柩雨夜 ―終わらぬ梅雨、願わくば君に愛と枷を―
 尊さんは動かない。
 けれど、背後に下がらせたままの私の手を、彼は再び強く握った。

「芸がないね、またそれ? 僕を切ったときのと同じじゃないか」
『黙れ!!』
「切れないと思う。あのときと違って、あんたにもその小刀にも実体なんてない」
『うるさい……うるさい!! もう要らない……お前も絵馬ももうどうでもいい、その女ごと消えろッ!!』

 最後の言葉とともに、耳の傍でひゅんと風を切る音がした。
 目の前で刃物を振り回す男は、すでに正気を保てていない。そもそも、姿を現した当初から正気とは呼べない状態だった。

 ひ、と掠れた声が零れ、私は反射的に尊さんの背中へしがみつく。
 尊さんは、護さんにもあの小刀にも実体がないと言った。それなのに、彼が今も緊張した様子で私を背に隠し続けている理由は。

『君は、まさか』

 実体がないから切れない――本当だろうか。
 仮に、護さんにも刃物にも実体がないとして、それが切れない証明になるだろうか。現に私は、実体がないはずのこの寺院で、紡がれるはずのない時間をこの身に重ねている。

 ぞわりと背筋が粟立った。
 はっと振り返った先、直前まで前方にいた護さんが、私の真後ろで刃を振りかざしていた。

「っ、きゃあぁぁッ!!」
「明日名ッ!!」

 強く手を引かれたのと、私の首筋目がけて繰り出された刃先が微妙にずれたのは、おそらくほぼ同時だった。
 首を掻き切るまでに至らなかった刃は、それでも私の肩を捕らえていた。灼けつくような痛みが突き抜け、私の頭はたったひとつの思考を残して真っ白になる。
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