初めて聞いた音
第6話 「失った音」
朝の学校は、まだ静かだった。
ガラガラ。
軽音部の扉を開ける。
誰もいない部室。
朝日が窓から差し込み、静かな空気だけが流れている。
部屋の奥。
一台のキーボードが置かれていた。
誰も触れていないはずなのに、今でもそこにある。
俺はゆっくりとその前まで歩いた。
「……詩音。」
小さく名前を呼ぶ。
返事はない。
当たり前だ。
もう二度と、その声が返ってくることはないのだから。
俺はそっと鍵盤へ手を伸ばす。
あと少し。
その距離が、どうしても遠かった。
「……クソ。」
思わず吐き捨てるように呟く。
伸ばした手は小さく震えていた。
俺は慌ててキーボードから手を離す。
「……っ。」
頭の中に、あいつの笑い声が響く。
『信ー!』
『しーん!』
『ほら、ぼーっとしてないで練習するよ!』
「……。」
俺はゆっくりと目を閉じた。
次に目を開けた時、そこは今の静かな部室じゃなかった。
「晴ー! ドラム走ってるー!」
「ご、ごめんって詩音先輩!」
「あはは! 晴は昔から変わらないなぁ!」
部室いっぱいに笑い声が広がる。
窓から差し込む夕日。
楽しそうに鍵盤へ指を走らせる一人の先輩。
日々野詩音。
俺が、初めて「音って楽しい」と思えた人だった。
「よぉーし!」
詩音先輩は大きく手を叩いた。
「今日はここまで!」
「はーい!」
四人は声を揃えて返事をする。
演奏を終え、それぞれ楽器を片付け始めた。
部室には今日も笑い声が響いていた。
片付けを終え、みんなで校門へ向かう。
校門を出たところで、詩音先輩がくるりと振り返った。
「ねぇ!」
「今日みんなで寄り道しよ!」
「出た。」
晴先輩は苦笑いを浮かべる。
「詩音先輩の寄り道。」
「なに?」
詩音先輩は頬を膨らませる。
「文句あるの?」
「別に文句じゃないですよ!」
晴先輩は肩をすくめて笑った。
「ならよし!」
詩音先輩は満足そうに頷くと、私たちを見回した。
「信、美月ちゃん、透くんもいい?」
「詩音先輩に誘われたら、私断れませーん!」
美月先輩は笑顔で手を挙げる。
「俺も用事ないんで大丈夫です。」
透も短く答えた。
「信は?」
突然名前を呼ばれ、私は顔を上げる。
「ん?」
「俺も別に用事ないっす。」
「よし!」
詩音先輩は満面の笑みを浮かべた。
「じゃあ今日は楽器屋さん行こ!」
「新しいピックも見たいし、キーボードも見たいんだよね!」
「また買うんですか?」
晴先輩が呆れたように笑う。
「見るだけ!……たぶん!」
「絶対買うじゃないですか。」
「えへへ。」
その笑顔につられて、みんなが笑った。
あの頃は、それがずっと続くと思っていた。
そんなある日の帰り道。
夕焼けに染まる河川敷。
私は歩みを止め、詩音先輩を呼び止めた。
「詩音先輩。」
「ん?」
振り返った詩音先輩は、いつもと変わらない笑顔だった。
「俺……。」
胸がうるさいくらい鳴る。
「詩音先輩が好きです。」
少しの沈黙。
やがて詩音先輩は、優しく微笑んだ。
「……ありがとう、信。」
その笑顔は、夕焼けよりもずっと綺麗だった。
「よろしくね。」
「これからも、一緒に音楽を楽しもう。」
「詩音ー!待ってって!」
「信が遅いの!」
詩音は振り返り、笑いながら手を振る。
「早く!」
「別に早く行ったって変わんねぇーよ。」
俺は苦笑しながら肩をすくめた。
「もー!」
詩音は頬を膨らませる。
「信はいっつもそんなことばっかり!」
「怒んなって。」
俺は小さく笑って、詩音の隣へ並んだ。
「ほら、あとちょっとだから。」
「行こ。」
「……うん!」
さっきまで膨れていた顔はどこへやら。
詩音は嬉しそうに笑った。
その笑顔を見るたび、自然と俺まで笑ってしまう。
休日になれば、二人でライブを見に行った。
新しいCDを探しに楽器屋へ寄った。
帰り道に気になっていた店でご飯を食べたり、何も決めず海まで足を運んだりもした。
どれも特別なことじゃない。
ただ、一緒に笑って、一緒に音楽を聴いて、一緒に同じ景色を見て。
そんな何気ない毎日が、俺にとっては何より大切な時間だった。
「ねぇ、信。」
海辺の堤防に座りながら、詩音が空を見上げた。
夕日がゆっくりと海へ沈んでいく。
「ん?」
「将来さ。」
詩音は膝を抱えたまま笑う。
「みんなでプロになれたら楽しそうだよね。」
「晴はドラム叩いて。」
「透くんはベース弾いて。」
「美月ちゃんが歌って。」
「信がギター弾いて。」
「私はキーボード。」
「最高じゃん。」
詩音は目を輝かせながら言った。
「……そうだな。」
俺も自然と笑っていた。
「絶対楽しい。」
「ライブ終わったらみんなでご飯行ってさ。」
「ファンの人にサインなんか頼まれちゃったりして!」
「考えすぎ。」
「夢くらい大きくていいじゃん!」
詩音は笑いながら俺の肩を軽く叩く。
「信。」
「ん?」
「信のギターってね。」
詩音は優しく微笑んだ。
「人の心に届く音なんだよ。」
「だから、自信持ちな。」
「……。」
照れくさくて、何も返せなかった。
「ほら。」
詩音は立ち上がり、俺に手を差し出す。
「帰ろ!」
「明日も部活あるし!」
「……はいはい。」
その手を取る。
当たり前のように隣を歩く。
あの頃は、本気で信じていた。
こんな毎日が、これからもずっと続くものだと。
だけど。
その”当たり前”は、ある日突然終わりを迎えた。
それから数日が過ぎた。
「あれ?」
晴先輩が部室を見回す。
「詩音先輩、全然来ないね。」
「信、なんか聞いてないの?」
「……聞いてない。」
俺は首を横に振る。
「ただ、『明日から少し休む』としか。」
「体調でも崩したのかな。」
美月先輩は心配そうに呟く。
「詩音先輩、あんまり休む人じゃないもんね。」
「……あぁ。」
嫌な予感がした。
でも、その時はまだ深く考えていなかった。
「よし!」
晴先輩が立ち上がる。
「今日、みんなでお見舞い行こう!」
「あり!」
美月先輩は勢いよく手を挙げた。
「詩音先輩、きっと喜びますよ!」
「俺も行く。」
透も短く頷く。
俺たちは部活を早めに切り上げ、そのまま詩音先輩の家へ向かった。
ピンポーン。
しばらくして玄関の扉が開く。
「はい。」
出てきたのは、詩音先輩のお母さんだった。
どこかやつれた表情をしている。
「あの。」
美月先輩が一歩前へ出る。
「私たち、詩音先輩の後輩なんです。」
「お見舞いに来ました。」
その言葉を聞いたお母さんは、少しだけ寂しそうに微笑んだ。
「ありがとう。」
「でも……。」
その表情はすぐに曇る。
「あの子なら、家にはいないの。」
「え……?」
晴先輩が目を丸くする。
「やっぱり言って無いのねあの子」
お母さんは私たちを見つめ、小さく息をついた。
「あの子、今……入院しているの。」
その一言だけで、胸がざわついた。
「実はね。」
「少し前に、癌が見つかったの。」
「……え。」
誰も言葉を発せなかった。
「本人が、『みんなにはまだ言わないで』って。」
「心配かけたくないからって。」
お母さんの声は少しずつ震え始める。
「ごめんなさいね……。」
「……は?」
頭が真っ白になった。
何を言われたのか理解できない。
癌?
入院?
どうして。
どうして俺には何も言ってくれなかった。
恋人なのに。
『少し休むね。』
あの時の笑顔が頭に浮かぶ。
全部、嘘だったのか。
いや。
嘘じゃない。
隠していたんだ。
俺たちを心配させないために。
誰も言葉を発せなかった。
さっきまで聞こえていた車の音も、人の話し声も、全部遠くに感じる。
「……そんな。」
美月先輩が小さく呟く。
晴先輩は何かを言おうと口を開くが、言葉にならなかった。
透もただ黙ったまま立ち尽くしている。
詩音先輩のお母さんは、そんな私たちを見て申し訳なさそうに頭を下げた。
「ごめんなさいね。」
「本当は私も、すぐにみんなには伝えたかったの。」
「でも、あの子が……。」
『絶対に言わないで。』
『みんなに心配かけたくないから。』
『特に信には。』
その言葉を聞いた瞬間、心臓が大きく跳ねた。
「……なんで。」
気づけば声が漏れていた。
「なんで俺にまで……。」
お母さんはゆっくり首を横に振る。
「あの子ね。」
「『信は優しいから、全部投げ出して私のそばに来ちゃう』って言ってたの。」
「だから、最後まで言えないって。」
「そんなの……。」
そんなの、勝手すぎる。
俺は何も知らずに昨日まで笑っていた。
「信。」
晴先輩がそっと肩に手を置く。
「……病院、行こう。」
俺は何も答えられなかった。
ただ、小さく頷くことしかできなかった。
病院へ向かう道のりは、不思議なくらい静かだった。
誰も口を開かない。
いつもなら晴先輩が何か面白いことを言って笑わせてくれる。
美月先輩がそれにツッコミを入れて、透が小さく笑う。
そんな帰り道が当たり前だった。
でも今日は違った。
誰も笑わない。
誰も前を向けない。
俺の頭の中では、詩音の笑顔だけが何度も浮かんでは消えていく。
『信!』
『またライブ行こ!』
『信のギター、大好き。』
「……。」
気づけば拳を強く握りしめていた。
どれくらい歩いただろう。
大きな総合病院の前で、晴先輩が足を止める。
「……ここか。」
俺たちはゆっくりと病院の中へ入った。
消毒液の匂いが鼻をつく。
受付で病室を聞き、エレベーターへ乗り込む。
誰一人、言葉を発しなかった。
チン。
静かな音とともに扉が開く。
病室が並ぶ長い廊下。
一歩、一歩。
足を進めるたびに胸が苦しくなる。
「ここ……。」
晴先輩が病室のプレートを見つめ、小さく呟いた。
『日々野 詩音』
その名前を見た瞬間、足が止まる。
「信。」
晴先輩が俺を見る。
「……入るぞ。」
俺はゆっくりと頷いた。
ガラッ。
静かに扉を開ける。
窓際のベッドに座っていた詩音は、少し痩せた頬と、腕に繋がれた点滴だけが、現実を突きつけていた。
俺は何も言えなかった。
ただ、詩音を見つめることしかできなかった。
「え?なんでみんな居るの?まさか!」
「あーあ。」
詩音先輩は困ったように笑った。
「言わないでって、お母さんにお願いしてたのになぁ。」
「もう、お母さんったら。」
いつもと変わらない笑顔。
いつもと変わらない声。
だけど、その笑顔が今は苦しかった。
「詩音。」
気付けば俺は一歩前へ出ていた。
「なんで。」
声が震える。
「なんで俺にも言わなかったんだよ。」
病室が静まり返る。
詩音先輩は少しだけ目を伏せ、小さく笑った。
「だって。」
「信、絶対泣くじゃん。」
「……。」
「部活もギターも放り出して、毎日ここに来ちゃいそうだし。」
「そんなこと……。」
「するよ。」
詩音先輩は俺の言葉を遮るように言った。
「信はそういう人だから。」
俺は何も言い返せなかった。
詩音先輩は優しく微笑む。
「だから言えなかった。」
「……。」
「信はね。」
少しだけ寂しそうな顔をする。
「きっと私なんかより、もっと素敵な人に出会える。」
「だから……。」
「話を逸らすなよ。」
思わず声を荒げてしまった。
「そんな話、今してねぇだろ。」
「俺が聞きたいのは、なんで一人で抱え込んだのかってことだよ。」
詩音先輩の笑顔が、少しだけ崩れた。
病室に静かな沈黙が流れる。
詩音先輩は窓の外へ視線を向け、小さく息を吐いた。
「……怖かったの。」
その一言は、今にも消えてしまいそうなくらい小さな声だった。
病室に静かな時間が流れる。
詩音は窓の外を見つめたまま、ゆっくりと口を開く。
「最初はね。」
「すぐ治るって思ってた。」
「またみんなと部活して。」
「また信と一緒に音を合わせられるって。」
詩音は少しだけ笑う。
「でもね。」
「検査をするたびに、先生の話を聞くたびに……。」
「少しずつ分かっちゃった。」
その笑顔が、少しだけ寂しく見えた。
「私ね。」
「みんなの夢まで止めちゃうんじゃないかって。」
「それが、一番怖かった。」
誰も言葉を挟まない。
晴も、美月も、透も、ただ黙って詩音の話を聞いていた。
「だから言えなかった。」
「信は優しいから。」
詩音は俺を見つめる。
「私は、信に笑ってギターを弾いていてほしかった。」
「だから隠したの。」
「……。」
俺は拳を強く握りしめる。
何も言えない。
言葉が出てこない。
詩音は少しだけ目を細め、優しく笑った。
「信がギターを弾けなくなるのが、一番怖かった。」
その一言が、胸の奥へ深く突き刺さる。
俺はゆっくりと首を横に振った。
「そんなこと……。」
「絶対ない。」
言い切った。
その時の俺は、本気でそう思っていた。
まさか。
その約束を、自分で破る日が来るなんて。
あの頃の俺は、まだ知らなかった。
それからというもの、俺たちは毎日のように病院へ通った。
部活が終われば晴先輩、美月、透と一緒に病室へ向かう。
「みんな来た!」
詩音はいつもと変わらない笑顔で迎えてくれた。
「今日は部活どうだった?」
「晴、ちゃんとリズムキープできた?」
「美月ちゃん、歌は?」
「透くん、また無口だった?」
「信、ちゃんとギター弾いてる?」
病室なのに、そこだけはいつもの部室みたいだった。
みんなで笑って。
たわいない話をして。
音楽の話で盛り上がる。
誰も口には出さなかった。
“またみんなで演奏しよう。”
その言葉は、みんなの心の中にあった。
だけど。
少しずつ。
本当に少しずつ。
詩音は病室のベッドから起き上がることが少なくなっていった。
笑顔は変わらない。
でも。
頬は少しずつ痩せていき。
腕も細くなっていく。
「詩音……。」
その姿を見るたび、胸が締めつけられた。
ある日。
晴先輩、美月、透はそれぞれ用事があると言って、先に帰った。
「じゃあ信、また明日な」
「詩音先輩、またね」
「無理しないでくださいね」
病室に残ったのは、俺と詩音だけだった。
静かになった病室で、詩音はゆっくりと俺を見つめた。
「信。」
「……ん?」
詩音は小さく息を吸う。
「信、別れよ。」
「……は?」
突然の言葉に、頭が真っ白になる。
「なんだよ、急に。」
詩音は無理に笑顔を作った。
「信はまだ高校一年生だから。」
「きっと私なんかより、もっといい人いるよ。」
「ふざけんなよ。」
思わず声が大きくなる。
「俺は別れない。」
詩音は少しだけ目を伏せる。
「……じゃあ。」
「他に好きな人ができたから別れて。」
「なんだよ、それ。」
「嘘つくなって。」
「……。」
詩音は何も答えない。
その沈黙が、余計に胸を締めつける。
「嘘でもつかないと……。」
詩音の声が少しだけ震えた。
「信は別れてくれないでしょ……。」
目には涙が浮かんでいた。
「だから。」
「最後のお願い、聞いてよ。」
「最後ってなんだよ。」
その言葉に、詩音の肩が小さく震える。
俺はそれ以上、その場にいることができなかった。
「……っ。」
俺は病室を飛び出した。
ガラッ。
勢いよく閉まった扉の音だけが、静かな廊下に響く。
「はぁ……。」
頭の中がぐちゃぐちゃだった。
『信、別れよ。』
『最後のお願い、聞いてよ。』
「……。」
なんでだよ。
なんでそんなこと言うんだよ。
俺はそのまま病院を飛び出した。
外はもう暗くなっていた。
冷たい夜風が頬をかすめる。
それでも頭の中には、詩音の言葉だけが何度も繰り返されていた。
家へ帰っても、何も手につかなかった。
制服のままベッドへ倒れ込む。
天井を見つめながら、小さく呟いた。
「……最後って、なんだよ。」
目を閉じても眠れない。
詩音の笑顔。
詩音の涙。
病室で震えていた声。
全部が頭から離れなかった。
「明日。」
「明日ちゃんと謝ろう。」
「ちゃんと話を聞こう。」
「そしたらきっと、また笑ってくれる。」
そう自分に言い聞かせるように呟き、いつの間にか眠りについていた。
翌朝。
ピリリリリ。
スマホの着信音で目が覚める。
画面には、
『日々野さん』
と表示されていた。
「……もしもし。」
電話の向こうから聞こえてきたのは、昨日とは違う、震えた声だった。
『信くん……。』
『ごめんね、朝早くに。』
「どうしたんですか?」
嫌な予感が胸を締めつける。
短い沈黙。
そして、お母さんは涙を堪えるように声を震わせた。
『詩音が……。』
『さっき、息を引き取ったの。』
「……え。」
その一言が理解できなかった。
頭の中が真っ白になる。
『昨日の夜ね。』
『信くんのこと、ずっと呼んでたよ。』
スマホを握る手から力が抜ける。
「嘘……。」
信じたくなかった。
だって、喧嘩して飛び出したまま、ちゃんと向き合えないまま終わっただけだった。
「詩音……?」
俺は急いで病院へ向かった。
靴ひもがほどけても構わず走る。
信号なんて目に入らない。
息が苦しい。
足が痛い。
それでも止まれなかった。
「あんな最後……。」
「俺は望んでねぇよ……。」
頭の中では、昨日の出来事が何度も繰り返される。
『信、別れよ。』
『最後のお願い、聞いてよ。』
「違う……。」
「ちゃんと謝るんだ。」
「ちゃんと話すんだ。」
「だから……。」
気づけば病院へ着いていた。
エレベーターへ飛び乗り、震える指で階数のボタンを押す。
チン。
扉が開く。
俺は病室まで駆け出した。
「はぁ……はぁ……。」
病室の前で息を整える暇もなく、勢いよく扉を開ける。
ガラッ。
そこには。
ベッドを囲む詩音のお母さん。
晴先輩。
美月。
透。
四人が静かに立っていた。
誰一人、顔を上げない。
「……。」
「なんだよ。」
誰も答えない。
「嘘だろ。」
乾いた笑いが漏れる。
「どうせ昨日言い過ぎたから……。」
「詩音が考えたドッキリなんだろ?」
「なぁ。」
「そうなんだろ?」
返事はない。
静かな病室に、心電図の音ももう聞こえなかった。
その静けさだけが、残酷な現実を突きつけていた。
「……詩音。」
俺はゆっくりとベッドへ近づく。
一歩。
また一歩。
足が鉛のように重い。
「起きろよ。」
「こんなの全然面白くねぇよ。」
震える手をそっと伸ばす。
詩音の手に触れた瞬間、息が止まった。
「……っ。」
冷たい。
昨日まで握り返してくれた温もりは、もうどこにもなかった。
「なんで……。」
喉の奥が熱くなる。
「昨日……。」
「俺、あんな終わり方したくて帰ったわけじゃねぇんだよ。」
返事はない。
「ちゃんと謝るつもりだった。」
「今日また来て。」
「話の続きをするつもりだった。」
「だから……。」
「起きろよ。」
どれだけ名前を呼んでも。
どれだけ願っても。
詩音は静かに眠ったままだった。
膝から力が抜け、その場に崩れ落ちる。
「ごめん……。」
昨日、病室を飛び出した自分が頭から離れない。
『最後のお願い、聞いてよ。』
あの言葉だけが、何度も何度も胸に突き刺さる。
「信くん。」
詩音のお母さんが涙を拭いながら、ゆっくり俺の隣へ来た。
「これ……。」
一通の封筒を俺に差し出す。
「詩音がね。」
「もしもの時は、信くんに渡してほしいって。」
俺は震える手で封筒を受け取った。
表には、見慣れた優しい字で書かれている。
『信へ』
「……。」
封筒を見つめる。
開かなきゃ。
そう思うのに、指が動かなかった。
今これを読んだら。
本当に詩音がいなくなったことを認めてしまう気がした。
俺は何も言わず、その封筒を胸に抱きしめた。
――それ以来。
俺は一度も、その手紙を開いていない。
「……。」
ゆっくりと目を開ける。
目の前には、誰もいない軽音部の部室。
朝日が窓から差し込み、静かな空気だけが流れていた。
さっきまで触れようとしていたキーボードは、今もあの日と変わらず部屋の奥に置かれている。
「詩音……。」
小さく名前を呼ぶ。
返事はない。
返ってくるはずもない。
俺はギターケースのポケットにそっと手を入れる。
指先が触れたのは、少しくしゃくしゃになった一通の封筒。
何度も持ち歩いて。
何度も開こうとして。
そのたびに閉まったままになっている。
表には、今でも変わらない詩音の字。
『信へ』
「……まだ。」
「読めねぇよ。」
小さく呟くと、封筒をポケットへ戻した。
その時だった。
ガラガラ。
静かな部室に、扉の開く音が響く。
「……あ。」
振り返ると、そこには鈴が立っていた。
少し緊張した表情で、俺を見つめている。
「あの……。」
鈴は深く頭を下げた。
「昨日は、ごめんなさい。」
俺は何も答えられなかった。
鈴の声が、あの日の詩音と重なって聞こえた。
朝の学校は、まだ静かだった。
ガラガラ。
軽音部の扉を開ける。
誰もいない部室。
朝日が窓から差し込み、静かな空気だけが流れている。
部屋の奥。
一台のキーボードが置かれていた。
誰も触れていないはずなのに、今でもそこにある。
俺はゆっくりとその前まで歩いた。
「……詩音。」
小さく名前を呼ぶ。
返事はない。
当たり前だ。
もう二度と、その声が返ってくることはないのだから。
俺はそっと鍵盤へ手を伸ばす。
あと少し。
その距離が、どうしても遠かった。
「……クソ。」
思わず吐き捨てるように呟く。
伸ばした手は小さく震えていた。
俺は慌ててキーボードから手を離す。
「……っ。」
頭の中に、あいつの笑い声が響く。
『信ー!』
『しーん!』
『ほら、ぼーっとしてないで練習するよ!』
「……。」
俺はゆっくりと目を閉じた。
次に目を開けた時、そこは今の静かな部室じゃなかった。
「晴ー! ドラム走ってるー!」
「ご、ごめんって詩音先輩!」
「あはは! 晴は昔から変わらないなぁ!」
部室いっぱいに笑い声が広がる。
窓から差し込む夕日。
楽しそうに鍵盤へ指を走らせる一人の先輩。
日々野詩音。
俺が、初めて「音って楽しい」と思えた人だった。
「よぉーし!」
詩音先輩は大きく手を叩いた。
「今日はここまで!」
「はーい!」
四人は声を揃えて返事をする。
演奏を終え、それぞれ楽器を片付け始めた。
部室には今日も笑い声が響いていた。
片付けを終え、みんなで校門へ向かう。
校門を出たところで、詩音先輩がくるりと振り返った。
「ねぇ!」
「今日みんなで寄り道しよ!」
「出た。」
晴先輩は苦笑いを浮かべる。
「詩音先輩の寄り道。」
「なに?」
詩音先輩は頬を膨らませる。
「文句あるの?」
「別に文句じゃないですよ!」
晴先輩は肩をすくめて笑った。
「ならよし!」
詩音先輩は満足そうに頷くと、私たちを見回した。
「信、美月ちゃん、透くんもいい?」
「詩音先輩に誘われたら、私断れませーん!」
美月先輩は笑顔で手を挙げる。
「俺も用事ないんで大丈夫です。」
透も短く答えた。
「信は?」
突然名前を呼ばれ、私は顔を上げる。
「ん?」
「俺も別に用事ないっす。」
「よし!」
詩音先輩は満面の笑みを浮かべた。
「じゃあ今日は楽器屋さん行こ!」
「新しいピックも見たいし、キーボードも見たいんだよね!」
「また買うんですか?」
晴先輩が呆れたように笑う。
「見るだけ!……たぶん!」
「絶対買うじゃないですか。」
「えへへ。」
その笑顔につられて、みんなが笑った。
あの頃は、それがずっと続くと思っていた。
そんなある日の帰り道。
夕焼けに染まる河川敷。
私は歩みを止め、詩音先輩を呼び止めた。
「詩音先輩。」
「ん?」
振り返った詩音先輩は、いつもと変わらない笑顔だった。
「俺……。」
胸がうるさいくらい鳴る。
「詩音先輩が好きです。」
少しの沈黙。
やがて詩音先輩は、優しく微笑んだ。
「……ありがとう、信。」
その笑顔は、夕焼けよりもずっと綺麗だった。
「よろしくね。」
「これからも、一緒に音楽を楽しもう。」
「詩音ー!待ってって!」
「信が遅いの!」
詩音は振り返り、笑いながら手を振る。
「早く!」
「別に早く行ったって変わんねぇーよ。」
俺は苦笑しながら肩をすくめた。
「もー!」
詩音は頬を膨らませる。
「信はいっつもそんなことばっかり!」
「怒んなって。」
俺は小さく笑って、詩音の隣へ並んだ。
「ほら、あとちょっとだから。」
「行こ。」
「……うん!」
さっきまで膨れていた顔はどこへやら。
詩音は嬉しそうに笑った。
その笑顔を見るたび、自然と俺まで笑ってしまう。
休日になれば、二人でライブを見に行った。
新しいCDを探しに楽器屋へ寄った。
帰り道に気になっていた店でご飯を食べたり、何も決めず海まで足を運んだりもした。
どれも特別なことじゃない。
ただ、一緒に笑って、一緒に音楽を聴いて、一緒に同じ景色を見て。
そんな何気ない毎日が、俺にとっては何より大切な時間だった。
「ねぇ、信。」
海辺の堤防に座りながら、詩音が空を見上げた。
夕日がゆっくりと海へ沈んでいく。
「ん?」
「将来さ。」
詩音は膝を抱えたまま笑う。
「みんなでプロになれたら楽しそうだよね。」
「晴はドラム叩いて。」
「透くんはベース弾いて。」
「美月ちゃんが歌って。」
「信がギター弾いて。」
「私はキーボード。」
「最高じゃん。」
詩音は目を輝かせながら言った。
「……そうだな。」
俺も自然と笑っていた。
「絶対楽しい。」
「ライブ終わったらみんなでご飯行ってさ。」
「ファンの人にサインなんか頼まれちゃったりして!」
「考えすぎ。」
「夢くらい大きくていいじゃん!」
詩音は笑いながら俺の肩を軽く叩く。
「信。」
「ん?」
「信のギターってね。」
詩音は優しく微笑んだ。
「人の心に届く音なんだよ。」
「だから、自信持ちな。」
「……。」
照れくさくて、何も返せなかった。
「ほら。」
詩音は立ち上がり、俺に手を差し出す。
「帰ろ!」
「明日も部活あるし!」
「……はいはい。」
その手を取る。
当たり前のように隣を歩く。
あの頃は、本気で信じていた。
こんな毎日が、これからもずっと続くものだと。
だけど。
その”当たり前”は、ある日突然終わりを迎えた。
それから数日が過ぎた。
「あれ?」
晴先輩が部室を見回す。
「詩音先輩、全然来ないね。」
「信、なんか聞いてないの?」
「……聞いてない。」
俺は首を横に振る。
「ただ、『明日から少し休む』としか。」
「体調でも崩したのかな。」
美月先輩は心配そうに呟く。
「詩音先輩、あんまり休む人じゃないもんね。」
「……あぁ。」
嫌な予感がした。
でも、その時はまだ深く考えていなかった。
「よし!」
晴先輩が立ち上がる。
「今日、みんなでお見舞い行こう!」
「あり!」
美月先輩は勢いよく手を挙げた。
「詩音先輩、きっと喜びますよ!」
「俺も行く。」
透も短く頷く。
俺たちは部活を早めに切り上げ、そのまま詩音先輩の家へ向かった。
ピンポーン。
しばらくして玄関の扉が開く。
「はい。」
出てきたのは、詩音先輩のお母さんだった。
どこかやつれた表情をしている。
「あの。」
美月先輩が一歩前へ出る。
「私たち、詩音先輩の後輩なんです。」
「お見舞いに来ました。」
その言葉を聞いたお母さんは、少しだけ寂しそうに微笑んだ。
「ありがとう。」
「でも……。」
その表情はすぐに曇る。
「あの子なら、家にはいないの。」
「え……?」
晴先輩が目を丸くする。
「やっぱり言って無いのねあの子」
お母さんは私たちを見つめ、小さく息をついた。
「あの子、今……入院しているの。」
その一言だけで、胸がざわついた。
「実はね。」
「少し前に、癌が見つかったの。」
「……え。」
誰も言葉を発せなかった。
「本人が、『みんなにはまだ言わないで』って。」
「心配かけたくないからって。」
お母さんの声は少しずつ震え始める。
「ごめんなさいね……。」
「……は?」
頭が真っ白になった。
何を言われたのか理解できない。
癌?
入院?
どうして。
どうして俺には何も言ってくれなかった。
恋人なのに。
『少し休むね。』
あの時の笑顔が頭に浮かぶ。
全部、嘘だったのか。
いや。
嘘じゃない。
隠していたんだ。
俺たちを心配させないために。
誰も言葉を発せなかった。
さっきまで聞こえていた車の音も、人の話し声も、全部遠くに感じる。
「……そんな。」
美月先輩が小さく呟く。
晴先輩は何かを言おうと口を開くが、言葉にならなかった。
透もただ黙ったまま立ち尽くしている。
詩音先輩のお母さんは、そんな私たちを見て申し訳なさそうに頭を下げた。
「ごめんなさいね。」
「本当は私も、すぐにみんなには伝えたかったの。」
「でも、あの子が……。」
『絶対に言わないで。』
『みんなに心配かけたくないから。』
『特に信には。』
その言葉を聞いた瞬間、心臓が大きく跳ねた。
「……なんで。」
気づけば声が漏れていた。
「なんで俺にまで……。」
お母さんはゆっくり首を横に振る。
「あの子ね。」
「『信は優しいから、全部投げ出して私のそばに来ちゃう』って言ってたの。」
「だから、最後まで言えないって。」
「そんなの……。」
そんなの、勝手すぎる。
俺は何も知らずに昨日まで笑っていた。
「信。」
晴先輩がそっと肩に手を置く。
「……病院、行こう。」
俺は何も答えられなかった。
ただ、小さく頷くことしかできなかった。
病院へ向かう道のりは、不思議なくらい静かだった。
誰も口を開かない。
いつもなら晴先輩が何か面白いことを言って笑わせてくれる。
美月先輩がそれにツッコミを入れて、透が小さく笑う。
そんな帰り道が当たり前だった。
でも今日は違った。
誰も笑わない。
誰も前を向けない。
俺の頭の中では、詩音の笑顔だけが何度も浮かんでは消えていく。
『信!』
『またライブ行こ!』
『信のギター、大好き。』
「……。」
気づけば拳を強く握りしめていた。
どれくらい歩いただろう。
大きな総合病院の前で、晴先輩が足を止める。
「……ここか。」
俺たちはゆっくりと病院の中へ入った。
消毒液の匂いが鼻をつく。
受付で病室を聞き、エレベーターへ乗り込む。
誰一人、言葉を発しなかった。
チン。
静かな音とともに扉が開く。
病室が並ぶ長い廊下。
一歩、一歩。
足を進めるたびに胸が苦しくなる。
「ここ……。」
晴先輩が病室のプレートを見つめ、小さく呟いた。
『日々野 詩音』
その名前を見た瞬間、足が止まる。
「信。」
晴先輩が俺を見る。
「……入るぞ。」
俺はゆっくりと頷いた。
ガラッ。
静かに扉を開ける。
窓際のベッドに座っていた詩音は、少し痩せた頬と、腕に繋がれた点滴だけが、現実を突きつけていた。
俺は何も言えなかった。
ただ、詩音を見つめることしかできなかった。
「え?なんでみんな居るの?まさか!」
「あーあ。」
詩音先輩は困ったように笑った。
「言わないでって、お母さんにお願いしてたのになぁ。」
「もう、お母さんったら。」
いつもと変わらない笑顔。
いつもと変わらない声。
だけど、その笑顔が今は苦しかった。
「詩音。」
気付けば俺は一歩前へ出ていた。
「なんで。」
声が震える。
「なんで俺にも言わなかったんだよ。」
病室が静まり返る。
詩音先輩は少しだけ目を伏せ、小さく笑った。
「だって。」
「信、絶対泣くじゃん。」
「……。」
「部活もギターも放り出して、毎日ここに来ちゃいそうだし。」
「そんなこと……。」
「するよ。」
詩音先輩は俺の言葉を遮るように言った。
「信はそういう人だから。」
俺は何も言い返せなかった。
詩音先輩は優しく微笑む。
「だから言えなかった。」
「……。」
「信はね。」
少しだけ寂しそうな顔をする。
「きっと私なんかより、もっと素敵な人に出会える。」
「だから……。」
「話を逸らすなよ。」
思わず声を荒げてしまった。
「そんな話、今してねぇだろ。」
「俺が聞きたいのは、なんで一人で抱え込んだのかってことだよ。」
詩音先輩の笑顔が、少しだけ崩れた。
病室に静かな沈黙が流れる。
詩音先輩は窓の外へ視線を向け、小さく息を吐いた。
「……怖かったの。」
その一言は、今にも消えてしまいそうなくらい小さな声だった。
病室に静かな時間が流れる。
詩音は窓の外を見つめたまま、ゆっくりと口を開く。
「最初はね。」
「すぐ治るって思ってた。」
「またみんなと部活して。」
「また信と一緒に音を合わせられるって。」
詩音は少しだけ笑う。
「でもね。」
「検査をするたびに、先生の話を聞くたびに……。」
「少しずつ分かっちゃった。」
その笑顔が、少しだけ寂しく見えた。
「私ね。」
「みんなの夢まで止めちゃうんじゃないかって。」
「それが、一番怖かった。」
誰も言葉を挟まない。
晴も、美月も、透も、ただ黙って詩音の話を聞いていた。
「だから言えなかった。」
「信は優しいから。」
詩音は俺を見つめる。
「私は、信に笑ってギターを弾いていてほしかった。」
「だから隠したの。」
「……。」
俺は拳を強く握りしめる。
何も言えない。
言葉が出てこない。
詩音は少しだけ目を細め、優しく笑った。
「信がギターを弾けなくなるのが、一番怖かった。」
その一言が、胸の奥へ深く突き刺さる。
俺はゆっくりと首を横に振った。
「そんなこと……。」
「絶対ない。」
言い切った。
その時の俺は、本気でそう思っていた。
まさか。
その約束を、自分で破る日が来るなんて。
あの頃の俺は、まだ知らなかった。
それからというもの、俺たちは毎日のように病院へ通った。
部活が終われば晴先輩、美月、透と一緒に病室へ向かう。
「みんな来た!」
詩音はいつもと変わらない笑顔で迎えてくれた。
「今日は部活どうだった?」
「晴、ちゃんとリズムキープできた?」
「美月ちゃん、歌は?」
「透くん、また無口だった?」
「信、ちゃんとギター弾いてる?」
病室なのに、そこだけはいつもの部室みたいだった。
みんなで笑って。
たわいない話をして。
音楽の話で盛り上がる。
誰も口には出さなかった。
“またみんなで演奏しよう。”
その言葉は、みんなの心の中にあった。
だけど。
少しずつ。
本当に少しずつ。
詩音は病室のベッドから起き上がることが少なくなっていった。
笑顔は変わらない。
でも。
頬は少しずつ痩せていき。
腕も細くなっていく。
「詩音……。」
その姿を見るたび、胸が締めつけられた。
ある日。
晴先輩、美月、透はそれぞれ用事があると言って、先に帰った。
「じゃあ信、また明日な」
「詩音先輩、またね」
「無理しないでくださいね」
病室に残ったのは、俺と詩音だけだった。
静かになった病室で、詩音はゆっくりと俺を見つめた。
「信。」
「……ん?」
詩音は小さく息を吸う。
「信、別れよ。」
「……は?」
突然の言葉に、頭が真っ白になる。
「なんだよ、急に。」
詩音は無理に笑顔を作った。
「信はまだ高校一年生だから。」
「きっと私なんかより、もっといい人いるよ。」
「ふざけんなよ。」
思わず声が大きくなる。
「俺は別れない。」
詩音は少しだけ目を伏せる。
「……じゃあ。」
「他に好きな人ができたから別れて。」
「なんだよ、それ。」
「嘘つくなって。」
「……。」
詩音は何も答えない。
その沈黙が、余計に胸を締めつける。
「嘘でもつかないと……。」
詩音の声が少しだけ震えた。
「信は別れてくれないでしょ……。」
目には涙が浮かんでいた。
「だから。」
「最後のお願い、聞いてよ。」
「最後ってなんだよ。」
その言葉に、詩音の肩が小さく震える。
俺はそれ以上、その場にいることができなかった。
「……っ。」
俺は病室を飛び出した。
ガラッ。
勢いよく閉まった扉の音だけが、静かな廊下に響く。
「はぁ……。」
頭の中がぐちゃぐちゃだった。
『信、別れよ。』
『最後のお願い、聞いてよ。』
「……。」
なんでだよ。
なんでそんなこと言うんだよ。
俺はそのまま病院を飛び出した。
外はもう暗くなっていた。
冷たい夜風が頬をかすめる。
それでも頭の中には、詩音の言葉だけが何度も繰り返されていた。
家へ帰っても、何も手につかなかった。
制服のままベッドへ倒れ込む。
天井を見つめながら、小さく呟いた。
「……最後って、なんだよ。」
目を閉じても眠れない。
詩音の笑顔。
詩音の涙。
病室で震えていた声。
全部が頭から離れなかった。
「明日。」
「明日ちゃんと謝ろう。」
「ちゃんと話を聞こう。」
「そしたらきっと、また笑ってくれる。」
そう自分に言い聞かせるように呟き、いつの間にか眠りについていた。
翌朝。
ピリリリリ。
スマホの着信音で目が覚める。
画面には、
『日々野さん』
と表示されていた。
「……もしもし。」
電話の向こうから聞こえてきたのは、昨日とは違う、震えた声だった。
『信くん……。』
『ごめんね、朝早くに。』
「どうしたんですか?」
嫌な予感が胸を締めつける。
短い沈黙。
そして、お母さんは涙を堪えるように声を震わせた。
『詩音が……。』
『さっき、息を引き取ったの。』
「……え。」
その一言が理解できなかった。
頭の中が真っ白になる。
『昨日の夜ね。』
『信くんのこと、ずっと呼んでたよ。』
スマホを握る手から力が抜ける。
「嘘……。」
信じたくなかった。
だって、喧嘩して飛び出したまま、ちゃんと向き合えないまま終わっただけだった。
「詩音……?」
俺は急いで病院へ向かった。
靴ひもがほどけても構わず走る。
信号なんて目に入らない。
息が苦しい。
足が痛い。
それでも止まれなかった。
「あんな最後……。」
「俺は望んでねぇよ……。」
頭の中では、昨日の出来事が何度も繰り返される。
『信、別れよ。』
『最後のお願い、聞いてよ。』
「違う……。」
「ちゃんと謝るんだ。」
「ちゃんと話すんだ。」
「だから……。」
気づけば病院へ着いていた。
エレベーターへ飛び乗り、震える指で階数のボタンを押す。
チン。
扉が開く。
俺は病室まで駆け出した。
「はぁ……はぁ……。」
病室の前で息を整える暇もなく、勢いよく扉を開ける。
ガラッ。
そこには。
ベッドを囲む詩音のお母さん。
晴先輩。
美月。
透。
四人が静かに立っていた。
誰一人、顔を上げない。
「……。」
「なんだよ。」
誰も答えない。
「嘘だろ。」
乾いた笑いが漏れる。
「どうせ昨日言い過ぎたから……。」
「詩音が考えたドッキリなんだろ?」
「なぁ。」
「そうなんだろ?」
返事はない。
静かな病室に、心電図の音ももう聞こえなかった。
その静けさだけが、残酷な現実を突きつけていた。
「……詩音。」
俺はゆっくりとベッドへ近づく。
一歩。
また一歩。
足が鉛のように重い。
「起きろよ。」
「こんなの全然面白くねぇよ。」
震える手をそっと伸ばす。
詩音の手に触れた瞬間、息が止まった。
「……っ。」
冷たい。
昨日まで握り返してくれた温もりは、もうどこにもなかった。
「なんで……。」
喉の奥が熱くなる。
「昨日……。」
「俺、あんな終わり方したくて帰ったわけじゃねぇんだよ。」
返事はない。
「ちゃんと謝るつもりだった。」
「今日また来て。」
「話の続きをするつもりだった。」
「だから……。」
「起きろよ。」
どれだけ名前を呼んでも。
どれだけ願っても。
詩音は静かに眠ったままだった。
膝から力が抜け、その場に崩れ落ちる。
「ごめん……。」
昨日、病室を飛び出した自分が頭から離れない。
『最後のお願い、聞いてよ。』
あの言葉だけが、何度も何度も胸に突き刺さる。
「信くん。」
詩音のお母さんが涙を拭いながら、ゆっくり俺の隣へ来た。
「これ……。」
一通の封筒を俺に差し出す。
「詩音がね。」
「もしもの時は、信くんに渡してほしいって。」
俺は震える手で封筒を受け取った。
表には、見慣れた優しい字で書かれている。
『信へ』
「……。」
封筒を見つめる。
開かなきゃ。
そう思うのに、指が動かなかった。
今これを読んだら。
本当に詩音がいなくなったことを認めてしまう気がした。
俺は何も言わず、その封筒を胸に抱きしめた。
――それ以来。
俺は一度も、その手紙を開いていない。
「……。」
ゆっくりと目を開ける。
目の前には、誰もいない軽音部の部室。
朝日が窓から差し込み、静かな空気だけが流れていた。
さっきまで触れようとしていたキーボードは、今もあの日と変わらず部屋の奥に置かれている。
「詩音……。」
小さく名前を呼ぶ。
返事はない。
返ってくるはずもない。
俺はギターケースのポケットにそっと手を入れる。
指先が触れたのは、少しくしゃくしゃになった一通の封筒。
何度も持ち歩いて。
何度も開こうとして。
そのたびに閉まったままになっている。
表には、今でも変わらない詩音の字。
『信へ』
「……まだ。」
「読めねぇよ。」
小さく呟くと、封筒をポケットへ戻した。
その時だった。
ガラガラ。
静かな部室に、扉の開く音が響く。
「……あ。」
振り返ると、そこには鈴が立っていた。
少し緊張した表情で、俺を見つめている。
「あの……。」
鈴は深く頭を下げた。
「昨日は、ごめんなさい。」
俺は何も答えられなかった。
鈴の声が、あの日の詩音と重なって聞こえた。