初めて聞いた音
第3話 「あの音、再び」

コンコン。

扉が軽くノックされる。

「鈴ー? 起きれるかー。」

扉の向こうから聞こえてきたのは、蓮の声だった。

「……ん。」

重たい体を起こし、ゆっくり返事をする。

「入るぞ。」

扉が開き、蓮が部屋に入ってきた。

「熱、もう一回測るぞ。」

「……うん。」

体温計を脇に挟み、じっと待つ。

ピピッ。

電子音が静かな部屋に響く。

「……38.1℃」

蓮は小さくため息をついた。

「下がってねぇな。」

私は少しだけ俯く。

「学校、行きたかった……。」

「今日は休みだ。」

蓮は迷いなくそう言った。

「無理して悪化したら意味ねぇ。」

「……うん。」

「佳代さんには話しとくから。何かあったらすぐ頼れ。」

私は小さく頷く。

コンコン。

再び扉がノックされた。

「蓮にぃ、おる?」

悠の声だった。

蓮が扉を開ける。

「どうした?」

「鈴、熱下がったん?」

「いや、まだ38℃ある。」

「そっか……。」

悠は少しだけ部屋の中を覗き込み、私と目が合う。

「すー、今日はゆっくり休みや。俺、学校終わったらすぐ帰ってくるから。」

「……うん。」

「ほな、行ってくるな。」

悠はいつものように笑おうとしたけれど、その笑顔は少しぎこちなかった。

少し経った頃。

コンコン。

ノックの音が部屋に響く。

「……は、はーい。」

重い身体を起こしながら返事をすると、扉がゆっくり開いた。

「入るよ。」

そう言って、佳代さんが部屋に入ってきた。

「蓮から聞いたけど、熱まだ下がらないみたいね。」

「……はい。」

佳代さんは私の額にそっと手を当てる。

「まだ熱いねぇ。」

そう言うと、机の上にお盆を置いた。

「おかゆ作ってきたよ。食べられそう?」

湯気の立つおかゆから、優しい匂いが漂う。

「……少しなら。」

「無理はしなくていいからね。食べられる分だけ食べな。」

私はゆっくりとおかゆを口に運ぶ。

温かさが身体に染み込んでいくようだった。

「薬も飲んで、また少し寝な。」

「……ありがとうございます。」

「遠慮なんてしなくていいんだからね。ここはみんなの家なんだから。」

佳代さんはそう言って優しく笑う。

その笑顔に、自然と私も少しだけ笑みがこぼれた。

「じゃあ、私は下にいるから。何かあったら呼ぶんだよ。」

「……はい。」

パタン。

扉が静かに閉まる。

部屋は再び静けさに包まれた。

薬を飲み終えると、私はもう一度布団へ潜り込む。

身体はまだ重く、まぶたもゆっくり閉じていく。

そのまま私は、深い眠りへと落ちていった。

夢の中。

「鈴。」

懐かしい声が聞こえる。

振り返ると、お父さんが優しく笑っていた。

「お父さん!」

思わず駆け出す。

「見てごらん。」

そう言って、お父さんは一本のギターを抱え、優しく弦を弾いた。

──ポロン。

柔らかな音が響く。

「すごい……。」

思わず笑顔になる。

すると、お父さんも嬉しそうに笑って、私の頭を優しく撫でてくれた。

「鈴。」

もう一度名前を呼ばれる。

その声が少しずつ遠くなっていく。

「……お父さん?」

笑顔も、景色も、少しずつぼやけていく。

「待って……。」

手を伸ばす。

届かない。

「お父さん……!」

──ポロン。

もう一度、ギターの音が響いた。

その一音に、私はハッと目を開ける。

「……っ。」

息が少し乱れている。

頭はぼんやりしていて、身体も熱い。

夢だった……?

そう思った、その時。

──ポロン。

また、ギターの音が聞こえた。

夢じゃない。

私はふらつきながら身体を起こす。

考えるより先に、足が動いていた。

私は静かに部屋の扉を開け、ギターの音が聞こえる方へ歩き出した。

静かな廊下には、誰の姿もなかった。

──ポロン。

優しいギターの音だけが、静まり返った寮に響く。

「……。」

私はぼんやりとしたまま、その音のする方へ歩き出した。

熱のせいで身体は重く、足元もふらつく。

壁に手を添えながら、一歩、また一歩と進んでいく。

──ポロン。

音は途切れながらも、私を導くように響いていた。

気づけば、階段の前に立っていた。

私はゆっくりと手すりを掴み、一段ずつ上っていく。

息が少しずつ上がる。

それでも足は止まらなかった。

音だけを追いかけるように、私は歩き続ける。

やがて、一枚の扉の前で立ち止まった。

屋上……。

私はゆっくりとドアノブに手をかける。

ギィ……。

扉を開けると、やわらかな春風が頬を撫でた。

その先には、一人の男子生徒。

フェンスにもたれかかりながら、静かにギターを弾いている。

風に揺れるダークシルバーの髪。

伏せられた瞳。

細く長い指が、優しく弦を奏でる。

──ポロン。

その音に、胸の奥が小さく震えた。

「……きれい。」

気づけば、声が漏れていた。

その声に気付いたのか、男子生徒の手が止まる。

ゆっくりとこちらを振り返った。

切れ長の瞳が、まっすぐ私を見つめる。

「……誰?」

低く落ち着いた声が、静かな屋上に響いた。

「えっと……。」

言葉がうまく出てこない。

頭がぼんやりしていて、何を言おうとしたのかも分からなくなる。

「ご、ごめんなさい……。」

私は小さく頭を下げた。

「音が……聞こえて。」

それだけ伝えるのが精一杯だった。

彼は何も言わず、私を見つめている。

気まずい沈黙が流れた。

その時。

ふわり、と春風が吹き抜ける。

私は思わず身体を小さく震わせた。

熱のせいか、視界が少し揺れる。

「あ……。」

足元がぐらりと傾いた。

倒れる。

そう思った瞬間だった。

「危ない。」

気付けば、腕を掴まれていた。

温かい手。

私は驚いて顔を上げる。

彼は少し眉をひそめながら私を見ていた。

「熱あるだろ。」

「え……。」

「顔、真っ赤。」

言われて初めて、自分の身体がまだ熱いことを思い出す。

「ご、ごめんなさい……。」

「謝ることじゃない。」

短くそう言うと、彼は私の手を離した。

「部屋、戻った方がいい。」

その声はぶっきらぼうだった。

だけど、不思議と冷たくは聞こえなかった。

私はもう一度ギターへ目を向ける。

「……その音。」

思わず呟く。

彼は少しだけ首を傾げた。

「その音……すごく、きれいです。」

彼は何も答えない。

ただ静かにギターへ視線を落とした。

「あ〜……。」

小さく息を吐くように呟くと、信は頭をかいた。

「ちょっと佳代さんに言われて、久しぶりに弾いただけ。」

そう言って、もう一度ギターへ目を向ける。

その表情はどこか複雑で、嬉しそうでも、楽しそうでもなかった。

私はその横顔を見つめることしかできなかった。

その時だった。

「鈴ー!」

屋上の扉が勢いよく開く。

「もう! 探したよ!」

佳代さんは私を見るなり駆け寄ってきた。

「熱あるのに、こんなところまで来て……。」

安心したようにため息をついた佳代さんは、くるりと信の方を向く。

「信! あんたは後で説教だからね!」

「だから俺じゃねーって。」

信は呆れたように肩をすくめる。

「熱ある子を屋上に連れ出すなんて何考えてんの!」

「連れ出してねぇよ。」

「言い訳は後で聞く!」

「わ、私が……!」

思わず声を上げる。

二人が同時に私を見た。

「私が、自分で来ました……。」

佳代さんは目をぱちぱちと瞬かせる。

「え?」

「ギターの音が聞こえて……気づいたら、ここに……。」

そう言うと、佳代さんは大きくため息をついた。

「……まったく、二人とも心配させるんだから。」

そう言いながらも、その表情は少しだけ優しく緩んでいた。

「ほら、鈴。部屋戻るよ。」

「……はい。」

私は佳代さんに肩を支えられながら歩き出す。

ふと後ろを振り返ると、信先輩はケースにしまう前のギターをじっと見つめていた。

その横顔は、どこか悲しそうだった。

「気になるかい?」

佳代さんが私の視線に気付き、小さく笑う。

「え……?」

「あいつが昨日、ご飯に来なかった信だよ。」

「……信先輩。」

私は小さくその名前を口にした。

「信!」

佳代さんが声をかける。

「手、貸しな!」

「はいはい。」

信先輩は小さく返事をすると、ギターをケースにしまい、こちらへ歩いてきた。

「ほら。」

そう言って私の反対側に立つ。

「無理したら、蓮先輩に怒られるぞ。」

「え?」

思わず顔を上げる。

「お前、蓮先輩の妹だろ?」

「……はい。」

「だったらなおさらだ。」

信先輩はそれだけ言うと、私がふらつかないよう歩幅を合わせて歩き始めた。

佳代さんと信先輩に支えられながら、私は部屋まで送ってもらった。

「ありがとうございました。」

部屋へ入ろうとした私は、振り返る。

「信先輩。」

信先輩は足を止めた。

「また聞かせてください。」

私は小さく笑う。

「あなたの音。」

その言葉に、信先輩は一瞬だけ目を見開いた。

驚いたような表情は、すぐにどこか寂しそうな笑みに変わる。

「……今日はたまたまだ。」

そう呟くように言うと、ギターケースをぎゅっと握り直した。

「もう弾かない。」

その声は静かだった。

だけど、その一言はどこか自分に言い聞かせているようにも聞こえた。

私は何も言えず、ただ信先輩の背中を見つめることしかできなかった。


◇ 信 ◇

部屋の扉が閉まる音が、静かな廊下に響く。

俺はしばらくその扉を見つめたまま動けなかった。

「……あなたの音、か。」

小さく呟く。

「なんだ。」

不意に後ろから声がした。

「そんなこと言われたのか?」

振り返ると、佳代さんが口元に笑みを浮かべながら立っていた。

「……聞いてたんですか。」

「聞こえちゃったんだよ。」

佳代さんは肩をすくめる。

「いい子じゃないか。」

俺は何も答えず、視線をギターケースへ落とした。

「また弾いてみたくなったかい?」

その一言に、握っていた手へ自然と力が入る。

「……ならない。」

間を置いて答える。

「今日だけです。」

佳代さんは俺の顔をじっと見つめ、小さくため息をついた。

「頑固だねぇ。」

「……。」

「でもさ。」

佳代さんは優しく笑う。

「あの子は、あんたの過去なんて知らない。」

「知ってるのは、“きれいな音だった”ってことだけ。」

その言葉に、胸の奥が少しだけ痛んだ。

「……。」

俺は何も返せなかった。

ただ、鈴の言葉だけが何度も頭の中で響く。

『また聞かせてください。あなたの音。』

ギターケースを握る手に、少しだけ力が入る。

「……もう弾かない。」

誰に言うでもなく、そう呟いた。

その言葉が、自分に言い聞かせているように聞こえた。
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