柩雨夜 ―終わらぬ梅雨、願わくば君に愛と枷を―
『小さい頃はできるだけ外に出たくなかった』

 いつか、他愛ない話をしていたときに聞いた尊さんの声が、不意に脳裏をよぎる。
 特異な外見のせいで誰とも会いたくなかったと、あの日、尊さんは言った。もしかしたら、それは家の外の話に限らなかったのかもしれない。なぜなら今、小さな尊さんを庇っているのは護さんで、護さんは目の前の男を『父上』と呼んだのだから。

 実の父親からの暴力、罵声、暴言。尊さんを襲うそれらから、身を挺して尊さんを庇っていたのは、彼のお兄さん……護さん。
 父親と対峙する護さんの肩は、見るからに震えていた。彼だって怖いに違いない。にもかかわらず、護さんは尊さんを庇い続けている。

 ほどなくして、父親は苦い顔をしながらその場を立ち去った。
 溜息を落とした護さんは、尊さんを振り返り、気の抜けたような顔を向けた。そして弟の右頬へ手を伸ばす。良かれと思ってそうしたのだろうけれど、尊さんは露骨に顔を歪ませた。

『っ、やめろ。痛いから触るな』
『もっと早く来れば良かった。ごめんな』

 頭の中に流れ込んでくるのは、入り乱れた複数の感情の塊だ。
 感謝。羨望。嫉妬。悲哀。諦念。期待。いくつかは矛盾している思考だったけれど、すべてが尊さんの抱える感情だと分かる。
 そのどれもを、尊さんは声に出さなかった。きつく口を引き結び、涙など零すまいとただ耐えている。そんな尊さんを、護さんは困った様子で、けれど確かに優しく見守っていた。

『腫れてきてるな。早めに手当てしてもらったほうがいいぞ』
『いや、自分でする。最近、痛み止めの作り方も習ったんだ、すごく苦いやつ。お前も飲んでみる?』
『要らねえよ!』

 軽口を交わしつつ、護さんは尊さんに笑いかけて手を差し伸べる。尊さんも、腫れかけた頬を緩ませながら、護さんの手を取って身体を起こした。
< 137 / 185 >

この作品をシェア

pagetop