒られた。
「もー!」
「すーのばーか!」
バタンッ!
勢いよく扉が閉まる。
「はぁ……。」
私は大きくため息をついた。
少し気持ちを落ち着かせようと、部屋を出て食堂へ向かう。
食堂には。
テーブルへ突っ伏した信先輩がいた。
「先輩?」
声をかけると、信先輩はゆっくり顔を上げる。
「……終わった。」
どこか疲れ切った表情だった。
「先輩も終わりました?」
「あぁ。」
信先輩は苦笑する。
「佳代さん、怖かった。」
思わず笑ってしまう。
「お前は?」
信先輩が聞いてくる。
「蓮先輩より、悠の方だったか?」
「はい。」
私は苦笑しながら頷いた。
「悠、たまにお兄ちゃんより怖いので。」
「ははっ。」
信先輩は久しぶりに声を出して笑った。
その笑い声につられて、私も笑ってしまった。
その後は、信先輩と二人で楽しくご飯を食べた。
今日あった出来事。
軽音部のこと。
悠に怒られたこと。
他愛もない話をしながら、笑っていた。
それからお互いにお風呂へ入り、それぞれ自分の部屋へ戻る。
不思議だった。
部室で聞いた話には、一度も触れなかった。
信先輩も。
私も。
何も言わなかった。
きっと、お互いにまだ整理できていなかったんだと思う。
ベッドへ横になる。
部屋は静かだった。
目を閉じると、今日の出来事がゆっくりと浮かんでくる。
詩音先輩。
信先輩の震える声。
『信へ』
と書かれた、まだ開かれていない手紙。
「……。」
胸がぎゅっと締めつけられる。
「先輩……。」
小さく名前を呟いた瞬間。
また涙が溢れてきた。
止めようと思っても、止まらなかった。