初めて聞いた音
第4話 「音の余韻」

「もう弾かない。」

その言葉が、ずっと頭の中で繰り返されていた。

どれくらい時間が経ったのだろう。

コンコン。

「すー! 熱下がったかぁ? 入るでー!」

返事をする前に、勢いよく扉が開いた。

「すー! もう起き上がってえぇんか?」

「おい、悠! 鈴が返事する前に開けるな。」

蓮はそう言うと、悠の頭を軽く叩いた。

「痛っ!」

悠は頭を押さえながら蓮にぃを睨む。

「だって心配すぎて、授業終わってすぐ来たんやもん!」

そんな二人を見て、思わず笑みがこぼれる。

「ふふっ。」

「もう大丈夫。」

私はベッドの上で身体を起こし、二人に笑いかけた。

「熱も下がってきたし、さっきより身体も軽くなったから。」

「ほんまか?」

悠は私の額へ手を伸ばす。

「……うん、朝よりは下がっとるな。」

「だから大丈夫だって。」

「でも無理はあかん。」

悠は心配そうに眉を下げた。

「佳代さんから聞いた。」

蓮が口を開く。

「屋上まで行ったんだって?」

「あ……。」

思わず目を逸らす。

「ごめん。」

「謝ることじゃない。」

蓮は苦笑しながら私の頭を軽く撫でた。

「ただ、心配した。」

「……うん。」

「なんで屋上なんか行ったん?」

悠が首を傾げる。

私は少しだけ考えてから、小さく口を開いた。

「……外の空気、吸いたくて。」

今日あったことを隠すように、私はそう答えた。

「そっか。」

蓮はそれ以上、何も聞かなかった。

「でも、もう今日は部屋でゆっくりしろ。」

「せやせや。」

悠も大きく頷く。

「あ、その前に……お風呂入りたい。」

「汗でベトベトだし……。」

そう言うと、蓮が立ち上がった。

「そうだな。風呂まで案内してやるよ。」

「ほんまや!」

悠が嬉しそうに声を上げる。

「すー! ここの風呂、めっちゃでかいで!」

「そりゃ大浴場だからな。」

蓮はどこか得意げに笑う。

「しかも男女別だから、好きな時間に入れる。」

「へぇ……。」

寮に大浴場があるなんて知らなかった。

少しだけ楽しみになってきた。

「ほら、行くぞ。」

「うん!」

蓮たちに案内され、大浴場へ向かった。

初めて見る大浴場は想像していたよりも広くて、思わず見渡してしまった。

温かいお湯に浸かると、汗でベタついていた身体も、張りつめていた気持ちも少しずつほぐれていく。

部屋へ戻る頃には、身体がすっかり軽くなっていた。


「あんたたちー! ご飯できたから降りてきなー!」

佳代さんの元気な声が廊下に響く。

「はーい!」

返事をして、私は食堂へ向かった。

食堂へ入ると、蓮と悠が先に席について待っていた。

「すー! ここやで!」

悠に呼ばれ、私は二人の隣に座る。

「鈴、もう体調は大丈夫なのかい?」

佳代さんが心配そうに声をかけてくれた。

「はい。もう大丈夫です。ご心配をおかけしました。」

「それならよかった。」

佳代さんは安心したように微笑む。

そんな話をしていると、湊先輩と莉央先輩が食堂へ入ってきた。

「こんばんは。」

「こんばんは。」

二人はそう挨拶をして席につく。

佳代さんは食堂を見渡し、小さくため息をついた。

「今日も信は来ないのかい……。」

「いつものことですよ。」

蓮が落ち着いた声で答える。

「そうだね。それじゃ、いただこうか。」

「いただきます。」

佳代さんに続いて、五人で声をそろえた。

「鈴ちゃん、今日はちゃんと食べられそう?」

莉央先輩が優しく声をかけてくれる。

「はい。昨日より全然大丈夫です。」

「それならよかった。」

莉央先輩は安心したように微笑んだ。

「ほら、たくさん食べな。」

佳代さんが私の前に料理を並べる。

「ありがとうございます。」

「やっぱ佳代さんのご飯は最高やな!」

悠は嬉しそうに唐揚げを頬張る。

「昨日も同じこと言ってたね。」

湊先輩が笑うと、食堂には自然と笑い声が広がった。

そんな中、私はふと一つだけ空いた席へ目を向ける。

昼間、屋上で会った人。

信先輩。

「……。」

「鈴?」

蓮にぃの声で我に返る。

「ぼーっとしてどうした?」

「え? あ、ううん。何でもない。」

慌てて首を横に振る。

私は箸を手に取り、夕食を口へ運んだ。

その夜は久しぶりにぐっすり眠ることができた。

翌日。

「一日遅れの登校か……。」

制服に袖を通し、小さく深呼吸をする。

熱もすっかり下がった。

今日はちゃんと学校へ行ける。

支度を終え、部屋の扉を開けると、ちょうど向かいの部屋から信先輩が出てきた。

「あ、おはようございます。」

「……おはよう。」

信先輩は短く返事をする。

「信先輩、今日は学校に行くんですか?」

「今日は一年が部活見学する日だからな。」

信先輩は淡々と答えた。

「先輩たちに顔出せって言われただけ。」

「信先輩って、何部なんですか?」

少し迷ってから聞いてみる。

「……軽音部。」

やっぱり。

「今日の放課後、見学に行ってもいいですか?」

その言葉に、信先輩は少しだけ私を見た。

「別にいいけど。」

少し間を置いて、小さく付け加える。

「……俺は弾かない。」

そう言い残すと、信先輩は先に階段を下りていった。

私はその背中を見つめながら、小さく呟く。

「……やっぱり、軽音部なんだ。」

昨日、屋上で聞いたあの音。

「もう弾かない。」

そう言った信先輩の横顔が、頭から離れない。

私は小さく首を振る。

「……よし。」

考えていても仕方ない。

今日は一日遅れだけど、ちゃんと学校へ行こう。

そう思った、その時だった。

「すー! 早くしないと置いてくでー!」

廊下の向こうから、悠の元気な声が響く。

玄関へ向かうと、そこには制服姿の悠と蓮が待っていた。

「あ、ごめん! 今行く!」

私は急いで二人のもとへ駆け寄る。

「よし、行こか!」

三人で並んで寮を出る。

「そういえば、すー。」

悠が思い出したように口を開いた。

「今日、一年は部活見学の日なん知っとる?」

「うん。さっき聞いた。」

「え? 誰に?」

悠と蓮が不思議そうに私を見る。

「……信先輩。」

その名前を聞いた途端、蓮は少し驚いたように目を丸くした。

「信のやつ、学校来たのか。」

「今日は雨でも降るんじゃねーの?」

「もう、お兄ちゃん!」

思わずそう言うと、蓮は苦笑いを浮かべた。

「悪い悪い。それくらい珍しいってことだ。」

そんな他愛もない話をしているうちに、あっという間に学校へ着いた。

「すーと俺は同じクラスやから、またな! 蓮にぃ!」

「おう。頑張れよ。」

蓮と別れ、私は悠と教室の前までやってきた。

教室の扉を前にすると、急に胸がドキドキし始める。

「緊張してる?」

悠が私の顔を覗き込む。

「……ちょっと。」

「大丈夫やって!」

悠はにっと笑った。

「すーならすぐ友達できるで!」

「悠に励まされるなんてね。」

私は少しだけ笑いながら言う。

「なんやそれー!」

悠は頬を膨らませる。

「すーにからかわれたー!」

「蓮にぃに言いつけたる!」

「好きにしなよ。」

そんなやり取りをしているうちに、不思議と緊張は少しずつほぐれていった。

「ほな、行くで!」

悠は勢いよく教室の扉を開ける。

ガラガラッ。

「みんなー! おはようさーん!」

元気な声が教室中に響く。

一斉にクラスメイトたちの視線がこちらへ向く。

「……っ。」

思わず肩が跳ねた。

「ほら、すー!」

悠は何事もなかったように笑いながら教室へ入っていく。

「もう……。」

私は小さく笑うと、その後を追って教室へ足を踏み入れた。
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