初めて聞いた音
第10話 「1歩前へ」

翌朝。

私は制服に着替え、食堂へ向かった。

食堂へ入ると、お兄ちゃんが私を見るなり手を差し出した。

「鈴。」

「紙、よこせ。」

「え?」

私は慌ててカバンから入部届を取り出す。

「書いてやるから。」

「……いいの?」

思わず聞き返す。

「おう。」

お兄ちゃんは迷うことなく頷いた。

保護者印の欄へ判子を押し、私へ入部届を返してくれる。

「ほら。」

「これでいいだろ。」

「……。」

私は入部届を見つめた。

昨日まで、不安でいっぱいだった紙。

でも今は違う。

「お兄ちゃん。」

「ありがとう。」

「良かったな。」

後ろから聞き慣れた声がした。

「わっ!」

驚いて振り返った拍子に、足がもつれる。

「あっ!」

倒れそうになったその瞬間。

ぐいっと腕を掴まれた。

「あぶねぇ。」

信先輩だった。

「大丈夫か?」

「は、はい!」

「ありがとうございます。」

私は照れくさく笑う。

お兄ちゃんはそんな私たちを見て苦笑した。

「ほら。」

「入部届も書けたんだから、早く飯食え。」

「俺は朝練あるから先行くな。」

「うん。」

私は頷く。

「あれ?」

「悠は?」

「あいつなら、とっくに朝練行ったぞ。」

「そっか。」

私は安心したように笑い、入部届をそっと胸に抱きしめた。

今日。

私は本当に、一歩前へ進める気がした。

私と信先輩は食堂で朝ご飯を食べ、そのまま学校へ向かった。

朝の空気は少しひんやりしていて、歩くたびに制服の裾が揺れる。

学校までの道。

晴先輩のこと。

美月先輩や透先輩のこと。

他愛もない話をしながら歩いた。

だけど。

昨日のこと。

詩音先輩のことだけは、お互い一度も口にしなかった。

話さなかったというより。

話せなかった。

そんな方が近かったのかもしれない。

気づけば学校へ着いていた。

「じゃあ……。」

私は教室へ向かおうと足を止める。

その時だった。

「黒川。」

信先輩が私を呼び止めた。

「少しだけ。」

「付き合ってくれ。」

「え?」

私は頷き、そのまま信先輩の後をついていく。

着いた場所は。

軽音部の部室だった。

まだ誰も来ていない静かな部室。

信先輩はゆっくりギターケースを開く。

中から取り出したのは、一通の少しくしゃくしゃになった封筒。

表には、優しい字で書かれている。

『信へ』

信先輩はその文字をしばらく見つめ、小さく息を吐いた。

「これ。」

「まだ読めないと思ってた。」

少しだけ笑う。

「でも。」

信先輩は私を見る。

「お前のそばでなら。」

「読んでもいいか?」

私は信先輩の目を真っすぐ見つめ、小さく頷いた。

「……はい。」

静かな部室に。

信先輩が封筒へ手をかけた。

『信へ』

どうせ、この手紙もすぐには読まないんでしょ?

だって、信だもん。

今もギター弾いてる?

ちゃんと笑ってる?

私以外に好きな人、できたかな?

できてるといいな。

私のこと、忘れてないかな。

一緒にいっぱい思い出作ったもんね。

だから、少しだけ寂しい。

今、隣にいるのが私じゃないって思うと、ちょっと悔しいな。

晴はちゃんと部長やれてる?

透は少しは喋るようになった?

美月ちゃんは相変わらず元気かな?

……あっ、でも晴はまだ三年生か。

なんか想像つかないや。

長くなっちゃったね。

ごめんね、信。

約束、守れなくて。

ごめんね。

一緒にいられなくて。

ごめんね。

嘘ついて「別れよう」なんて言って。

本当は、最後まで信の隣にいたかった。

でもね。

私は、信に笑っていてほしかった。

私にとって信は、お日様みたいな人だった。

だから。

私がいなくなっても、ちゃんと前を向いて笑ってね。

P.S.

自分に嘘ついたら呪うからね!

今、隣にいる人を大事にすること。

それが私との約束!

じゃあね。

バイバイ、信。

手紙を読み終えると。

信先輩は何も言わなかった。

ただ俯いたまま、肩を小さく震わせていた。

「……。」

やがて。

ぽたり、と一粒の涙が床へ落ちる。

「せ、先輩……?」

信先輩は顔を上げない。

声を押し殺すように、静かに泣いていた。

きっと。

この別れで、初めて泣いたんだ。

そんな気がした。

私は何を言えばいいのか分からなかった。

励ます言葉も。

慰める言葉も。

今はきっと違う。

そっと部室を出ようと、一歩踏み出す。

その時だった。

くいっ。

制服の裾が、小さく引っ張られた。

振り返る。

信先輩が俯いたまま、私の制服をそっと掴んでいた。

何も言わない。

でも。

「一人にしないで。」

そう言われた気がした。

私は信先輩の隣へ戻る。

「……。」

何も話さない。

何も聞かない。

ただ、小さく微笑んだ。

「ちょっとだけ。」

「ここにいますね。」

信先輩は何も答えなかった。

それでも。

制服を掴む手だけは、最後まで離さなかった。

どれくらい時間が経ったのだろう。

部室は静かなまま。

まだ始業を知らせるチャイムは鳴らなかった。

「……ごめん。」

震える声で、信先輩がぽつりと呟く。

「なんで謝るんですか?」

私は首を横に振った。

「私が居たくて、ここに居るだけです。」

信先輩は小さく笑う。

「……お前。」

「優しいのな。」

「そうですか?」

「うん。」

「お前は優しいよ。」

私は少し照れくさくなって笑った。

そして、そっと信先輩のパーカーのフードを持ち上げる。

ふわりと頭にかぶせると、信先輩の顔は半分ほど隠れた。

きっと。

今は誰にも、その顔を見られたくないと思ったから。

「……。」

信先輩は何も言わない。

私はフードを軽く整えると、小さく微笑んだ。

「チャイムが鳴るまで。」

「ここにいますね。」

「……ん。」

鼻声の返事が返ってくる。

その声が少しだけ可愛くて。

思わず、小さく笑ってしまった。

部室には何も音はなかった。

それでも、その静かな時間は、不思議と心地よかった。

キーンコーンカーンコーン。

始業を知らせるチャイムが校内に響いた。

「あっ。」

私はゆっくり立ち上がる。

「信先輩。」

「もう、大丈夫ですか?」

信先輩はフードを下ろし、小さく頷いた。

「うん。」

「落ち着いた。」

その表情はまだ少し赤かったけれど、さっきより穏やかだった。

「そっか。」

私はほっと息を吐く。

「どうします?」

「まだ部室にいますか?」

「いや。」

信先輩は立ち上がる。

「お前、教室まで送る。」

「ありがとうございます。」

私は小さく笑った。

「じゃあ、送ってもらいます。」

部室を出る。

すると。

くいっ。

また制服の裾が軽く引っ張られた。

振り返ることはしない。

信先輩が後ろで、私の制服をそっと掴んでいるのが分かった。

廊下をゆっくり歩く。

誰も何も話さない。

でも、不思議と気まずくはなかった。

そんな静かな時間のまま、教室の前へ着く。

「着きましたよ。」

私は信先輩の方を見る。

「一人で行けますか?」

「あぁ。」

信先輩は小さく頷く。

その瞬間。

制服を掴んでいた手が、ゆっくりと離れた。

「じゃあ。」

信先輩は小さく手を振る。

「また放課後。」

そう言って、自分の教室へ歩き始めた。

私はその背中を見送りながら、ふと思う。

(……なんか。)

(大型犬の散歩みたいだったな。)

思わず口元が緩む。

ガラガラ。

教室の扉を開け、自分の席へ座る。

小さく笑っていた。

ガラガラ。

私は教室の扉を開けた。

「あ、早乙女くん。」

「おはよう。」

「黒川さん、おはよう。」

早乙女くんはいつものように優しく笑った。

「あれ?」

「悠は?」

「ダッシュでジュース買いに行ったよ。」

「もうすぐ戻ってくると思う。」

「そうなんだ。」

私は少しだけ微笑む。

すると、早乙女くんが不思議そうに首を傾げた。

「黒川さん。」

「最近、登校するの少し遅いよね?」

「あー……。」

私は少しだけ苦笑する。

「最近、朝に部室へ行くことが多くて。」

「へぇ。」

早乙女くんが何か言いかけた、その時だった。

ガラガラッ!

勢いよく教室の扉が開く。

「セーフ!」

悠は息を切らしながら教室へ飛び込んできた。

そのまま自分の席へ座る。

「悠。」

私は小さく声をかけた。

「昨日はごめんね。」

「……。」

返事はない。

(今回はかなり怒ってるな。)

そう思った、その時。

「藤原くん。」

早乙女くんがくすっと笑う。

「好きな子に意地悪しちゃダメだよ。」

「はぁ!?」

悠は勢いよく立ち上がる。

「ちゃ、ちゃうし!」

「茜、変なこと言うなや!」

顔を真っ赤にした悠を見て、私はきょとんと首を傾げた。

「え?」

私は目を丸くした。

「悠、好きな子できたの?」

「で、できてへんし!」

悠は顔を真っ赤にして首を横に振る。

「そっかー。」

私は小さく笑う。

「じゃあ。」

「昨日のこと、許して?」

「ふん。」

悠はそっぽを向く。

「まだ許さん!」

「蓮にぃから聞いたで。」

「軽音部入るらしいやん。」

「……うん。」

私は静かに頷く。

「なんで俺にも言わんねん。」

その声は怒っているというより、少し寂しそうだった。

「それは……。」

「まだ入るって決めてなかったし。」

「帰ったら話そうと思ってたんだけど……。」

「遅くなっちゃって。」

悠はしばらく黙って私を見つめる。

やがて、大きくため息をついた。

「次から。」

「俺らに秘密事なしやで。」

「……うん。」

私は笑って頷いた。

「約束。」

その時だった。

キーンコーンカーンコーン。

午前中の授業終了を知らせるチャイムが鳴り響く。

「お昼ご飯やん!」

悠はさっきまでの表情が嘘だったみたいに笑う。

「すー、行こ!」

「うん!」

私は席を立ち、悠と一緒に教室を出ようとした。

ガラガラ。

教室の扉が開く。

「あっ。」

思わず足が止まる。

そこには。

晴先輩。

美月先輩。

透先輩。

そして信先輩が立っていた。
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