柩雨夜 ―終わらぬ梅雨、願わくば君に愛と枷を―
 あの直後に、この絵馬に名を記すことは――死を選ぶことはできなかった。
 想像通りではあったが、妊娠が判明したためだ。

 勉学に仕事にと忙しく走り回っていた娘も、今より二十年近く前に結婚した。そのとき絵馬に名を刻もうかと考えたが、人間とは欲張りな生き物だ。孫の顔をと思えば一年、その成長をと願えばまた一年と月日が過ぎた。

 加えて、生まれてきた孫は、隔世遺伝とでもいうのだろうか。

「ばあちゃん」

 まるで生き写しだ。
 この子が幼い頃から兆しはあった。それを知ってからは、自ら黄泉へ足を向けるのが余計に惜しくなってしまった。

 さしたる病気や怪我にも見舞われずすくすくと成長した孫は、今では当時のあの人と変わらない外見になった。とはいえ、目が弱った今の私には、すでに孫の姿を目に留めることすらままならないけれど。

 名付け親を任されたとき、あなたと同じ名前をつけなくて本当に良かった。
 そんなことをしていたら、この絵馬にあなたの名を刻むのが、さぞかし困難になっただろうから。

「ああ、来たね。お願いね」

 絵馬の奉納は、孫に任せることにした。
 手渡した絵馬に視線を走らせ、小さく頷いたらしき孫は、最後にじっと私の目を見てから病室を立ち去った。

 私たちの儀を執り行う祭祀者の役には、おそらくは娘よりもあの子のほうがふさわしい。
 優しいあの子が、そしてあの子の親たちが下手に思い悩まずに済むよう、儀に関する詳細は家族にはひとつたりとも告げていない。そもそも、今となってはそれ自体が、歴史の最も深い場所に沈み込んだ言い伝えや迷信の一種でしかないのだ。

 だから、私とあの人が知っていれば、それで十分。
< 152 / 185 >

この作品をシェア

pagetop