初めて聞いた音
第5話 「扉の向こう世界」

「おー!藤原、おはよう!」

「藤原君、おはよー!」

教室へ入るなり、あちこちから悠を呼ぶ声が聞こえてきた。

「みんな、おはようさん!」

悠は手を振りながら笑顔で返事をする。

「……もう馴染んでる。」

昨日が初登校だったとは思えない。

コミュ力高すぎでしょ。

「すー。」

悠は私を手招きする。

「席、こっちな。」

私は悠の後について歩く。

「すーの席は窓側の一番後ろ。」

悠は一番後ろの席を指差した。

「ちなみに俺は、その一個前や。」

「昨日、先生が席替えしたんよ。」

「え?」

「『名前順って面白くないんだよなぁ』って言って、くじ引きで決めたん。」

「へぇ、そうだったんだ。」

私は自分の席を見つめる。

「でも、なんで悠の後ろなの?」

「知らん。」

悠は肩をすくめる。

「でも先生が、『黒川は一日遅れだし、藤原の近くの方が安心だろ』って言うてたで。」

「……そうなんだ。」

「ま、コミュ力高い俺がおるから安心やろ!」

悠は得意げに胸を張る。

「自分で言うんだ。」

思わず笑ってしまった。

「ほら、そこ笑うとこや!」

そんなやり取りをしながら席へ向かう。

私の隣には、一人の男の子が座っていた。

少し猫背で、暗めの赤に染めた髪が目を引く。

私が席に座ると、その子は少し照れくさそうに笑った。

「初めまして。」

「僕、早乙女茜。よろしくね。」

「あ、私は黒川鈴です。」

「よろしくお願いします。」

その時だった。

「おー!茜、おはようさん!」

悠がいつもの調子で声をかける。

「藤原君、おはよう。」

茜も小さく笑って返事をした。

それから私の方へ視線を向ける。

「黒川さん。」

「はい。」

「昨日は休んでたって聞いたけど、もう体調は大丈夫?」

「はい。もうすっかり元気です。」

「それならよかった。」

茜は安心したように微笑んだ。

「分からないことがあったら、何でも聞いてね。」

「ありがとうございます。」

初めての教室。

少し緊張していたけれど、その一言だけで肩の力が少し抜けた気がした。

キーンコーンカーンコーン。

授業開始のチャイムが鳴り、担任の先生が教室へ入ってくる。

「それじゃあ、ホームルームを始めるぞ。」

一日遅れの高校生活。

最初は不安だったけれど、授業は思っていたよりもあっという間に過ぎていった。

気づけば昼休みも終わり、午後の授業も終わる。

キーンコーンカーンコーン。

放課後を知らせるチャイムが校内に響いた。

「終わったー!」

悠は大きく伸びをする。

「すー! 一緒にバスケ部行こ!」

私はカバンを持ちながら、小さく首を横に振った。

「ごめん。」

「今日はちょっと見に行きたいところがあるの。」

「そっか!」

悠はにっと笑う。

「ほな、また暁寮で!」

「うん。またあとで。」

悠は手を振ると、茜たちと一緒に教室を出ていった。

私はその背中を見送り、小さく息を吐く。

「……よし。」

私はカバンを持ち直し、一人、教室を後にした。

私は教室を出ると、校内を見渡した。

「……軽音部。」

どこにあるんだろう。

部活見学の案内はもらったけれど、校舎のことはまだほとんど分からない。

廊下を歩きながら辺りを見回す。

「……あれ?」

気付けば、人気の少ない廊下まで来てしまっていた。

「こっちじゃないのかな……。」

来た道を戻ろうと振り返った、その時だった。

「何してんの。」

聞き覚えのある声がした。

振り向くと、ギターケースを肩に掛けた信先輩が立っていた。

「あっ、信先輩。」

「迷ったのか?」

少し恥ずかしくなって、小さく頷く。

「軽音部がどこか分からなくて……。」

信先輩は少しだけため息をついた。

「……こっち。」

それだけ言うと、歩き始める。

「あ、ありがとうございます!」

私は慌ててその後を追いかけた。

信先輩の後ろを、私は静かについて歩く。

廊下には、私たちの足音だけが響いていた。

何か話した方がいいのかな。

そう思って口を開きかける。

でも、何を話せばいいのか分からない。

結局、そのまま言葉は出なかった。

信先輩も何も話さない。

だけど、不思議と気まずくはなかった。

ただ静かに、二人で廊下を歩いていく。

しばらく歩くと、信先輩が足を止めた。

「ここ。」

そう言って視線を向けた先には、一枚のプレートが掛かっていた。

『軽音部』

「あ、ありがとうございます。」

「……うん。」

信先輩は短く返事をすると、そのまま踵を返した。

「あの。」

思わず声をかける。

「信先輩、部室に入らないんですか?」

「顔は出した。」

信先輩は振り返ることなく答える。

「もう帰る。」

その時だった。

ガラガラッ!!

勢いよく部室の扉が開いた。

「ようこそー!!軽音部へ!!」

そこに立っていたのは、少し明るめの茶髪を無造作にセットした、高身長の男の人だった。

制服もどこか着崩していて、一見すると軽そうな雰囲気なのに、その笑顔は不思議と人を安心させる。

「ひゃっ!」

驚いた私は思わず尻もちをついた。

「あっ、ごめんごめん!」

男の人は慌てて私に手を差し伸べる。

「びっくりさせちゃった?」

「ちょっと晴先輩!」

部室の奥から少し強めの声が飛んできた。

姿を現したのは、肩まで伸びた黒髪を揺らした綺麗な女の人。

ぱっちりとした目元が印象的で、どこか大人っぽい雰囲気をまとっている。

「何、新入生驚かせてるんですか!」

そう言いながら私の前にしゃがみ込む。

「大丈夫?」

「は、はい……。」

その時、晴先輩は信先輩に気付いた。

「あれ? 信もいるじゃん!」

「もう帰ったのかと思ってた!」

「こいつが迷ってた。」

信先輩は私を軽く指差した。

「案内しただけ。」

「じゃ。」

「もぉー!」

晴先輩は信先輩の肩に腕を回そうとする。

「たまにはゆっくりしていけばいいじゃん!」

「晴先輩。」

信先輩は一歩横へ避けた。

「うざいんで離れてください。」

「えぇー!」

晴先輩は大げさに肩を落とす。

「聞いた!? 美月!」

「信ちゃんが冷たい!」

美月先輩はため息をつきながら笑った。

「晴先輩が絡みすぎなんですよ。」

部室には自然と笑い声が広がった。

私はそんな三人のやり取りを、ただ静かに見つめていた。

「……じゃ。」

信先輩はそう言うと、部室を出ようと踵を返す。

「おっと。」

次の瞬間、晴先輩は信先輩のパーカーのフードをひょいっと掴んだ。

「逃がさないよー。」

「……。」

信先輩は足を止めたまま、小さくため息をつく。

「離してください。」

「やだ。」

晴先輩は悪戯っぽく笑う。

「せっかく新入生が来たんだから、ちゃんと紹介くらいしていきなさい。」

「顔は出しました。」

「それは出席確認!」

「……。」

信先輩はもう一度ため息をついた。

どうやら、このやり取りはいつものことらしい。

「晴先輩。」

「ん?」

「うざいです。」

「ひどっ!」

晴先輩は胸を押さえ、大げさによろける。

「聞いた!? 美月!」

「信ちゃんが冷たい!」

美月先輩は呆れたように肩をすくめた。

「晴先輩が絡みすぎなんですよ。」

「えぇー? 愛情表現なのに!」

「その愛情表現、迷惑です。」

信先輩は真顔で言い切る。

「相変わらず素直じゃないなぁ。」

晴先輩は笑いながら信先輩のフードを離すと、今度は私の方へ向き直った。

「あっ、ごめんごめん!」

「俺たちだけで盛り上がっちゃったね。」

そう言って、にっと笑う。

「改めまして!」

「俺は一ノ瀬晴! 三年で軽音部の部長!」

「担当はドラム!」

「よろしく!」

勢いよく差し出された手に少し戸惑いながらも、私はその手を握った。

「あ、黒川鈴です。」

「よろしくお願いします。」

「黒川……?」

晴先輩は一瞬きょとんとしたあと、ぱっと表情を明るくした。

「黒川って、もしかして蓮の妹!?」

「はい。」

「やっぱりか!」

「蓮から妹が入学するって聞いてたんだよ!」

「まさか軽音部に来るとは思わなかった!」

「え?」

思わず目を丸くすると、晴先輩は嬉しそうに笑った。

「蓮とは仲良しなんだ!」

「だから妹にも会ってみたいなって思ってたんだよ!」

晴先輩は嬉しそうに笑った。

「でもさ、なんで軽音部?」

「蓮はバスケ部だろ?」

突然の質問に、私は少しだけ言葉に詰まる。

「えっと……。」

自然と視線が信先輩の方へ向いた。

信先輩は相変わらず無表情で立っている。

「……信先輩の音が。」

思わず口からこぼれた。

「え?」

晴先輩も美月先輩も目を丸くする。

「屋上で聞いたギターの音が、すごく綺麗で……。」

私は少し照れくさくなって俯いた。

「だから、もう一度聞きたくて。」

部室が静かになる。

その静けさを破るように、信先輩が小さく口を開いた。

「だから。」

「俺はもう弾かねぇ。」

その声は昨日と同じように、どこか寂しそうだった。

「……それでも。」

私は顔を上げる。

「私の中では、あの音が初めてだったんです。」

「初めて『もう一度聞きたい』って思った音だったんです。」

信先輩は何も言わない。

ただ、少しだけ目を伏せた。

「信、お前……弾いたのか?」

晴先輩が少し驚いたように信先輩を見る。

部室の空気が一瞬だけ静かになった。

「……たまたまっすよ。」

信先輩は視線を逸らしたまま、小さく答える。

「佳代さんに言われたんです。」

「『ちょっと佳代さんに言われて、久しぶりに弾いただけ。』って。」

「だから、一回だけ。」

それだけ言うと、信先輩は口を閉ざした。

「……そっか。」

晴先輩はそれ以上何も聞かなかった。

私はそのやり取りを静かに聞いていた。

『ちょっと佳代さんに言われて、久しぶりに弾いただけ。』

あの時言っていた事

「よし!」

晴先輩はパンッと手を叩いた。

「せっかくだし、信もいることだし、久しぶりに一曲やるか!」

部室の空気が少し明るくなる。

だけど。

「俺の音なんか、なくてもいいっすよ。」

信先輩は小さく呟いた。

その一言に、部室が静まり返る。

「……え。」

思わず声が漏れた。

信先輩は何事もなかったかのように続ける。

「俺が弾かなくても、この部は困らないですから。」

「信先輩……。」

気づけば私は信先輩を見つめていた。

胸の奥が熱くなる。

屋上で聞いた、あのギターの音。

そして、中学三年の夏。

私の心を初めて動かした、あの日の音。

「そんなこと……ありません。」

私の声に、信先輩がゆっくりとこちらを見る。

「私にとって、信先輩の音は心に響いたんです。」

自然と一歩前へ出ていた。

「あの音は……。」

「私にとって、大切な音なんです。」

少しずつ声が震える。

「だから……。」

私は信先輩を真っすぐ見つめた。

「弾いた本人が、その音を否定しないでください。」

誰も何も言わない。

部室には静寂だけが流れていた。

その沈黙の中で、私はようやく我に返る。

「……あ。」

何言ってるんだろう、私。

まだ出会って数日しか経っていないのに。

信先輩のことなんて、何も知らないのに。

「す、すみません……!」

私は深く頭を下げる。

「言い過ぎました……。」

そのまま踵を返し、逃げるように部室を飛び出した。

「鈴ちゃん!」

後ろから晴先輩の声が聞こえた。

だけど、振り返ることはできなかった。

今はただ、この場から逃げたかった。

部室の扉が閉まる音が、静かに響いた。

信は、その後ろ姿を追いかけようとはしなかった。

「信。」

晴先輩が静かに口を開く。

「……あれは、お前が悪い。」

「……。」

信は何も答えない。

「俺じゃなくても、同じこと言ってますよ。」

ぽつりと呟く。

晴先輩は小さく首を横に振った。

「それを決めるのは、お前でも俺でもない。」

少し間を置いて続ける。

「鈴ちゃん本人だよ。」

信は黙ったまま床へ視線を落とす。

部室に重たい沈黙が流れた。

その空気を和らげるように、透が静かに口を開いた。

「……それにしても。」

「いい子だね、あの子。」

信は少しだけ目を細める。

「……知ってる。」

短く返したその一言に、部室は再び静かになった。


どれくらい走ったんだろう。

気付けば私は、暁寮の玄関の前まで来ていた。

「はぁ……。」

胸が苦しい。

息が苦しいんじゃない。

さっき、自分が言った言葉が何度も頭の中で繰り返される。

『弾いた本人が、その音を否定しないでください。』

「私……。」

「言い過ぎちゃったな……。」

私は小さく息を吐き、玄関の扉を開けた。

「ただいま……。」

「おっ、誰か帰ってきたねー。」

食堂から佳代さんの明るい声が聞こえてくる。

だけど私は返事もできず、その場に立ち尽くしていた。

「あれ?」

佳代さんが玄関まで顔を出す。

「鈴?」

私の顔を見るなり、その表情が少しだけ真剣になった。

「どうしたんだい。」

「何かあったのかい?」

少しの沈黙のあと、私はゆっくり口を開いた。

「信先輩に……言い過ぎちゃって。」

「おや。」

佳代さんは優しく微笑む。

「とりあえず上がりな。」

私は食堂の椅子に腰を下ろし、今日あった出来事を最初から最後まで話した。

佳代さんは一度も口を挟まず、静かに聞いてくれた。

話し終えると、佳代さんは少しだけ俯き、

「……ふっ。」

と笑った。

「あははは!」

突然笑い出した佳代さんに、私は思わず目を丸くする。

「か、佳代さん?」

「信に言い過ぎたって言うから、どんなことかと思ったよ。」

佳代さんは笑いながら首を横に振った。

「でもね、鈴。」

「あんたは何も悪くない。」

「好きなものを大切だと思う気持ちも、好きなことを否定されて腹が立つ気持ちも、どっちも当たり前なんだよ。」

「だから、自分を責める必要なんてないさ。」

私は佳代さんの言葉を静かに聞いていた。

「ただね……。」

佳代さんは少しだけ表情を和らげる。

「信にも、信なりの理由があるんだろうね。」

「理由……ですか?」

「うん。」

佳代さんは優しく頷いた。

「でも、それは私の口から話すことじゃない。」

「いつか信本人が話したいと思った時に、聞いてあげな。」

「その時まで、待ってあげるのも優しさだから。」

私は小さく頷いた。

「……はい。」

佳代さんはにっこり笑うと、私の頭をぽんっと軽く撫でた。

「さっ、今日はみんな遅いから先にご飯にしよう。」

「今日は鈴の好きなハンバーグだよ。」

その一言に、思わず小さな笑みがこぼれた。

「……ありがとうございます。」

「よし!」

佳代さんは満足そうに頷く。

「その顔が見たかったんだ。」

二人で食卓に並び、手を合わせる。

「いただきます。」

「いただきます。」

ふわっと湯気の立つハンバーグを一口頬張る。

「……おいしい。」

自然とそんな言葉が漏れた。

「でしょ?」

佳代さんは嬉しそうに笑う。

「落ち込んだ時は、お腹いっぱい食べて、いっぱい寝る。」

「そうすりゃ、明日は今日より少しだけ前を向けるもんさ。」

私は静かに頷いた。

「……はい。」

ご飯を食べ終え、食器を片付ける。

「ごちそうさまでした。」

「はい、お粗末さま。」

佳代さんにお礼を言うと、私は自分の部屋へ戻った。

制服から部屋着に着替え、ベッドへ腰を下ろす。

静かになった部屋で、一人天井を見つめた。

『弾いた本人が、その音を否定しないでください。』

自分の言葉が頭の中で何度も繰り返される。

「また……言い過ぎちゃったな。」

枕を抱き寄せ、小さくため息をつく。

信先輩にも、信先輩なりの理由がある。

それなのに、私は何も知らずにあんなことを言ってしまった。

「……明日。」

私はぎゅっと枕を抱きしめる。

「ちゃんと謝ろう。」

そう心に決めると、ゆっくり布団へ潜り込んだ。

窓の外では、小さな虫の鳴き声が聞こえている。

少しだけ軽くなった心のまま、私は静かに目を閉じた。
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